昨日 小島政二郎さんの「食いしん坊」のことをお話した 折に、上野の常盤というお汁粉屋さんの場所が気になって
その後も調べていたんですが、どうも先日推察した場所とは違うような気がしてきました。
そして調べていくうちに…
ワタシのバイブル 東京紅團さんのサイト に、常盤についての記事があったんです。( 流石です )
東京紅團の神田さんは芥川龍之介繋がりで掘り起こしていらっしゃる。 ( なるほど )
氏の「芥川龍之介」⇒「しるこ」には、「食いしん坊」にも書かれてる、久保田万太郎さんの記事もありました。
それから凄く貴重な地図が出典されていて、そこには≪トキワシルコ≫ とハッキリ書かれてる。
この資料は、「古老がつづる~台東区の明治・大正・昭和」といって、
地図は明治42年に広小路に生まれ育った斎藤清太郎さんの記憶に基づき作成されたものだそうです。
ワタシも実際にこの冊子を手に取ってみたくなりました。
じゃ~ん。
冊子は、台東区教員委員会が 昭和56年に発行したもの。
絶版なので古書店から購入。
写真も豊富で、地元に生まれ育ち住んでいらっしゃる明治生まれの方々からの
豊富なお話が聞き書きで掲載されている。
「あ~、もっとお爺ちゃんに聞いておくんだったな」
神田生まれのお爺ちゃんに、当時の様子を聞いておきたかったと、一度ならず思ったものです。
なので、こういう取組みは非常にありがたく、貴重に思います。
ありました。大正7年ころの上野広小路付近の地図。
そしてほら。トキワシルコとあるじゃないですか。
広域図 ↓↓
斎藤清太郎さんのお話では、
松坂屋の本店脇の通り ( 青石横町 ) は、大正7年当時は鍵の手になっていて、まっすぐじゃなかったんだって。
試しに、大正5年の地図と見比べてみますと、ぴったり。
資料名: 改正番地入東京市全圖改正町名市區改正
年 代:1916年 ( 大正5年 )
作 成:雄文館 伊藤為次郎
上記の地図から考えると、常盤の場所は、
「東黒門町」の「東」と書いてあるブロックじゃないかしら。
して、その番地は…字がかすんでいるけど、20番地?
資料名: 改正番地入東京市全圖改正町名市區改正
年 代:1913年 ( 大正2年 )
作 成:金松堂 安藤力之助
昭和22年の地図では、大正の頃に鍵の手だった通りがまっすぐになっている。
「食いしん坊」にもあるように、常盤は関東大震災で無くなってしまった。
その跡地は、東海銀行のマークが付いているあたりかなあ。
資料名: 東京都区分図台東区詳細図
年 代:1947年 ( 昭和22年 )
作 成:日本地図株式会社 植野録夫
昭和35年には、松坂屋が、東黒門町のブロックまで拡大しています。
資料名: 東京都市計画図台東区
年 代:1960年 ( 昭和35年 )
もうひとつ。
一番最初の斎藤清太郎さんの地図に、貴重なてがかりが…。
常盤のあったブロックに「歯磨き広告塔」と書いてあります。
調べてみたら、これ、結構有名なデッカイ鉄塔だったようで、
大震災で焼け野原になったこの辺りに、
松坂屋の壁と、広告塔だけ焼け残っていたみたい。
当時の様子が描かれた絵葉書を見つけました。
写真に色づけしたものと思われますが、上野駅の方から、神田方向を見た広小路。
松坂屋の屋上 ( 左手の白い壁から推察 ) から撮ったんじゃないかしら。
地図の通り、ライオン歯磨きの鉄塔があるブロック ( 東黒門町20番地 ) は、松坂屋のブロックより斜めに飛び出していますよね。
じゃ。ライオンの鉄塔の1 2 3 軒隣に写っている竹塀の店構えは、、、
探し求めていた「常盤」じゃ、ないでしょうかね。
常盤は惜しいことに、大地震の時焼けて、それきり復活しなかった。上野公園の方から神田へ向かって行くと、松坂屋の方の側で、松坂屋とは横町を一つ隔てて、先隣と言ってもいいような位置にあった。電車通りではあったが、あすこは地形上道幅が広く、それに店構えがやや斜めにホンの少しばかり上野公園の方に向いていたせいか、座敷へ通ると、静かだった。(中略)
太い竹を二つに割って、それを隙間なく並べて、黒い棕櫚縄 ( しゅろなわ ) の結び目を見せた塀が高く往来に面していた。