今回の街歩きは、5月に訪れた本郷6丁目9番地の奥長屋の続きです。
まだまだ歩き足りないところばかりで。。。
鎌倉歩きじゃないけれど、今まで行ったところのある場所の、点と点を線でつなぎたい。
位置関係がわかると、もっと面白く感じられると思うのです。
あの本郷6丁目9番地の奥長屋も、
都心の真中で、とても便利な場所なのに、そのまま拓けないのにはワケがある。
周りがお墓で囲まれていたから。
ぐるっと回ってお墓の方から見ると、
奥長屋のドンツキにあった藤森稲荷の赤い屋根が見えます。
今、どこから撮っているかというと、、、
下の地図、台町第二児童遊園と書いてある場所の隣のアパートの所。
アパートの外階段を2段上がらせてもらったところから塀越の写真です。
もう少し、見える所はないもんか。。。
あ、隙間からお稲荷さんの赤い屋根。
・・・カメラは、この辺にしておこう。
これ以上、塀の向こうの墓を撮ったりしていたら完全に不審者だ www
でもやっぱり、奥長屋はレトロだなあ。
立地条件がこれだから、車の通行もないまま、静かな一角として現存するんですね。
裏道から西片に向かう道を歩いていたら、こんなお屋敷を見つけました。
徳田秋声の旧宅ですって。
奥長屋から目と鼻の先
実は、徳田秋声と三島霜川は、本郷で一緒に住んでいたというのです。
その話は、以前から参考にさせていただいている「めぐり逢うことばたち」記事で知ったのですが。。。。
秋声は、その後一度神楽坂の方に転居。
霜川は、本郷の奥長屋に転居したのだそうです。
霜川が本郷6丁目9番地の奥長屋にいたのは短い期間でしたが、霜川が転出したその3年後 ( 1905年 ) に、秋声の方が本郷に舞い戻ってきている。徳田秋声は亡くなるまでこの家で生活をされたというから、二人にとって本郷は縁のある土地だったんでしょうかね。
KAGURAGAWAさんがお調べになったところによると、
徳田秋声と三島霜川が同居したのは「本郷区向ヶ丘弥生町3番地ト11」との由。
所蔵地図データベース「携帯番地入東京區分地圖 本郷区分之部」より 1910年 ( 明治43年 )
東大の北隣りにあたります。
二人が移り住んだ場所の位置関係をまとめると、こんな感じ。。。
三島霜川 徳田秋声
a 本郷区向ヶ岡弥生町3番地ト11に、霜川と秋声同居 1901 ( 明治34年 ) 10月
b 本郷6丁目9番地
1902 ( 明治35年 ) 5月まで
c 本郷6-6-9 ( 現在の表記 )
1905 ( 明治38年 ) ~1943 ( 昭和18 )
前述の地図をひっくり返して見ると、a. b. c. のように二人が移り住んだ位置関係がわかります。
ぽえ~っと歩いていたら、徳田秋声さんちを発見。
島木健作さんから、齋藤弔花さん、弔花さんから三島霜川さん、霜川さんから秋声さんと、気になっている人がお数珠でつながっていくようです。
三島霜川、徳田秋声といえば尾﨑紅葉門下。
紅葉といえば、もうひとり重要な門下生が泉鏡花。
鏡花といえば、大好きな里見弴さんがとても尊敬していた作家だもの。
この先、歩いている内に、これらの点がまた線でつながっていったりして。。。
そしたら感動するけれど、これ以上つながったら、それはそれでちと恐い。。。