Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

幸田文の本を読んで・・・

 

「おとうと」「きもの」に続いて、短編「勲章」「姦声」「雛」「結婚雑談」などを読んだ後、「みそっかす」を読了。「季節のかたみ」の中からエッセーをいくつか拾い読みをして、幸田文さんのことが少し分かってきたように思います。

 

そして昨日。

青木玉さんの「小石川の家」を読み終わったので、ちょっと備忘録。

下記は読んだ本の中から、個人的に気になったところを抽出したもの。

退屈必至です。なにとぞお許しを。。。

 

 

幸田文さんの人生を、彼女の作品から知ることとなり、とても複雑な思いがします。

あんなに文章の切れる方だから、エッセーもさぞと思ったのですが、エッセーの方は幾分緩いものを感じました。題材が私小説から離れていたからかも知れません。 

文さんの執筆の原動力は、父からかけてもらえなかった愛情や、義理母からの言葉の暴力、不遇に終わった結婚生活、そんなものから来るいじけた気持ちや嫉妬にあるのでしないでしょうか。

下は、「みそっかす」初版の帯ですが、著者ご自身がこう書いておられます。

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帯の背表紙にも、こんな言葉が。

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「みそっかす」には、

夭折した 文さんの姉-歌さんのことも書かれています。

父のことばを以てすれば、姉は聡明鋭敏、しかも性質温雅のゆゑに見る人いづれもこれを愛してやまなかつたといふ。まだちいつぽけなうちから、あれこれと兩親に仕へて親孝行の評判はいまだに親類間に殘つてゐるほどだから、大したものである。
   (中略)
私はやきもちやきである。姉の美質はひとに對つては大いなる誇りであるのだが、かう父が褒めとなへるのを聽くのはいゝ気持ではない。しかもこの話が出るときは大概私の低劣なる惡室を指摘される時なので、どうしてきやうだいでかうも違ふものかなどと嘆息までりにやられては、なほさら素直には聞かれない。

『みそつかす』岩波書店 p.73より

 

辛い話です。

姉妹が比べられて育ったとしても、年を重ねれば挽回することもあるやも知れず。

しかし相手が亡くなってしまっては、それもかないません。

 

文さんの実母は、彼女が7歳の時に亡くなられました。

もたもたした気象ではなくて、しごとがきびきびと手早かつたらしいことは、延子・幸子兩叔母その他の親類達も云ふ。殊にご飯ごしらへは臨機応変、敏速に樂々とこなしてゐたと思へる
   (中略)
父の進歩性が母を教育したのだらうと思ふが、當時すでにレタスを蒔き、タンを煮、オリーヴ油をつかつてゐる。父はレタスをラッチュースと發音する。昭和生れの孫は五歳の時にこれを聞いて、「おじいちやま、レタスといふのよ」と祖父に頭を掻かせた。母も長命したらきつと、マイヨネットソースなんて云はなくてもマヨネーズでいゝのよ、なんて云はれたこととおもふ。

父は料亭で食事を攝て來ることが度々である。その頃は夫婦同伴でさういふ處へ行くことはないから、母はいつも留守番で、眼新しいおいしいものは話にだけ味ふのであるが、二三日のうちにはそれはほゞ原品に近い出來榮で膳に乗せられた。「どういふやうにしてこしらへた」と訊くと、笑つて、「なんでもありませんでした」と答へたさうである。

『みそつかす』岩波書店 p.26より

 

