ある方から、齋藤弔花という随筆家のことをお聞きし、読んでみたくなりました。
齋藤弔花は、大阪生まれで、国木田独歩と親交が深かった人。
独歩の「武蔵野」は中学の時挫折、大人になったらキチンと読んでみたいと思っていた作家でした。その独歩の作品を読む前に、外堀というか人間関係を知っておくのも悪くない。徳富蘇峰、徳冨蘆花などとも関わっていたというから、速探してみました。
右の本「國木田獨歩と其周囲」は、流石に独歩と親交があるといわれる弔花の独壇場。
生き生きとした独歩の素顔が描かれていました。
特に心にしみた部分は、まだまだ裕福になったとはいえない独歩の家での場面。
※ 原書は旧かなですが、現代かなづかいにしてあります。
氷川町の宅の生籬 ( まがき ) の外に氷川の森の茂りが見えた。そこに三日月のかかる空の青く澄んだころは、よく主人と居候とが、縁頭で膝小法師を抱いて、一杯やったものだ。
「お父さん、一献 ( ひとつ ) どうですか」
と独歩が薄暗い茶の間の隅で、チビリチビリ始めた父の専八翁に呼びかけた。
翁は、
「なに俺は、この方がいい。」
と濁り酒の猪口を一口ぐいと飲み干して、
「澄んだ酒は、老人にはきつい」
細君の心づくしの小肴を下物に、ほんのりとよい気持である。
「・・・・・」独歩のこの時の淋しそうな顔の中に、父に対する感激が読めた。
私も暗然とした。
後、彼は、父のことを人に語って、
「わが父は、好々爺なり。予が貧しかりし折、常に濁り酒を飲みこの方が俺には好い」と云つて辛抱してくれた人なりし」と述懐した。精悍で、負けず嫌いで、そして涙脆い善い人間独歩は、屢々 ( しばしば ) こういう光景に泣かされる貧乏を苦しみながら、それでも平然として「貧乏の甘酸っぱい味は忘られぬ」と私に語った。
この頃、独歩は「牛肉と馬鈴薯」を始め、雑誌向きの短編を出していたそうで、
暮らしむきも幾分、上向きになっていたのかと思っていました。
しかし、そうとも言えず、時代に早すぎた独歩の作品はあまり理解されず、文学一本では生計を立てられなかったそうです。
弔花は、独歩社の破綻の時にも相談に乗っていました。
本書では、当時の様子をこのように書いています。
突然「君、まだ田は残っとるか」には驚いた。それはある日、私の高槻の山麓を思いかげなく彼は訪ねて来た。私に売る田地があるばこの際一時の急場を救うべとしの相談であった。私はもうそれに満足な返事が出来ない境界にいた。「益々いけなければ、この家を担保にして多少の役に立てよう」と提議した。それに対して独歩は「そのことは最後にしよう。第一、僕として自分の仕事の後始末をするのに、君の家を売り飛ばすといあそこに行く前、尚尽くすべきだけのことは尽くすべしである」と義理堅いことをいう「僕は、有意義のことで、このあばら家を売るのは惜しくも何ともない。事実、こんなものは、北浜で手一つ振ったら、すぐけし飛んでしまう。それよりは一代の文人国木田独歩の借金の穴埋めになった方がいいよ」とかいいながら二人は私の高槻の山麓で飲んでいた。
弔花という人の生い立ちは、まだよくわかりません。
が。こういったお金の話を聞くと、育ちの良さというか大らさを感じてしまいます。
親交が深かったというだけあって、本書にはこういった話が随所にでてきますし、
紹介されている独歩作品にまつわるエピソードも「源伯父」ぐらいしか読んでいない私には「勿体ない」と思いながら読了しました。
「國木田獨歩と其周囲」は、独歩の作品を読んだ後、再読したいと思っています。
齋藤弔花のことを調べていたら「めぐり逢うことばたち」のかぐら川さんが、弔花の晩年のことを調べられて紹介しています。
かぐら川さんの知識はとても広く、先だっても島木健作さんについて書かれた本「ひとつの文壇史」を教えていただいたばかり。
「めぐり逢うことばたち」のかぐら川さんは、素晴らしく目が離せないブロガーさんです。