丸二商店 ( 荒物屋 ) さんの隣に、二棟つながった建物がありました。
通りから見て右側が、花屋さん。左側が文具店。
ここでは仲良くくっついて建っていますが、もともとは別々のところにありましたの。
花市生花店は、神田淡路町一丁目に1929年 ( 昭和2 ) に建てられました。
花売りは、野山の花を摘んで売り歩くという形でした。
東京でも籠や荷車を使って売り歩くという形態が長く続き、
明治時代末頃でも、店を構えている花屋は、神田、日本橋でも
それぞれ2~3軒程度だったそうです。
当時はまだ花を贈るという習慣はなく、決して楽な商売ではなかったようで、
生市生花店では、華道の先生や料理屋などを得意としていました。
この建物には、家族の他に「若い衆」といわれる使用人が3、4人いて、
3階で寝起きしていたそうです。
店内の両側には造り付けの棚を設け、一方 ( 下写真 ) の棚の下は
地面より低く作り、花の鮮度を保つために水やりや、
花を入れる容器を洗ったりできるように水場になっています。
花を包む白い紙がぶら下げてある。
この居間で家族と若い衆が食事をしたんですね。
祝儀・ 不祝儀の花籠の見本写真、ですかね。
ファサードの銅板も凝っていますね。
花屋さんだけのことはある、
左から、雪囲いした牡丹と梅、次が菊、次は薔薇ととんぼ、右側は
桜の幕だからお花見かな、、、そうか四季を現しているのかも。
さて。花屋さんのお隣は、武居三省堂という文具屋さん。
三省堂 ( さんせいどう ) と読むのは本屋さんの方で、
こちらのお店は「さんしょうどう」と読む、これは中国の古典の中に出てくる
「吾日三省吾身」 ( 毎日、3度反省するという意味 ) からつけられたそうです。
さきほども書いた通り、元々この2店は別々の所にありました。
三省堂の方は、昭和初期神田須田町1丁目に建てられていました。
当時の写真ですって。
住居表示も、ほら「神田須田町一丁目三番六」と残ってますね。
紙や墨汁が並んでる。
昔から、墨はくれ竹だったんだ。
戦前の神田須田町界隈は、万世橋駅というのがあって、
学生など多くの人で賑わっていて、神保町の古書店街も近かったから、
看板建築も多く見られたそうです。
武居三省堂もその中の一軒で、昭和初期の頃には家族のほか、
5~6人の奉公人を含め、15人程度の人がこの建物で生活していました。
食事は3交代、2階から上は家族の生活空間で、使用人は店に布団を敷いて寝起きしてたんですって。
大変なんだなぁ奉公するって、板敷きですよ。
店の脇には、植木が沢山、、、
物干しと井戸がありました。
あら、この井戸、現役なんだわ。
本当の店と店の間はもっと狭いんでしょうが、
こういう路地から見る、通りの風景はいいもんですよね。
都電とかも走っていたんでしょうなぁ。。。
じゃ、お向いの店をのぞいてみます。つづき。