父の後妻、文さんの義母になる人というのがまあ、気の強い人だったようです。

自分の為に建て増しして貰った部屋が気に入らないと夫婦喧嘩をしたり、夫婦仲は終生悪かったようです。

問題は一つ一つ、父とはゝの根本的な意見の相違を示してゐた。第一が長押しでないこと、次に天井の低いこと、
   (中略)
はゝは「安普請で人をばかにしてゐる」と云ひ、父の方から云はせれば、「ざんぐりとやつしたのに」といふ。
   (中略)
はゝの生家は信州坂城の庄屋とか本陣とかの「家がら」で、その家は棟高く厳めしい構へで、上段の間・次の間と「由緒ある」建築―――を誇るものださうであつたから、そしてはゝは、それ以外によき部屋といふのを全然認めないやうな強硬な態度であつたから、部屋一つが随處に父との衝突の種になつたのもしかたが無いわけだ。
   (中略)
はゝは、「私の郷里ではどんな小まいの者でもこれよりは上等な蓆 (むしろ)にすわつてゐる。これは牢獄の敷物だ」と云つて腹を立てたし、父は「わざわざの好みがわからないとは」と嘆いた。たしかに變な畳で、手触りははなはだ荒く、すこし長くすわつてゐると裸の脛には網目のでこぼこが痕になつて痛いのである。むろん縁無しだつたが、牢獄に果たしてそんな敷物があつたのかどうか、はゝの實家は話に聞くと白洲場があつたといふから、牢獄の敷物といふのも見たことがあるのかも知れない。
『みそっかす』岩波書店 p.110より

 

そんな義母なのに、夫婦喧嘩が始まり義母が出で行こうとすると、文さんは必死に「いかないで」とむしゃぶりつきます。しかし、父からは「お前はどっちの子供だ」と怒鳴られ、義母にも文の思いは伝わらなかったようです。

義母の口調は文に対しても容赦ありません。

子供が生まれることになった時には。

お産は難産だつた。
   (中略)
が、あれほど待つた赤ん坊は與へられなかつた。死産だつたからである。一貫目を越す大きな男の子であつたさうな。繋がりといふのは變なものである。遂に一ト目も見ることのできなかつた弟であるが、私に縁が薄いとは云へなかつた。産後もヒステリー気味であつたらしく、しばしば私に對つて激しい調子で云つた。「あれはあんたたちのために神様が死なしてくださつたのよ」と。実にいやな思ひがした。
   (中略)
はゝに云はせれば、はゝの一家は皆俊敏な由であり、幸田家もまた父の姉弟皆ぬきんでてゐ、さういふ結ばれの子は必ず秀才であり、異母弟をもてば私達は将来嫉妬と争ひを免れぬ。さういふ論は私の嫁入るころまで折にふれてくりかへした、はゝの持論であつた。又かうも云ふ。はゝの兄は何の故か廃嫡されたとかで、幸田家には天才的狂人気味があり、その結合は廃疾者であり、意地の惡い姉や兄はおそらくあはれな弟に残酷な待遇をするにきまつてゐるから、むしろ恩寵をもつて天國に召されたことは誰のためにも幸福である。結論は、あの子は今ごろ天使になつてゐるといふところに落ちついた。一々尤もかもしれない。晩婚の、のちぞひの、想像に反した日々のなかで死産を經驗したことは氣の毒だ。私も子を持つて生誕のたのしさを知つてみれば、同性としての同情がもてる。が、なんにしてもをさな児の死を、「あんたたちのため」に結んで話したのはまづかつたと思ふ。私は天の使があんまり好きでなくなつた。
『みそっかす』岩波書店 p.143より

 

やがて、小説「おとうと」にも書かれているように、最愛の弟が結核になり、弟の看病は全て文さんの肩に背負わされます。息子の医療費を作るためには執筆に専念しなければならない父であり、リウマチを患う義母は看病どころか家のことも出来なかったからです。

家の為、弟の為、身をやつしても働いても、父親の目は不憫な息子に注がれ、自分を振り向いてはくれません。

弟が死に、文も嫁ぐことになりましたが、夫との生活は幸せとは言えませんでした。

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前年、朝日新聞は社会面の記事に私を扱った。酒仙露伴博士の令嬢が酒屋を開店、奥様業から街頭へ、師走微笑編としてある。もちろん記者その人の筆は寸厘たりと記事から私に曲げられるべきはずはないけれど、周囲に好意はことごとく読めていた。

主人はお礼をすべきだと云って、早速「一杯」を小僧に届けさせた、むだだという私をしりぞけて。果たして小僧は帰って来た。「ばかにすんない、朝日の記者だぞ、見そこなうなと云いやがってね」とぶつぶつ膨れて報告した。
その人の名も何もいまは忘れてしまったが、なつかしい。そのときその人が私にはなんと溌剌と見えたことか、しょげた夫がなんと気の毒に痛ましく思えたことか。
ちくま日本文庫―幸田文『勲章』p.12より

