garadanikki

日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

百花文庫で島木健作『土地』を読む

※ 当Blogの画像はクリックすると大きくなります。

 

百花文庫にハマってしまい、次に入手できたのが、島木健作著 『土地』でした。

 

f:id:garadanikki:20150104124331j:plain不勉強ながら、島木健作は初めて知るところで、何の予備知識もないまま読みはじめ、のめり込んだ。


至極 読み易く、登場人物に対する表現が端的でわかりやすい。

主人公の態度に「人間こうあるべし」と共感してしまうが、ラストのどんでん返しも心地よい。未開発地の土地の払下げを管理する役人である主人公 ( 最上啓助 ) が、翻弄されるストーリーは、今でいえば『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』( 半沢直樹 ) に匹敵する。何が起こるか気になって、ページをめくるのももどかしい、ワクワク感をあたえてくれる。⇒(笑)ちょっとオーバー?

いやいや大袈裟ではない。

同僚の仲田が、実は新聞記者であることが分かり、地元有力者の土地に絡むダークな噂が明らかになるあたり、ワクワク感の加速度がマックスになる。

…と…こ…ろ…が…
ノリに載ってきたところで、この本は終わる。
物語は、最上が仲田から新聞記者であることを明かされ「不正を知ってしまった以上、君も他人の言動を見てみぬふりは出来ないんだよ」というようなことを言われて終わる。本文はこんな感じ。

仲田はぽつり、と呟( つぶや )くやうに言つた。「天下國家の利害休戚( きゅうせき/喜び悲しみ ) に關して必要あるに非る限りは、他人の事に空しく心思を費やすな、他人の言動及び思想を臧否 ( ぞうひ/よしあしを批判 ) するな、揣摩 ( しま/他人の気持ちを推量 ) するな、とね。他人の事に空しく心思を費やさぬこと、君の如き人物を俺は未だ嘗て知らない。しかしそれは『公共の利害休戚に驅 ( か/駆 ) られぬ限り』なんだ。君はすでに驅られはじめた。他人の言動、思想を揣摩憶測したり、臧否したり、せぬわけにはいかなくなつて來た。喜ぶべきか悲しむべきかを知らない。ただある意味で誰よりも暢氣で氣樂だつた君は、今後は誰よりも心思を勞する人になるだらう。」
十分の後、最上は仲田の家を辭した。
島木健作著『土地』百花文庫 p142より



本当に「あれっ」と思う結末なので「遺作 ( のひとつ ) だそうだから、未完の書を引き当ててしまったのかも知れない」と思った。しかしよくよく読み返してみると、人を疑わず人の良いところを見て生きてきた主人公に、楔 ( くさび ) を打ち込んだ形で決着つけてあるから、作品は完結したとみていいのかも知れない。

明治時代の北海道の土地問題に、共産主義思想の作家として、鋭い切り口をあてたところに興味が湧き、明治の土地制度を調べてみたくなった。読了して有島武郎の農地解放の話を思い出したが、有島武郎が小作農家に同情を寄せていた理由や背景が、この『土地』という小説で理解できたこと、皮肉にも面白いと思った。

f:id:garadanikki:20150104124333j:plain

【登場人物像】

物語の舞台は北海道。

主人公-最上啓助は、本土(東北あたりの)の貧しい農家の出身で、朴直な性格が校長をはじめ教師たちに好感をあたえ、成績が抜群だったこともあり、大学に進む為の後押しをされる。所謂“大人受け”のする彼は、北海道の農科を卒業した後も、役所で主任の國井に可愛がられる。

役所の主任、國井は人当りのいい上司で、一つの部署に一年か二年いて、次々に栄転していく大学出とは異なり、今の課に二十余年も務め、仕事の実際に通暁していることでは彼にかなうものはない程、頼りにされた叩き上げの人物。

同僚の仲田は、最上と同年代ながら中学中退で、陰鬱で皮肉屋であるところから誰からも疎まれてる。しかし唯一啓助だけは、仲田を他と同様に接している。

【あらすじ】

最上啓助は、苦学の末、北海道の役所に勤めている。啓助が、役所の出張に出る数日前、主任の國井に酒を誘われる。國井は、つきあいの広い好人物で“國井からの酒の誘い”というは誰もが目をかけられたと喜ぶことのようである。酒席の國井は闊達で、若い頃から向き合っている土地問題に対する話に終始し楽しいものだった。

