Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

御穏殿坂について

先日、日暮里から根津に向かうのに偶然通った「御穏殿坂」を再来。

前回はBIKAの営業時間に間に合うようにと、急ぎ通り過ぎた場所でした。

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「坂」というほどの傾斜ではないと思っていたのですが、

なるほど、左の方はなだらかな坂道だ。

 

左 ) 御穏殿坂    右 )  根岸に渡る跨線橋

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突当りは昔、踏み切りがあったらしいです。

 

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写真の男性は見知らぬ御仁です。

跨線橋の西詰から見た先、あのオレンジのマンションの方角に「御穏殿」というのがあったようです。

 

iPhoneアプリ-東京地層地図を見てみると、、、

関東地震直前 ( 大正5~10年 ) の地図には、「御穏殿坂」が明記されています。

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ふふふ、このアプリ面白い。

現在の場所を表示して6つの年代 ( バブル期、高度成長前夜、昭和戦前期、関東地震直前、明治の終わり、文明開化期 ) の古地図に切り替えられるようになっています。

ちょっと調べるのに、いやずっと眺めているのにも飽きません。

 

例えば、同じ場所の文明開花期 ( 明治9~19年 ) はどんな感じかというと、、、

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あはは。子供のお絵かきみたいだ。

 

じゃ、明治の終わり ( 明治39~42年 ) は、、、

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これが御穏殿の敷地らしいのが一番わかるかも知れません。

 

昭和戦前期 ( 昭和3~11年 ) には、

御穏殿があった場所に京成本線が出来て、御穏殿はあとかたもない。

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でもこの地図には跨線橋と、その左に踏切を渡る道の2本がありますね。

 

高度成長前夜 ( 昭和30~35年 ) の地図では、踏切の道はなくなっています。

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これが現在の航空写真。

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ところで、御穏殿って何でしょうか。

標札によると、

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御穏殿は「東叡山 寛永寺住職の輪王寺宮法親王の別邸」と書いてあります。

 

んじゃ、輪王寺宮てだれなんじゃ?

寛永寺から別邸に行く道が作られ、名前までついているのだから、すごく偉い人なんじゃないかしら。

 

こちらのサイトに、詳しく書いてありました。

台東区文化ガイドブック「文化探訪」

 輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。

 当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。 御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図『御符内沿革図書』には、宝暦三年(一七五三)七月に「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。

 敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。

 

 輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。

 また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。

 慶応四年(一八六八)五月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。

 

なるほど。

「第三世から第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子」とは、やはりやんごとなき方々だった。

具体的には、こんな方々。

代数 (一段目)、僧侶名 (二段目)、  降誕年~薨去年(三段目)、 実父 養父 (四段目)
東叡山寛永寺開山
 慈眼大師天海大僧正
  天文5(1536)年~寛永20(1646)年
   不明

東叡山寛永寺2世
 久遠寿院准三宮公海大僧正
  慶長12(1607)年~元禄8(1695)年
   花山院忠長

東叡山寛永寺3世、輪王寺宮御門跡第世 ( 承応3・1654~、天台座主第179世
 本照院前天台座主一品守澄法親王(尊敬法親王)
  寛永11(1634)年~延宝8(1680)年
   後水尾天皇

東叡山寛永寺4世、輪王寺宮御門跡第世 ( 明暦元年・1655~?
 解脱院一品天真法親王
  寛文4(1664)年~元禄3(1690)年
   後西天皇

東叡山寛永寺5世、輪王寺宮御門跡第世 ( 元禄3・1690~?、天台座主第188世、同190世
 大明院前天台座主准三宮一品公弁(こうべん)法親王
  寛文9(1669)年~正徳6(1716)年
   後西天皇

東叡山寛永寺6世、輪王寺宮御門跡第世 ( 享保元年・1716~、天台座主第196世、同199世
 崇保院前天台座主准三宮一品公寛(こうかん)法親王
  元禄10(1697)年~元文3(1738)年
   東山天皇

東叡山寛永寺7世、輪王寺宮御門跡第世 ( 元文3・1737~、天台座主第203世
 随宜楽院前天台座主准三宮一品公遵(こうじゅん)法親王
  享保7(1722)年~天明8(1788)年
   中御門天皇

東叡山寛永寺8世、輪王寺宮御門跡第世 ( 宝暦2・1752~?、天台座主第208世
 最上乗院前天台座主一品公啓(こうけい)法親王
  享保18(1733)年~明和9(1772)年
   閑院宮直仁親王、中御門天皇

東叡山寛永寺法嗣、輪王寺宮御門跡法嗣
 清浄信院贈一品公顕法親王、(公啓法親王法嗣・公遵法親王嫡嗣)
  宝暦10(1760)年~安永5(1776)年
   慶光天皇、(閑院宮典仁親王)、中御門天皇

東叡山寛永寺9世、輪王寺宮御門跡第世 ( 明和9・1772~、天台座主206世
 随宜楽院前天台座主准三宮一品公遵(こうじゅん)法親王  (第5世と重任)
  享保7(1722)年~天明8(1788)年
   中御門天皇