 

文さんの夫、三橋幾之介氏は新川 ( 現・中央区 ) に数代続く清酒問屋の三男で、慶応義塾を卒業後しばらくのアメリカ暮らしを経て、兄弟三人の合資会社という形で稼業を継ぎました。

主人は私立大学をびりで卒業すると、さしたる希望もなくただ何となく外国へ留学した。七年をその地で過ごし商事会社にもいて、帰国、結婚した。大勢のなかで見る夫は人のいい鷹揚さはあっても、力の足りない顎骨のあたり、いたわってやりたいような風であった。
ちくま日本文庫―幸田文『姦声』p.27より

「びりで卒業」とは、、、文さんもそこまで書くかという辛辣さ。

夫は大店のボンボン。文さんとて、文豪露伴の令嬢としてさしたる金の苦労はしてこなかったはずです。長女玉さんの初節句の時には精一杯気張り過ぎて、父親から叱責されるお話しが「雛」という短編に書かれています。

その翌日、里から電話があった。むろん招待の礼も云われたのだが、手がすいていたら1人で来るようにと、これは大旦那様からのおことづてですか云う。なんの用だか見当はつかなかったが、叱られるのだという直感があった。父は案外にこやかに、まずきのうの礼を云って疲労がねぎらわれた。

「あれはおまえ一人のはからいか、それとも主人もいっしょのはからいか。」
「お招きしたいと云ったのは主人ですが、あとは私一人がいたしました。」
「人形を買うのも一存でやったのか。」
「「ええ」
「主人はなんとも云わなかったか。」

私には返辞ができない。予算は大超過になって、主人はきゅうきゅう云っているからだった。父は察したらしい。

「あれではいたれり尽くせりだ。ことごとく尽していると云える。人を招ぶからには尽くすのもいいが、ああいう尽くしかたは私にはちょっと見当が違うとおもわれる。そこが話したかった。し尽くすことのできないくらいな女はもとよりくだらない、が、ことごとく尽くしてみたらあとにはなんにも残らず、からっぽだけが残っていたという女ではこれもくだらない。幸いおまえにはあれだけする力があるようだが、残念なことには尽くしてのちに何が残ったというのか。第一、子ども子どもと子どもの為を云うが、あれだけ尽くして子どもの何になったのか。人には与えられる福分というものがあるが、私はこれには限りがあるとおもう。親がああ無考えに遮に無にな使い果たしかたをして、子どものさきゆきに怖れというものを感じないでいられるのか。驕りとはものの多寡でなく使いかただ。あれはいささが子どもに分不相応で、私から見ればおまえが子どもの福分を薄くしたようにさえ考えられる。姑さんはできたひとだから、おまえのそんなむちゃくちゃな尽くしかたを、技量 ( うで ) だと云ってしきりに買っていたけれど、それだけに私は是非話しておきたかった。

浪費と云いたいところを福を使い果たすと云い、やり過ぎのいやらしさを尽くすことのできる力だと庇って云う父のことばは、柔らかくあったが無遠慮にずかずかと痛いところを踏んで来るような圧力がある。
ちくま日本文庫―幸田文『雛』p.96より

「雛」には、お父さんからの叱責だけでなく、お姑さんからもこんなことが言われたと書かれていました。こういうお話しを読むと「きもの」にもよく出てきた「考えが足りない」という言葉が思い出されます。

姑は父よりも十もとしよりだった。
「実はね、あの日帰ってからいろんな気持ちがしてね、云うにも云われず云いたくもあるしというへんな氣でしたよ。…そう。あちらのおとうさんには、しすぎたと云って叱られましたかね。私はまた、しすぎたというより、残しておいてもらいたかったという気がしたんですよ。」ああ隅から隅まできちんとできていては、祖母の心の入りこむ隙が見つからない。なにか足りないものもあれば、また来年も雛の買いものをして孫へ贈る楽しみもあるのにと、あじきない気がした。不備なところのあるほうが親しさのもとになるとおもう。けれどもあらがなさすぎると云って叱ることはできない。隅々まで気も手もゆきとどいた嫁には、こごとを云うどころじゃない、人に自慢でもしたいようなものだけれど、本心を云えば一二箇所の隙間を残しておいてくれたら楽しかったろう。できすぎは技量 ( うで ) だけれども、欠けがないというのはさみしかった。――と、これが姑の云いぶんである。
ちくま日本文庫―幸田文『雛』p.97より