「三十年と一口にいふが、實際に長いからねぇ。それも一つ役所の一つ課の、一つ係りの椅子の上だからねぇ。尻が腐りかけるまで坐りつづけてしまつた。それが僕のたつた一つの取り柄といふことになつてしまつた。…」  彼は感慨深げに言つた。それは嘘いつはりのなし彼の心情だつたが、さういう追懐に耽 ( ふ ) つて見せる人にありがちなやうに、卑下してゐるやうな言葉のはしから、得意氣な自己滿足が聞かれぬこともなかつた。今まで澤山の最上の若い同僚がおなじ人の口から々追懐を聞かされただらう。口下手なぼんやりものでさへもその自己滿足な氣持に取り入ることをしただらう。さういふ人生こそが尊いりだ、どんな世間的な成功者よりもそれは尊いのだ、といふやうなことを面と向つて言つたものもあるかも知れない。媚びられてゐると知りながらそれは結構この老官吏 ( かんり ) --老といふのは實はあたらない、まだまださかんな活動力に滿ちみちてゐる彼なのだが--を喜ばせただらう。しかし最上は何も言はなかつた。そして默つて聞いてゐるだけの彼の方が、誰よりも話し手の心をよく汲み取り、素直な氣持で聞き、あとで陰へまはつて嘲笑的な批評などはせぬだらうといふことが、--ある質實な人間の感じが、眞直ぐ、國井の心には來るのだつた。 國井に、役所が面白いか聞かれた最上は…。 「さあ、どういつたらいいものでせいか。」と、最上は答へやうがないやうな調子で答へた。面白いとも面白くないともいへなかつた。そんなに面白いとも思つてゐないことは事實だつた。 しかかしさういふことをそれほど問題にしてはゐないのである。面白いとか面白くないとか、自分の意に適ふとか適はぬとか、さういうことを標準にしてはゐないのである。してはならぬと戒めてさうなのではなくて、もつと自然な結果としてさうなのである。それは為事に對する無関心を意味するものでもなく、青年らしくもなく、自己を尊重する精神に欠けてゐるためでもなかつた。 為事そのものについていへば、恐らく彼は誰よりも熱心だつた。彼は人よりも忍耐強いのであつた。黙つて耐へつつ事をする、といふのがどんな場合にも先ず彼のして來たことであつた。少年時代から普通の學校出とはちがつたやり方で學生生活を送つて來たといふこともある。しかしもつと根本的なもののは彼の出身である農民氣質であつた。面白くても面白くなくても、どんなに短くてもまる一年は耐へて待つて見なければならぬ農民生活に先祖代々養はれて來たものは、學校を出、役所へ入つて後までも彼を支配してゐるのであつた。そのためにある種の人々の眼からはのろくさくさへ見えることもあつたであらう。
島木健作著『土地』百花文庫 p.16より


そんな國井が帰り際、妙なことを言った。最上が担当している土地払下げ願いのなかに、武井幸太郎の案件について、決定を急いで欲しいという話だった。こり出願者は、道内に古く相当な有力者でもあり、身元もよく知れているから詳しい調べの必要はないというのが、國井の意見だった。その話はその場限りのものだったが、心にかかった最上は、かえって武井何某の背景が気になり出す。

最上の出張の日がやってきた。最上は、2~3の開墾地の、土地開発の進捗の実情を調査しに出かけるが、現地で払下地の不平等さを目の当たりにする。
支庁の担当者の話では「東京の華族や大名や実業家連中が、交通の至便な、肥沃な土地を払い下げられ、反対に交通の不便な石ころの山地に個人の入植者 ( 百姓 ) を入れて、無駄骨に近い苦労をさせている。」ということである。金持ち権力者の中には集団的に移住民を招致して、どうにか恰好をつけているものが少数。ひどいのになると、お上の調査が入る時だけ、柵を作って牛を飼い、調査が終われば牛を売り、ただ価格上昇時の転売目的の輩も多いらしい。
視察の結果、最上は不正に絡む人物と、國井が押す武井という人物がつながっていることを知る。
出張から戻った最上が立ち寄った酒場で、偶然仲居と出会い酒をくみ交す。誘われるまま立ち寄った仲居の家で「役人は仮の姿で、実は新聞記者である」旨を告げられる。仲田は、権力にこびない気骨ある新聞として誰もが認める北門旬報の一員で、最上の愛読する「寸馬豆人」という痛快な短評欄を書く筆者だった。

