若狭に来て、ちょっと行ってみたかった所、熊川宿です。
若狭から京都までの鯖街道の宿場町がどんなことなのか知りたかったから。
位置的な問題以外に全く知識なしに歩きはじめます。
宿の一番山に近い所まで車でぶーんと行ったところに「道の駅」がありました。
そこに車を停めて、なだらかに下がった街並みを歩きます。
熊川番所
熊川宿の入口、というか近江寄りの所に番所が復元されてます。
「入鉄砲に出女」という言葉の通り、ここでも厳しく監視されていたようです。
特に小浜藩士や百姓町の妻女の出国には、奉行などの裏判のある願書 ( 往来手形 ) が必要でした。
それにしてもこのお人形、よく出来てる。今にも動き出しそう。
京は遠ても十八里
ほう、ここから小浜まで四里なのか。ということは京都まであと十四里?
綺麗な街並、そうか電線がないんですね。
人が全くいないのは、真夏の陽の高い時間だからかしら。
・・・うん、ジリジリします、この日差し。
水のある街というのが魅力ね。
前川という名の重要な用水路です。
水の音を聞くと、ジリジリ暑くても少し助かる。
川がありました
左が今歩いてきた町で、上ノ町。
橋を渡った右側が、中ノ町というそうです。
この上ノ町、中ノ町、そしてもう少し下ったところにある下ノ町。
読み方が面白いの。かみんちょう、なかんちょう、しもんちょうと言うらしい。
沖縄弁みたいな響きだ。
勘兵衛番屋
ここは後に伊藤忠商事の社長となった伊藤竹之助の生家跡だそうです。
平成七年に町の指定文化財として二年がかりで修理され、喫茶店と宿屋になっているそうです。
なにやらいい感じの建物。「宿場館」と書いてある。
中は資料館になっていました。
入口の番台で入館料 ( 200円 ) をお支払いします。
おばさまが一階にあるガラス張りの資料の説明をしてくれるようです。
ここは昭和15年に、熊川出身で伊藤忠商事二代目社長の逸見竹ノ助が建ててくれたんですって。
熊川村役場として使われてきたのだそうです。
この方が逸見竹ノ助さん
伊藤家の養子になって伊藤商店を伊藤忠にした人物です。
〒: 福井県三方上中郡若狭町熊川
TEL:0770-62-0330
定休日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
営業時間:8:30~17:00(冬期は16:00)
宿場館のおばさまの説明、とても興味深い話だったので記載。
興味なければ タイトルだけつまんで、読み飛ばしてくださいネ (笑)
鯖はもともと生だった
京都に持っていく鯖は、元々そのまま運んでいました。
ここにある籠に入っている鯖は生なんですね。大体いつもだと朽木で売れて、残るのは一匹二匹。
残ったものを塩をちょっと降って持っていくんですけれど、その日に限って何故か全然売れなかった。
誰も売れない、何があったか、行事があったのか。
しょうがない。20匹も30匹も残すわけにいかない。朽木の川原で串に刺し開いて焼いて持って行った。
そうしたら京都の人たちが味がついていない鯖、焼き鯖だから、かえっていいと、大根と炊いたり筍と炊いたりとこれが良いということで、それからずっとここらの焼き鯖は味をつけないで焼く、何もつけないで焼くという形になりました。
焼きたては生姜醤油ですけれども、殆どが煮付る。そうすると凄く美味しい。
売ったっていくらにもならないですよね。
でも、一度売ってくると2~3日は食えたといいます。
ここを出たら二度と帰る家はないと思え
学校は明治から昭和初期までですが、近江八幡まで通わせていたといいます。
小浜にもあるんですけど、近江商人が多かったせいもあって「商売は近江」だということで、わざわざ近江八幡商業 (高校) まで朝4時に起きて、今津まで歩いて汽船に乗って学校に。帰って来るのは9時。
「ここを出たら二度とこの家に帰る家はないよ」という風に育てられたようです。
そのくらいの心構えということですか。凄いなあ。
今、歩かれました? この辺り。
お気づきだと思いますが、立派な家はないんですよ。皆小さな家です。
寝起きだけできればいいというもの。
火災に悩まされた町で、平均すると10年に一回大火に見舞われている。
家は松明にしか過ぎないと、寝起きが出来ればそれでいいんだと。