いやはや、親というものは、いいことを言うなぁと感心してしまった一節でしたが、

父親や姑に、そこまで言わせるくらい文さんの働きぶりは凄いものだったのでしょう。

そうなると、余計旦那さんが頼りなく思えてしまうものなのかも知れません。

文さんはとうとう、娘の玉さんを連れて出戻ってきます。しかし周囲の目は彼女を暖かく迎えるものだけではなかったようです。

私が訴えれば訴えるほど、ひとはその場では私に同情したように装いながら、脇へまわっては陰口を利いた、主人のほうが気の毒だったというのである。人当たりが柔らかくて、優しい態度で誰の云うことでもよく容れる、そんな点だけが云われていて、男としては弱すぎる性格、そこから生じるさまざまないやなことを知っているのは私だけなのだった。まさか離婚してよく迎えられるとは思っていないにしろ、私はずっしりと帰った女の分の悪さをしょわされた。父が察してくれた。

「文句は云いたいだろうけれど、黙っていてみてくれないか。今おまえにあるものは亭主じゃなくて、子しかないのだ。子は大切にすべきだ。その子にとって父親にあたる人へ、なにか愚かしく蒸し返しごとを云うのは、子に対しても愚かしい母ということになる」

私はつい子と父との絆を忘れて、自分と夫とのつながりにおいてのみの不平を並べたてていたことに気がついた。だが、黙ってこらえると涙があふれた。
父は不機嫌に、「泣いて済むものなら造作はないから、いくらでも泣いたほうがよかろう」と云った。
ちくま日本文庫―幸田文『長いときのあと』p.257より

時には娘さんもまた、ドキッとすることを言います。

娘は大人になった。
「母さんの結婚生活の破綻は何がいちばん大きい事柄だったのかしら」などと云う。
「あたしによくわかるような気がするの、母さんにはきはき云われて困っているお父さんの気持ち!」などとも云う。
「母さん、つまらなかったでしょ? きっとこんな場合じれったくて我慢したんでしょ」とそんなことも云う。
「なぜそんなこと思うの?」と訊けば、
「そりゃ子ですもの、あたしは両方の分子をもってるわ。」
ちくま日本文庫―幸田文『長い時のあと』p.239より

文さんの愛娘-青木玉さんは、文さんの死後「小石川の家」を発表。

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玉さんの文章はお母さんの切口とも違う形ですが、母と祖父を見る目の確かさは鋭く、温かく、ほほえましいものでした。

そんな玉さんは、あとがきにこんなことを書かれています。

「口数の多きは卑し」と云って祖父は私のお喋りを封じたが、それでも祖父以外の人に、親しい思いを持つとお喋りになる。祖父が亡くなってだんだん地金が出て、あゝまた言わずもがなをやったと悔やみながら過ごして来た。

母は上手に話をして卑しくなることは無かった。そして母を見送った後、考えてもみないことが次々に起きた。母の本の出版やら、取材に見えた何人もの方に、母のことを嬉しくて喋り、自分の行き届かないことが心配になって、又喋った。相手になった方々はどんなにか我慢のあることだったと改めて恐縮している。どうもお喋りは私の本性のようだ。

祖父の書いたものは、知識豊かで整然と理解を授けて人を喜ばせ、母は又、情を尽くして激しく、時に楽しく歯切れよく語りかける。私にはとても及びもつかないことで、物を書くなど構えてするまいと思っていたのに「露伴先生はやさしいお祖父様でいらっしゃったのでしょうねえ」と聞かれて、ついうっかり私の小さい時に叱られた数々を、本来ならお墓まで胸にたたんで持って行くつもりでいたのに喋ってしまった。相手は聞き上手、するすると糸を手繰って胸にたたまれていたものは外気に当たって勝手にふくらみ始めまとまって行った。胸はからっぽになり、あゝまた言わずもがなをやつてしまったと思っていた。
青木玉著『小石川の家』あとがきより