【北海道 未開発地の処分制度の変遷】

当時の北海道の未開発地の処分方法は、段階的に変化していた。
最初の段階は、それ以前に行われた土地売貸規則を制定実施することになった明治19年から30年までの間だった。新しい処分法によれば、土地は無償で出願者に貸下げられ、借受人が予定の土地開発に成功した後、千坪一円の価格で払い下げるというものだった。土地面積は一人に対し10万坪が最大限度だったが、大事業でそれ以上の土地を必要とする時は特にその払下げをする事もあるという風に例外が規定されていた。貸下の期間は10万坪以下10年以内、6万坪以下8年以内というように決められていた。つまり期間内に予定の事業を行わなければならないという仕組み。事業遂行の監督は一年単位で行われ、毎年その年に行うべく仕事を定め、その結果を報告しなければならないことになっている。もし怠っていた時は、事業に成功した土地を除いてその他は返納を命じられる。返納地の樹木が伐採されていた時は、伐採代価を払わなければならない。以前の規則に色々不備があったため、新しい規則が出来たが、それも後から思えば、法の抜け道がある始末。

 第二の段階は、明治三十年に新しく北海道国有未開地処分法が制定され、今までの土地払下げ規則が廃止された時から、明治41年に未開地処分法が改正されるまでだった。この時期の特徴は、大資本の移入によって拓殖事業を発展させようとする政策が一層顕著に推し進められたことで、それは日清戦争後の産業界の機運と資本の保護政策とに基づいているものだった。大資本に対して大土地は先ず無償で貸し付けられ、次いで無償で与えられ、彼らの力のよって移民者(小作農を集団的に土地に入れさせ、土地開発をさせようというものだった。開墾、牧畜、植樹などを目的とする土地は、面積の大小に関わらず、すべて先ず無償で貸し付けられる。貸付面積の最大限は、1人につき、開墾は150万坪、牧畜は250万坪、植樹は200万坪だが、会社や組合に対しては、その2倍まで貸付できる。貸付年限は、10年以内で、その間の事業は随時その成否を検査し、制裁規定は前期のものと大同小異である。こうして所定の開発事業に成功すれば、土地は無償で与えられる。500町歩800町歩という大面積が、特定人に対する例外としてではなしに、企業資本力さえあれば何人に対しても無償で付与されるというのだから、企業熱にあおられた人々の北海道への関心は高まったのであった。

 第三の段階は、それまでの土地処分法が改正された明治41年以後である。北海道の開発もこの頃になるとずっと進んできた。運輸交通の便もひらけて來。経済生活も全体として高まりもし、各地の間にいちぢるしい差もなくなってきた。当然のこととして地価も高貴してきた。今まではただ始末に困るだけの立木にも値段が出来てきた。こうなってきてもまだ、大面積の土地を無償で付与するということになると、今のうちに土地を占有しておいて他日大儲けをしようとする者をますます抜根せしめることになる。それで今度の改正では無償付与の法をやめて、自ら耕作しようとする者以外の大土地はすべて売払いの制によって処分することにした。新法による一人に対する処分面積の限度は、耕作地500町歩、牧畜のための土地800町歩、植樹のための土地800町歩であって旧法と殆ど変りはないが、会社組合その他共同で経営する者に対しては、以前には所定面積の2倍までであったのが、新法では5倍になった。そして売り払い地についても事業成功期間を設けて監督し、もしも何の開発もせず、不毛のまま放棄して、地下の高騰を待っているような者がある時には、売り払い処分の取り消しをするという罰則を儲けた。その事業成功期間は、30町歩以上の土地の場合10年以内だが、業績の検査は以前にように毎年ということではなしに、その期間内に4回以内ということにして、実業家に対する干渉を出来るだけ少なくし、自由に手腕を発揮できるようにしたのである。
さいしょから売払処分にしたということに当然の結果として、ここに一つ、今までにはななかった問題が生じた。事業の成功ということを条件にする条件附き売払ではあるけれど、ともかく金を支払ってその土地を取得したからには、土地所有権はその者に移転する。土地は私有財産となるから、以前は貸付地に対して禁止されていた土地の他人への譲渡が出来るようになってしまったのであった。