旧Blogの記事を整理していたら書きかけの資料が出てきました。
里見弴が、親友武者小路実篤のことを書いたものの原文を書き写したもの。。
借りたか、ホームページかで閲覧したものから移したようですが、途中までなんです。
私は、里見弴さんの文章が大好きです。
小説にせよ随筆にせよ、登場人物に対する里見さんの眼差しが優しいからです。
架空の人であれ、実存の人であれ、愛情溢れた描き方をしているんです。
里見弴といえば、志賀直哉に「小説の小さん」といわしめた洒脱な文章を書く人です。
「極楽とんぼ」では、自身に似た人物の困った様子を、楽しく憎めない男に描いて飽きさせません。
私生活では親友の志賀直哉と何度も絶交をしたり、ご家庭内でもいろいろありますが、「時効だ時効」と笑いとばしています。そんな里見さんが武者さんのことを書いた記事だったので、特に印象に残って書き写したものと思うのですが、途中までとは。。。
そこまでは思い出せるが、あとが続かない。
この「滅多にないほどの仕合せ」。
初出は「新潮」1976年6月号、武者小路実篤さんへの追悼文だとわかりました。
国立国会図書館デジタルコレクション - 新潮. 73(6)(856)
恐らくワタシは、里見さんの随筆集のどれかに納められていたものを読んだのでしょうが。。。
本棚をひっかきまわすこと30分、「時と共に」でもない「怡吾庵酔語」にも「里見弴随筆集」にも見当たらない。
もう一度読みたいと思うので、今日はもうしばらく本棚の整理になりましょうか。。。
嗚呼、いったいどこに掲載されているか、どなたかご存知ないかしら。。。
武者はわたしより三つ年上で、小学、中学と、通学の毎日同じ道を歩んだ仲だった。
そのころ三つのちがひは大きくて、それにかれは不愛想で足速だったので、チビッコのわたしは迷惑し、けむつたかつたものだ。けれど、算(かぞ)へてみると、ほとんど九十から十を引いた年数つきあつてきたことになるわけだね。
『白樺』をはじめたのは、武者が二十六、わたしが二十三のとき。かれは麹町元園町、こちらは下六番町で二十分たらずの距離にゐたから、しょつちゆう往き来し、冗談も大いに言ひあつた。
ここ二十年ちかくも合わなかつたけれど、終生変わることのない稀なつきあひだつたね。
志賀 ( 直哉 ) とわたしとは、性分に共通するところがあつたためだらう、とかくぶつかり合つて絶交したことも三、四回あつたが、武者はまつたくおだやかで、一度もけんかしなかつた。
武者の二十そこそこのころ、だから『白樺』の前だが、仲間の正親町公和が沼津の千本松原の貸別荘で自炊してゐて、遊びに来いといふので、志賀たちといつしょに行ったことがある。正親町は大の酒好きだつたから、わたしも呑んで前後不覚になつた。すると、翌日、武者が言ふんだね、「僕は怡吾