東叡山寛永寺10世、輪王寺宮御門跡第世 ( 安政9・1780~?、天台座主213世
 安楽心院前天台座主一品公延(こうえん)法親王
  宝暦12(1762)年~享和3(1803)年
   慶光天皇、(閑院宮典仁親王)、中御門天皇

東叡山寛永寺11世、輪王寺宮御門跡第世 ( 寛政3・1791~、天台座主216世
 歓喜心院前天台座主一品公澄(こうちょう)法親王
  安永5(1776)年~文政11(1828)年
   伏見宮邦頼親王、桃園天皇

東叡山寛永寺12世、輪王寺宮御門跡第10世 ( 文政11・1828?~、天台座主219世同221世同226世
 自在心院前天台座主准三宮一品舜仁(しゅんにん)入道親王 (公猷入道親王)
  寛政元(1789)年~天保14(1843)年
   有栖川宮織仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺13世、輪王寺宮御門跡第11世 ( 天保14・1843~
 普賢行院一品公紹(こうしょう)入道親王
  文化12(1815)年~弘化3(1846)年
   有栖川宮韶仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺14世、輪王寺宮御門跡第12世 ( 弘化3・1846~
 大楽王院一品慈性(じしょう)法親王
  文化10(1813)年~慶応3(1867)年
   有栖川宮韶仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺15世、輪王寺宮御門跡第13世 ( 慶応3・1867~
 鎮護王院一品公現入道親王==北白川宮能久 ( よしひさ) 親王
  弘化4(1847)年~明治28(1895)年
   伏見宮邦家親王、仁孝天皇

歴代の輪王寺宮の内、「御穏殿坂を通って御穏殿にお渡りになられた方」は、第6世の公啓法親王より後の13人の親王だったと思われます。御穏殿が作られたのが宝暦3年 (1753)で、慶応4年(1868)5月に彰義隊の戦いによって焼失したからです。

 

御穏殿、どんなお屋敷だったんでしょうね。

明治時代、雑誌『風俗画集』の増刊として刊行された『新撰東京名所図会』の御穏殿跡の項に、こんな記述があります。

「造営成りて壮観を極め。常に宮家の遊園なりき。

 五本松の下に茅門ありて、宮は裏傳ひに入らせたりとぞ。

 殿内の絵は狩野洞春美信 ( かのうとうしゅんよしのぶ ) にて。

 泉水島朱欄の橋などあり。

 池内には金邊連 ( ハスの一種 ) を植。月夜などには舟を浮べられ。

 音楽などをさせ給ひし由なり。徳斎の記にこの地の四時の景を叙して。月は御穏殿まへ台の下松原邊。

 尤もよし況 (いわん) や管弦の音山岳にひびく夜はまた仙界の趣あり」

 

写真なんてまだない頃、資料としてはこういったもの。

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薬師寺 (台東区根岸2-19-10) にある案内板

もうひとつ。

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http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1286677&contentNo=1&outputScale=4

国立国会図書館デジタルコレクションから「江戸切絵図、根岸谷中辺絵図」尾張屋版

 

  

前回は気がつきませんでしたが、御穏殿坂の道端に美しい花が咲いていました。

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親王もこんなお花をめでられたのかしら。

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【参考資料】 

松平壱岐守(久松家)研究サイト「伊予の葵」~輪王寺宮 歴代御門跡~より

http://www16.plala.or.jp/iyo13/index.rinnoujinomiya-gomonzeki.html

谷中・桜木・上野公園「路地裏徹底ツァー」~輪王寺宮~

http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/rinnoujiNomiya.htm

「山手線が渡る橋・くぐる橋」~御穏殿坂橋~

http://www.geocities.jp/yamanote_bridge/19nippori/4goinden/goinden-brg.htm

 

 

以下は、今読んでいる「坂の町 江戸東京を歩く」から「御穏殿」の部分を書きだしたものです。

坂の町 江戸東京を歩く 大石学 PHP新書 

根岸御穏殿。

現在、日暮里駅の近くにある御穏殿坂は、この御殿にちなんで名づけられた。江戸時代の精神世界を象徴し、幕末から明治にかけて数奇な運命をたどったこの御殿の主人を紹介しよう。

 徳川家康の側近天海は、江戸の宗教的基盤の確率のため東叡山寛永寺を建立したが、その権威をさらに高めるために、その住職を天皇家から迎えようとした。この構想は天海の生存中は実現しないが、死後の承応 (じょうおう ) 三年 ( 1854 ) 、後水尾 (みずのお ) 天皇の皇子である守澄法親王 (しゅちょうほつしんのう) を迎え、以後、幕末の公現 (こうげん) 法親王にいたるまで代々天皇の実子や養子が法親王として寛永寺の住職を務めた。そして法親王は寛永寺の住職となると同時に代々天台宗の座主 (ざす) につき、日光山の門跡 (もんぜき) も努め、さらに東叡山・日光山・比叡山の三山の三主 ( 住持 ) をも兼帯するなど、仏教界に君臨する象徴的存在となる。