それで子供には学問を早くつけて、早く外に放り出す。
学校にやれない人は京の職人さんに奉公。
学校にやらないで放り出すことの方が多かった時代ですものね。
そうですね。社長さんも日本一多かった町です。
計算尺発明したり、特許庁の長官だったり、出世頭は伊藤忠さんですけど。
家ありましたね、生家がここだとか。
養子に入って伊藤商店を伊藤忠にした人なんですけれども、この方は苦労して2年しか伊藤忠の社長をしていなくて、あと呉羽が出来ると呉羽の社長、
ダイケンが出来るとダイケンの社長。新しく出来る会社を軌道に乗せるまで、そのお役目をしていた人です。
現在の京都の菊乃井さんもここから出た人です。
菊乃井さん、知らないです。
日本食を世界に広めた人。村田さん。あの方も下の方に家があって。
初めは皆、運び屋さんとして40戸だったところに集まってきた人なんです。ところが仕事がずんずん変ってきまして、最終的には菊乃井さんは昆布の仲買商をされていて、それから京都は学生が多いから食堂でもしようかと京都へ出て、料亭を始められたんです。
仮眠3時間含め24時間
一番早い人は、仮眠3時間を含め24時間で京都まで歩いたといいます。
18里を、、、72kmですね。
はい。で、一番沢山背負った人は16貫、米一票分を担いだといいます。
熊川では「京は遠でも18里」18里、これで大体18里です。
他の所は短縮できますけれども、ここは山越え谷超えの厳しい山越えですから。
マラソン2回分の距離ですもんねぇ。
ここは鯖が来るようになるまでは、それ以前は若狭の食材が、海の食材が奈良の平城京、藤原京に税として収められていました。
それは大体2~3人で運べる量の、量としてはそんなものだったそうです。
その後 鯖も突然わいてきて、その年に突然捕れて、釣っても釣っても、何とかさばきたい、牛馬は大阪まで行くから牛馬は使えない。それじゃあ歩こうかということになるのが今の道なんですけれどね。
それ以前は能登沖で沢山捕れて、能登の方は漁師さんで、だから大阪行のものは樽漬。ところが突然若狭に湧いて、若狭はそれまでそれほど魚は釣れなくって、この辺で食べるくらいのものだったんです。
ここは3回変って、最初は日本海、北海道から山陰までの昆布から紅花の運び屋さんだったんです。
北前船のね。
はい、北前船の出来る前です。
あっ前なんですか。
はい、前は全部ここに集まって、大阪に行っていたんです。
北前船が出来ると極端にもう1/20になっちゃう。
ちなみに北前船というのは何度挑戦しても下関から入るルートが出来なかったんです。
それを四国の村上水軍系統が増えすぎて、石川県に分家して移り住んだ。その人たちが北海道の船を操って自分たちの仕事を作ってルートを作った。
それでも他の人が真似ても、季節とか時間帯で潮の流れで岩の出方が違うので大変苦労されて。
地元の人しかわかんないという話ですね。
その水軍に乗って続けてくるんだけれど、時間帯が変わると潮が変わるという形で、その人たちにしか出来ない仕事だったみたいですね。
軌道に乗るまでは大変みたいですね。それが軌道に乗ると、ここは1/20になってしまいました。
それまでは大変な荷物を都に運んでいました。
100年、100年仕事が変わってきた。
繁栄の名残り
繁栄した頃の名残りというのが山車の送幕なんですけれど、上ノ町 (かみんちょう)、中ノ町 (なかんちょう)、下ノ町 (しもんちょう) とあるんですけど、こちらの人はあとから増えてきた人なんです。大きな問屋さんたちですけれど、その問屋さんたちが祭をしようと買ってきたんです。
中ノ町の送り幕
ところが相談がなかった、私たち先に住んでいたのに馬鹿にされたと、上ノ町の人たちは翌年京へ行って、京で一番いいのを買ってきた。
上ノ町の送り幕
それを見ていた下ノ町が10年後なんですけど買った。
三つ揃ったんですけれど、今回国の選定を受ける時に、どういうものがあるかを調べられた時に、上ノ町のものは日本で五本の指に入る宝物だとわかった。
おばさまがレーザーペンを使ってその部分を指しています。
ここに孔雀がいるんですが、実際本物の孔雀の羽根が爪で織り込んであった。
今じゃ考えられないですよね。
これを複製しようと、川島織物さんで15年になるんですけど、幕だけで2,150万。
当時のお金で?
