みかどパンのヒマラヤ杉を見て、沢山エネルギーを貰ったので、谷中墓地へと足を伸ばします。
・・・といってもこの辺は、ややこしい。
道がまっすぐでないばかりか、いい感じの道の先まで行ったら突き当りだったり、
行きつ戻りつしている内に方向が怪しくなる。。。
方向感覚だけは良いつもりでいたけれど、必ず迷うのがこの辺りと、西新宿の高層ビルあたりなのです。
道がキチンと、東西南北にむいてない場所がいけないみたい。
わたしの前世ひまわりなのかも、、、太陽に向いてない道は感覚が狂う。
とかなんとかバカ言ってる内に、谷中墓地の入口まで何とか着きました。
外人さんが、なんか見てる。
猫かな?
ここの石屋さん、
もしかしてisakuさんがおっしゃってた「寺内貫太郎」のモデルになった石屋さんかしら。
正面の花重さんじゃなくて、左の石材店のこと。
違うかな。。
天王寺に向う、さくら通り。
一番最初に目につくのがこの石碑。( って写してないけど。。。 )
気になったのはこの案内板です。
右側にある石碑は、高橋お伝の碑なんですが、案内板にはこうあります。
高橋お伝 ( 1850~1879 )
嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。
明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕えられ、同12年、30歳で死刑に処せられる。
毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。
しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。
碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
死してなお、トイレの傍らにあるお伝の碑には、いつも花束が絶えず、この碑にお参りすると三味線がうまくなるというジンクスもある。自然石に「しばらく望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」の辞世の歌が刻まれている。子規の句に「猫の塚おでんの塚や木下闇」もあるが現在魯文ゆかりの猫の塚は谷中三崎町永久寺に移された。
谷中墓地掃苔録より
お伝といえば、小山内薫さんのことを調べていた時に少し知りました。
日本における女性死刑囚最後の斬首刑に処された人物であるということと、
高橋お伝の遺体の解剖を行ったのは、小山内薫の父・小山内建(玄洋)であったという話。
そんな繋がりで記憶の隅にあったのですが、この案内板を読んで、何となくモヤモヤしました。
気になるのは赤字の部分。事実か否か、いささか疑問に思う記述だからです。
最初の夫を「毒殺し」とあったり「各地を放浪しながら悪事を重ねた」という記述。
そして後藤吉蔵を「だまして」殺害と書いてありますが、未確認の話なんですよね。
夫に関しては「懸命に看病したが死亡した」というのが定説で、彼女が実際に殺人を犯したのは一人だけ、吉蔵だけなんです。
しかもその殺害も、最初からお伝が「殺害を企てた」というのではなく、「金貸しの吉蔵に借金の代わりに体を要求され関係を結んだが、約束を反故にされ、殺害に至った」という見解が有力視されているんです。
そもそも、お伝の「毒婦」というイメージは、仮名垣魯文を初めとした戯作者たちがスキャンダラスに描いたもの。
魯文の『高橋阿伝夜叉譚』は刑死直後に出版されたのですが、その後、町川黙鶯、矢田挿雲、邦枝完二らによって読物・小説化される中で、毒婦としてのお伝はしだいに拡大され、犯行被害者も実父清吉、黒川仲蔵、鈴木浜次郎、夫の波之助、小川市太郎らに及んでいったのだそうです。
マスコミに盛られちゃったんですね。
お伝が売春婦であったことは事実らしいですが、それをもって「各地を放浪しながら悪事を重ねた」とするのは如何なものか。
そんなことを考えてこの文章を読むと、これ自体も「大いに盛っている」
・・・というか「高橋お伝に対する軽い悪意」を感じてしまうのです。
私達がよく目にする名所史跡にある案内板は、都府県や市町村の教育委員会が調査・監修・設置したものですよね。
そういうものに馴染んでいると、看板に書かれたこと全て、事実であると思い込んでしまう恐れがあります。
でも、ここにある『高橋お伝』の案内板は、一体誰が監修し、誰が設置したものかがワカラナイのです。
「死してなお、トイレの傍らにある」という表現も微妙。
わざわざトイレの傍らなどと書く理由はあるんでしょうかねぇ。
備考:看板の出典元「谷中墓地掃苔録」について
『谷中墓地掃苔録 1~3』 ( 谷根千工房出版、1989-1998、森まゆみ編著)は、
谷中にある墓碑を手がかりに知名人士等について、エピソードなども交えて写真とともに紹介した本とのこと。