今回が最終回。
江戸東京たてもの園に来園したのが10月27日、もう一か月以上前の話だったんですが、
更新が亀のように遅くて、今日やっと最後の建物の紹介となりました。
いくつか端折っているんですが、それはまた次の機会とすることにして。。。
まず子どもたちが賑わう、子宝湯から
小学生たち。
銭湯なんて入ったこともない子もいるんだろうなぁ。
凄い興奮して、走り回ってます。
まあ「子宝湯」だから、許そう。
そうそう、こういう籠だったわね。
普段入れない男湯に潜入。
お約束、富士山と三保の松原。
境目の塀って、こんなに低かったのねぇ。
天井をこんなに高くする理由って、何なんでしょう。
寒くなるじゃないねぇ。
昭和二十八年当時の料金が書いてありました。
女湯の方には、赤ちゃんの別途と計りが。。。
子宝湯のタイルは、お伽噺になっていたんですね。
これは「大きなつづら」のお話
あっ、そうなの。
女湯の壁には富士山は無いのか。まあね二つあったらオカシイけど。
富士山は男湯の借景だったんですね。
女湯は、こんな感じのすりガラスで、
更衣室には硝子はなかったですが、
男湯の方は、更衣室に庭がついていました。
写真、撮りそびれたけど(笑)
銭湯か。こういう造りの銭湯もなかなか見られなくなりましたね。
実はワタシの友だちにお風呂屋さんの息子がいたんで、
裏を見せて貰ったことがあったんです。
あの、真ん中のドアを開けると、大きな木の水槽のような箱がありまして、
そこに沸かし中のお湯が溜まってるんです。
銭湯の男の人は重労働。
燃料になる木を釜に入るように切ったり、
終わった後の掃除も大変なんですって、デッキブラシでゴシゴシこするんだけど、
腰が痛くなるくらいしんどい作業だそうです。
男の人の仕事は主に開店前のお湯わかしと閉店後の掃除、お客さんがお湯につかっている間は湯加減を見ながら、裏の木の箱に寝っ転がって休む。
冬はポカポカして、それはそれは気持ちがいいんだそうです。
女の人は、番台。番台はやっぱり若い男の子じゃちょっとね。
友だちは銭湯の長男だから、いずれ番台の登る日もあるのでしょうが、オジサンになってからの仕事になるんだろうと言っていました。
たてもの園も、こんな立派な設備があるのだから、どうせなら裏も展示すればいいのに。
なかなか見られないものねぇ。
さて。次は居酒屋さん
鍵屋は、1856年 ( 安政3 ) に酒問屋として建てられたと云い伝えられているそうです。
場所は、台東区下谷二丁目。当時の得意先には、上野寛永寺の名前もあったんですって。その後明治から大正、昭和初期まで酒の小売をやっていて、昭和初期以降お店の片隅で夕方だけ一杯飲み屋を初めたそうです。
戦後、お酒のメニューはしだいに増えて、鰻の子のくりから焼きや、
煮奴、味増田楽などの肴が絶品だったんですと。
これがお燗をつける道具ですね。
昭和30年代には夕方5時から夜2時まで営業。
早い時間は近所の常連、
7時頃からはサラリーマンや噂を聞きつけて初めてやってくる人、
夜更けには、寄席のはねた落語家や芸人が客となったそうな。
カウンターから座敷が見えますでしょう?
四畳半敷きのあのスペースは、別格らしいです。
一見の客は入れてもらえない。
こっちのカウンターで、さんざ銭を落した後じゃぁないと。
入口も別。
こっちで飲むのは、結構気分がいいんでしょうかね。
お客さんには有名人も多く、ドイツ文学者高橋義孝さん、
小説家内田百聞さんも常連だったんですって。
ひぇ~、ありゃりゃ
高橋義孝さんっていったら、先日この方の訳でトーマスマンを読んだばかりなんです。
トーマスマンの「トニオクレーゲル」の訳を読み比べた中に、高橋さんのがあって、
一番、しっくり来た翻訳だったのが高橋さんの本でした。
そして。
内田百閒さんは、一昨日から「花火」「山東京伝」「件」「流木」「道連れ」「短夜」「波止場」
と短編を読み始めたばかり。
う~ん、この偶然。何だか ( 勝手に ) ご縁を感じてしまいます。
百閒さんと高橋さんは飲み友達だったそうで、今後百閒さんのエッセーを読み進めたら、お2人の話も出てくるのではないかしら。
そんなご本を、この鍵屋のカウンターの樽椅子に座って読んでみたいなぁ。
ん? あんまりいい趣味じゃないか (笑)
おまけ
二回目ライトアップの日に撮影した「鍵屋」
やっぱり居酒屋は夜、ですよね。
とりあえず、今回のたてもの園のお話しは、ひとまず、おしまい。
この施設、掘っても掘っても、色々エピソードが詰まってそうなので、
また来ると思います。そしたらまた、ご紹介させてもらいたい。