今。複製品が2,150万。
これは小浜の博物館に虫管理で預かっていただいて、レプリカを置いています。
そのレプリカが幕だけで2,150万。山車鳴物入れると4,000万かかったと。
忠実に復元したようですけど孔雀の羽根は複製品には入っていませんが。
山車の後にある幕だから、見送り幕。
神輿とかこういうものは神様の代理みたいなものですから、これが来ると皆喜んで手を合わしたりしますね。それが向うに行ってしまって、後ろに向かって手を合わせて見送るということ。
説明していただかないと分からないことが多くて、いや、面白かったです。ありがとうございました。
二階は当時使われていた道具が沢山並んでいます。
古い道具や昔の写真も面白いが、この建物そのものがいいなぁ。
階下は洋室、二階は和室になっています。
スリッパの脱ぎ方を見て苦笑
左が綺麗に揃っているのがMOURI、雑ぱに広がってるのが私
窓から見える裏山も素敵だなあ、夏休みの学校から見る眺めって感じ
小林カツ代さんも訪れたようです
視聴覚室にかけてあった絵
春の熊川宿ですかね。
今と違って電線もあって、煩雑なところに生活感がありますね。
こちらも素敵。
宿場館の館長さん、説明してくだすったおばさま、ありがとうございました。
宿場館を出ると、外はまだまだ暑い。
なんだろう。
若狭塗箸の切れ端ですって。
そうだ、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」で、喜代美の弟がこれで恐竜を作っていたっけ。
弟は、恐竜好きでやがて小浜の恐竜博物館に勤めるようになるという設定でした。
小浜は塗り箸と恐竜なんですね。
大きくて立派なしめ縄
白石神社と書いてあります。
でもはるか遠い、、、やめた
こっちの脇道もちょとくすぐられる風情
御蔵道?
「ねえねえ行ってみない」と振り返ったら、つれあい はるか遠く
なにやら水を見ています。
「どうしたの?」
「ほら、水の高さから見る眺めもいいんじゃないかと思ってさ」
用水路には所々降りられるような階段が切られていました。
水、冷たくて気持ちいい。
また神社 発見。
まつのきじんじゃというらしい。
行ってみたくなった。
凄い坂だ、へーへー
更に階段が。。。。
ところが、階段を登ったところに広がった台地に感動。
清らかな空気、静かな眺めというのはこういうものか。
小高い山の上だから、凸凹の敷地に、悪いけれど荒れた神社を想像してました。
でも掃き清められたこの境内はなんでしょう。
ここは松木神社といって、若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社なんだそうです。
※ 義民というのは、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、転じて幕末の尊皇攘夷運動において同様に私財を賭して国のために奔走した町民・商人などもこう呼ばれる。
松木庄左衛門は、苦しみにあえぐ若狭の農民を救うため、一命を投げうって大豆年貢の引き下げを実現しました。時に庄左衛門は28歳の若さでした。
松木庄左衛門の直訴は聞き届けられましたが、磔の刑に処せられたのだそうです。
そうか命を投げ打ってとは、、、直訴の先にはそういうこともあったのですね。
境内には庄左衛門の遺徳を顕彰するため、昭和10年に建てられた義民館。
実はこの場所、かつて小浜藩の年貢米を収納する米蔵があったところなんですと、
年貢の為に戦った庄左衛門さんを祀る神社が、ここにあるとは、何だか複雑なお話です。
地方の神社を訪れる機会はありますが、かなりさびれていたり荒れてしまっていることもあります。
でも、こんな風に雑草ひとつもないほど綺麗に管理をされているのを見ると、
熊川の方々がかける地元愛に感動しました。
境内下、崖のような下の場所です
熊川宿の建物には実はふたつの形があります。
ひとつは平入りと妻入りの住居。
平入りというのは、屋根の棟木に平行に、そう屋根面の側に入口が設けられている建物。
妻入りとは、三角屋根が見える面に入口がある建物です。
写真を見ると手前右の蔵のような建物は妻入り。その向うに並んでいるのが平入り。
平入りは一階の軒が揃ってひとつの線に見えるので綺麗な景観になりますね。
都会にはなかなかなないもの。こういう建物も見て歩くのに楽しい。
いんやぁ大きな岩。
子供がこれに乗って遊んでも何故か怪我をしないという名物の岩だそうです。
熊川宿か、冬は雪深くとても厳しい所だそうですが、
四季いろいろ、また違った季節の風景も見に来てみたいと思いました。