 この寛永寺の住職は正式には輪王寺宮と呼ばれた。輪王寺という門室号は守澄法親王に対して明暦元年 ( 1655 ) 、朝廷より贈られ、その後、歴代の法親王に受け継がれる。由来は仏教の「転輪聖王」である。 古代インドの理想君主である転輪聖王が四方をすみやかに平定することから、仏教界に君臨し統一する存在として「輪王」という門室 ( 法親王の尊称 ) が贈られたという。

 江戸の鎮護する象徴として幕府によって上野に開かれた東叡山寛永寺の住職として、天皇の子である法親王が、「輪王」の称号のもと比叡山・東叡山と日光山に君臨する。幕府の庇護を受け朝廷と仏教界をもたにかける、江戸時代の精神的な御権威を象徴する存在であったのが御穏殿の主人「輪王寺宮」だったのである。

 

上野戦争と最後の輪王寺宮

 寛永寺の主人・輪王寺宮の御殿として宝暦三年 ( 1753 ) 七月に杉崎の地 (台東区 ) を買い上げて造営されたのが根岸御穏殿である。

明治時代、雑誌『風俗画集』の増刊として刊行された『新撰東京名所図会』の御穏殿跡の項には、「造営成りて壮観を極め。常に宮家の遊園なりき。五本松の下に茅門ありて、宮は裏傳ひに入らせたりとぞ。殿内の絵は狩野洞春美信 ( かのうとうしゅんよしのぶ ) にて。泉水島朱欄の橋などあり。池内には金邊連 ( ハスの一種 ) を植。月夜などには舟を浮べられ。音楽などをさせ給ひし由なり。徳斎の記にこの地の四時の景を叙して。月は御穏殿まへ台の下松原邊。尤もよし況 (いわん) や管弦の音山岳にひびく夜はまた仙界の趣あり」とあり、宮様の優雅な暮らしぶりがよくわかる。

 

 さて、権威的存在であった輪王寺宮が政治の表舞台に登場したのは、最後の十五代輪王寺宮となった公現法親王・北白川宮能久親王のときである。

能久親王は弘化四年 (1847) 伏見宮家に生れ、嘉永元年 (1848) 、当時の仁孝天皇の養子となる。安政五年(1858)五月慈性親王の弟となり、同10月親王となり11月入寺して公現法親王となる。そして慶応三年 (1867)五月慈性親王の跡を受けて第十五第輪王寺宮となったのである。

 

 慶応四年 (1868) 正月、京都において開戦した鳥羽・伏見の戦いは、維新政府軍の圧倒的な勝利に終わり、同十二日には将軍徳川慶喜以下、松平容保や松平定敬 ( さだたか ) などの幕府首脳が、幕府軍主力部隊を大阪に残したまま軍艦開陽丸に乗って江戸へ帰還してしまう。

 

 江戸に帰った慶喜は主戦派の幕閣を退け、勝海舟などの恭順派による組閣をおこない、自身は寛永寺に謹慎し、維新政府に対する謝罪の意を明確にする。

『徳川慶喜公伝』はこのときのいきさつを、「公は寛永寺に詣り、先ず輪王寺宮に謁し給ひて、京都への謝罪を御依頼あり、やがて大慈院内の一室 ( 四畳半 ) に屛居 ( 隠居 ) し給ふ」と記している。

慶喜の依頼を受けた能久親王は、側近で寛永寺執当の覚王院義観 ( かくおういんぎかん ) などを引き連れ、三月七日、東海道を東上している有栖川宮大総督と面会し、謝罪状を提出するが直接的な効果はなかった。

 

 慶喜の恭順は、最終的には勝海舟と西郷隆盛の会談によって受け入れられ、江戸が本格的な戦場となることはなかったが、江戸において維新政府軍に一戦を挑むことを主張する者たちが二月十二日彰義隊を結成し、寛永寺で謹慎する慶喜の守護を名目に上野に結集した。

 また、輪王寺宮の周旋が受け入れられなかったことに憤る、覚王院義観を中心とする寛永寺の僧侶がこれと合流し、寛永寺に結集した者は最終的には2000人にもなった。そして当時二十一歳の能久親王は、江戸の主戦派の象徴として彰義隊によって擁立されたのである。

 

 江戸城の空け渡しが終了した五月十五日朝、大村益次郎率いる諸藩兵17,000人の維新政府軍による彰義隊への攻撃がはじまる。

そして、アームストロング砲による圧倒的な火力よって夕方には彰義隊は壊滅した。維新政府軍の死者はすぐに埋葬されたが彰義隊の死者はそのまま放置されたので、上野山は彰義隊の戦死者が累々とした悲惨な状況だったと、維新を経験した江戸の古老の回想『維新物語』は記している。

 

 この戦争で御穏殿は焼失した。根岸の御殿は輪王寺宮の門室合とともにこの世から姿を消したのである。