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日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

藤田好三郎さんの中野のお家

先日お邪魔した千駄木の「旧安田楠雄邸庭園」を建てた藤田好三郎さんに興味をひかれました。

藤田さんは普請道楽だったそうで、千駄木のお宅にはわずか数年住まわれただけで、あっさり ( がどうかは? ) 引っ越してしまったようです。

理由は、子供たちが遊べるようなもっと広い敷地を求めてとのことだったようですが、えええええっという感想でした。あんなに広い千駄木の家より、更に広い敷地って、どんな家を求めていらっしゃったのか。

 

藤田さんは、豊島園の創始者です

豊島園のあの広い敷地だって、もともとはご自分が静養する家を建てたくて購入した敷地なんだそうです。

Wikipedia としまえん - Wikipedia にはこう記されています。

 

  • 1916年大正6年) - 樺太工業(後の王子製紙)専務であった藤田好三郎が自身の静養地として、石神井川南側の12,000坪を入手[2]
    景勝地だったため、この間には家屋を建てず自然のままで、休日ごとに家族で訪れていた[2]
  • 1922年(大正12年) - 藤田自身の住居を建てるため、土地の形を整える接続地6,000坪を追加入手[2]
    手始めに小さな温室を作り、将来のために庭を造る(後に開園式が行われる日本庭園)[2]
  • 1925年(大正14年)秋 - 藤田好三郎が、石神井川北側の18,000坪を入手[2]
    当時石神井川北側は悪田で、川の南北で土地の価値に大きな隔たりがあった。そこで藤田は悪田に池を掘って埋め立てをすれば、立派な土地になると見込み、2年がかりで入手した。しかし時勢が変わり、大邸宅を構えるのは不謹慎と藤田は考え、景勝地を公開して大衆と娯しむこととした[2]

 

「広い」の概念が違う

豊島園の話を聞いても、旧安田邸を見ても、藤田さんのスケールの大きさに驚かされます。

で、思ったんです。

千駄木より大きな敷地を求めて、と移り住んだ藤田さんの中野のお家はどんなだったのだろうと。。。

 

今回、中野市立中央図書館を訪れたのは、それを調べる為でした。

 

ぴんぽんありました

〇で囲ったところが藤田邸

 

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調べたのは、こんな地図

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東西南北がひっくりかえっているので北を上にして拡大しました。⤵

 

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当時の航空写真もありました。⤵

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凄い、やはり凄い。

庭らしき部分が広い。

実業家とはいえ、私人ですから、建物の写真はありませんでした。

でもこれだけ見ても、、、、というかこういうことを調べているだけでもワクワクする。

 

広大な敷地は、昭和34年の住宅地図では半分になり、大学の寮になっていました。

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現在は更にのその半分にマンションが建設中。

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こっちが北側の学校、奥に見えるのが建設中のマンション。

それ全部が、かつての藤田邸。

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藤田さんが住んでいたところに、これから何人の人が住むのだろう。

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桜の老木。

藤田翁もこの桜をめでたのだろうか。

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近くに古いお宅がありました。

表札がいいですね「中野区桃園町」ですって。旧町名のまま。

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テレビで見たことがあるけれど、電信柱とか、マンホールとかをよく見ると、

旧町名のままが多いらしい。

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それにしても、このあたりの方々は旧町名を愛して、まだ使い続けているんですね。

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桃園町って、いい名前だもの。

前回「玄」の近くの集会場も「桃園」の名前だった。

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中野区中野三丁目っていうよりも「桃園町」の方がいいよなぁ。

 

 

藤田翁の人となり

藤田好三郎さんの人となりがわかる、こんな資料を見つけました。

 

湯本城川:著

実業と人物社 大正十三年十一月二十七日 刊

国立国会図書館デジタルコレクション - 財界の名士とはこんなもの?. 第1巻

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大川田中内閣の名翰 (官) 長だとご噂の高い  樺太工業専務 藤田 好三郎君

◇君は明治四十年生れ、明治十四年の帝大での法学士だ。

 

◇今日大川氏の製紙、田中氏の肥料を中心として、大川田中系統の事業が隠然として、我が実業界の一角に拠っていることは、事新しく吹聴するまでもないが、殊に大川氏は澁澤子の女を夫人としている関係上、ともすれば澁澤の勢力を代表するが如く考えられ、一層羽振りがよく、勢力は益々のびる一方である。

 

◇この勢力者の提携者であり、かつ実弟であるところの田中榮八郎君の女を夫人としているのが即ち我が藤田好三郎君である。

 

◇この女を夫人とする時には一つのエピソードがあった。それは田中君が君の才腕にすっすり惚れ込んだ挙句、是非娘の養子に、と話を切り出したものだが、君は小ぬか三合持ったら難とらの養子などは真っ平御免だ。殊に富豪の付き馬に等しきこの縁談などは以っての外だとはねつけた。

 

◇これにさすがの実業王田中榮八郎君もギャフンと参ったが、そこはまた智恵のハチ切れる様にまわり廻っている君の事とて、たちまちある方法を以って令嬢を藤田君の御眼にとまらせた。嬋硏花 ( ? ) の如き令嬢をチラッと見た藤田君、これはまたゾッと吹き込む戀風 (?) だか何だか知らぬが、富豪の附け馬などと力み反っていた前言は即時取り消し、養子には行けぬが、嫁に貰う事なら‥‥と妥協の意思を表明した。

 

◇吾事なれりと横手を打った田中氏は、善はいそげと、早速ながら黄道吉日を選んで嫁入りの式を挙げるに至った。それが即ち今日の令夫人であるが、聞けば内助の功また格別との事であるげな。

 

◇元来君の生家はあまり豊かではなかった。隋って当時三十八銀行の頭取であった伊東長次郎氏からすくなからぬ世話を受けた。そして学校を卒業するや直ちに日本銀行に入り、いる事四年地位大いに進み同僚から未来の総裁を以って擬せられるに至った。

 

◇ところがこの恩人たる伊東氏から、実は三十八銀行に支配人の椅子が空きしかもこの際人材を求むる事急であるのだ。前途ある君としてはいやなのは百も承知し切っているが僕を助けると思って是非来てくれますかと頼まれた。

 

◇未来の日銀総裁を夢見、かつ実現の可能性ある君としては、三十八銀行の支配人位では食足らぬは勿論、下手をやれば一生を棒に振らなければならぬ訳であるにも拘わらず、旧恩に報いるはこの時と、直ちに快諾をあたえ同行に入った。

 

◇いること五年同行の業況をメキメキとご発展せしめ十分旧恩に報ずることが出来たので、同行を去り当時既に岳父となっていた田中君の事業を助けるため、大川田中事務所に入り、その才腕益々発揮し遂に今日に至ったのであるが、要するに君の人としての価値は、この『人情』の二字に帰するのである。

 

 

当時の実業がの大物さんたちが列挙されたこんな本も面白いですよね。

実物読んでみたいものです。

どこで探す? またどっかの図書館かしら。