Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

日産書房  『赤蛙』 を読む

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目下、一番好きな古書。
島木健作『赤蛙』 日産書房刊 昭和23年の初版本です。

島木健作さんが亡くなられたのが昭和20年8月17日だから、これは遺作集。

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美しい本でしょう? 

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島木作品は、作者が亡くなって61年経つのでいくらでもネットで読めます。
でも古い人間ですゆえ『本』で読みたいの、出来れば旧かなの古書でね。

本文の用紙は薄い和紙です。

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誰だ~っ「経本みたい」って言うのは。(笑)
薄い紙なので裏の字が透けてる。

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手に取っても非常に軽い、これがまた古書の好きなところ。

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手触りも抜群だから、繰り返し繰り返し愛読したい本としては最高なのですよ。

 

    


島木健作、遺稿の動物短編小説四作品「赤蛙」「黒猫」「むかで」「ジガ蜂」は大好きだから、
既に備忘録は記したと思ってた。でも、書いてなかった。。。

【赤蛙】

この作品は、島木氏が結核で「寝つきりに寝つくやうになる少し前」に行った修善寺での話。
劣悪な部屋や宿の対応に嫌けをさしながら、他の宿を探してみようという気力さえなく、
帰る決断もないまま悶々と滞在しています。
「温泉そのものは病気にも却って悪いので、ただ静かな環境にひとりでゐることを欲した」
そんな旅なのに、一日中陽の射す気づかいのない部屋は、持ってきた本を読むのに苦労するほどの暗さ。
自然、飯時以外は外をぶらつくことが多くなり、その日も桂川の流れに沿って歩き、疲れたので石に座って川を見ていました。中洲の上にふと一つの生き物を発見。気をとめてよく見ると、それは赤蛙。
赤蛙は渓流を渡ろうと飛び込み、押し流されては、また元に位置に。と何度も何度も繰り返していた。
辺りを見れば、もう少し楽に渡れそうなところもあり、何もこの場所でなくても良さそうなものをと。
しだいに赤蛙の行動に釘づけになっていく筆者でした。

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島木健作の『赤蛙』は、どうかすると志賀直哉の『城の崎にて』と比べられることがあるわよね。
動物の殺生ばなしに極端に弱いワタシにとって、高校生の教科書に載っていた『城の崎にて』はとても辛かった。

 「どうして あんな 作品から、何かを学ばなきゃいけないの?」
 「情緒を育む大切な時期に、教材として如何なものかしら?」

本気で思ったの、思春期でしたから。。。。
鼠のシーンはしっかりトラウマとなってしまい、『城の崎にて』に拒絶反応。
別にねぇ、志賀直哉さんが鼠を殺したわけではないんだけど。

それから40年。
島木健作の『赤蛙』に出会い、それをキッカケに『城の崎にて』再読しました。
『城の崎にて』。。。。志賀直哉さん、うん、確かにウマいなあ。
高校生の時には判らなかった、“静かで 淋しい 念い” しっかり受け止められました。
文章のリズムも素晴らしい。展開の速さも小気味よい。
いつもながら志賀直哉さんの描写がウマいから、やはり鼠の部分は辛かった。大人になっても。
死んだ蜂の脇を這いまわる忙しそうな 生きた 蜂たちが冷淡に見えるという記述や、
3日目の大雨で流された蜂の死骸が、

「外界にそれを動かす次の變化が起こるまでは死骸は凝然と其処にしてゐるだらう」

という文章が凄く印象的で染み入ります。
驚かそうと思って投げた石で、蠑螈を殺してしまった話を読んだ時には、
得体の知れない棘のようなものが心に刺さりました。

「蟲を殺すことはよくする自分であるが、その氣が全くないのに殺して
 了つたのは自分に妙な嫌な氣をさした。
 素より自分の仕た仕事ではあつたが如何にも偶然だつた。
 蠑螈にとっては全く不意な死であつた。
          ~中略~ 
 可哀想に思ふと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。」


変な話だけど、志賀直哉『城の崎にて』を較べ読みしてみて、『赤蛙』の印象が変わったように思います。
「ああ、この辺が『赤蛙』の良さなんだ」と、認識が新たになったというか。
志賀直哉は、『城の崎にて』を書いた時には、一命をとりとめた後で、動物の死を客観的に見られたんじゃないかしら。
一方、島木健作は、一連の小品 ( 『赤蛙』『黒猫』『むかで』『ジガ蜂』 )を書いた時分は、既に病状も思わしくなく『自らの死』を意識していたことでしょう。
赤蛙、黒猫、むかで、ジカ蜂 と、恐らくそんな順番で書かれていったと思うけど、
どれも動物の生死に寄り添っている感じがするんです。
修善寺桂川の赤蛙は、何度も何度も岸に泳ぎつこうと繰り返し、最後には力尽きて死んでしまうんだけど、島木氏は、この赤蛙に意志を見出してます。死に直面しながらも、文学への探求心を持ち 努力し続ける、そんな自分自身を重ね合わせたんじゃないのかなあ。

立ち位置の違う作家を並べて語るのは、エラく乱暴な話だし、
どちらが良いとかウマいとか、そういう話じゃないけれど、
今のワタシは、赤蛙を見つめる島木さんの目線に、ぐっとくるものを感じています。

『赤蛙』~まるさんの資料置き場