仕事の合間に少し時間があいたので散歩に出る。
日本橋箱崎から隅田川大橋を渡って佐賀町を散策することにした。
隅田川大橋から上流・両国方面を見る。
このあたりは、どこからでもスカイツリーが画角に入る。
歩くコースは、こんな感じになると思う…
何故 佐賀町に行くかというと、先日、深川江戸資料館 に展示されていた町並みが、佐賀町をモデルにしていると聞いたからだ。佐賀町を歩いて古地図と比べてみたいと思ったのである。
まずこんなところから。
寺社仏閣は、昔から建立されている可能性高いので、
古地図と現代地図を見比べるのに良い目印になる。
佐賀稲荷神社
ちょっとレトロにモノクロにしてみました。
案内表示板はないかな。あれが結構タメになる。
あったあった表示板。
あら素敵。町会長さんの直筆だそうです。
佐賀町住民の心意気と誇りが感じられる素敵な碑に巡り合った。
江戸時代初期の深川は、小島の点在する遠浅の海であったが、寛永六年(1629) 永代島付近の埋立許可を得て、次郎兵衛、藤左衛門、他六人の者に依って漁師町八ヶ町が出来上がり、上之橋の方を次郎兵衛町、中之島より南を藤左衛門町とした。元禄八年(1695) 検地の際、次郎兵衛町・藤左衛門街を合併し、佐賀町と改めた。町名は地形が肥前之国 佐賀長崎 佐賀湊に似ていたことに因むと云われる。
干潟を埋め、町造りの基礎を固め、漁村から海上運送の起点として繁栄をたどる通りの両側は、各地の産物を集めた各種の問屋の暖簾がはためき、川筋には倉庫が建並び、舫 った大小の船の間を忙しくたち働く人々の声が終日行き交じった。
先人相諮り、佐賀町に住む人々の除厄招福を願い、永世鎮護の祠を穿 ち佐賀稲荷神社の額を掲げた。時に 寛永七年(1630) 祭神は、生成発展を司る稲の霊である所の宇迦之御魂命 である。
明治以降は正米市場がたち、米問屋が集い、当社は商売繁盛の稲荷として栄えた。倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持は、まさに佐賀町の特性を活かした伝統技能である。境内には、力持技芸者の奉納した力石。明治初期に米問屋で出来た米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している。
代々尊栄奉仕の心怠りなく、平成八年の春を迎え、茲 に社殿を修復、境内を整備し碑を建てる。後人永くこの町佐賀町を愛し、佐賀町に住む誇りを失わざることを切に願うのみである。平成八年五月吉日佐賀稲荷神社 世話人代表 桑畑喬彦氏著『佐賀稲荷と佐賀町』より
深川の力持ち、面白い伝統芸能があるものだ。
力持技芸者の奉納した力石って、これか、な。
持ち上げられないようにだろうか、
ガッチガチにコンクリートで固めてある w
米仲間が寄進した鉄製の天水桶 は、お狐さんの両後ろにあるのがそれらしい。
私の撮った写真は見にくいが、お借りした写真を見ると、雨樋の下に設置されている。
横面には「米仲間」と彫られている。
上記写真は、ミツカン、水の文化センターさまから拝借しました。
出典元: 江戸の掘割と現代のカフェ│57号 江戸が意気づくイースト・トーキョー:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター
「水の文化」さんの記事によると、
この辺りは埋め立て地なので井戸を掘っても塩水しか出なかったそうで、
飲料水と煮炊きの水は「水売り」に頼っていたとのことだ。
先日訪問した深川江戸資料館に展示されていた井戸 ( 模型 ) も、
飲み水以外に使っていたものであろうとのこと。
参拝して、境内の横を抜けると
社殿の後ろに、社殿がある。
古い木製の方が本殿で、前は拝殿なのかしら。
散歩は続く~