Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

夏旅Vol.15 舞鶴 赤れんが博物館

 

小浜のホテルから見えたあの岬、青井岬っていったかな?

     気になったので行ってみることにしました。

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今日の泊まりは、金沢にしました。

富山も候補にしていたんですが、ホテルが取れません。

もう一日あったら、富山も行きたかったんですけど。。。。

小浜から、金沢までは高速で3時間ほどなので、まだ時間はある。

ということで、少しこの辺りを観光することに。

 

福井といえば去年は東尋坊に行ったなぁ。とても綺麗な場所でした。

今年はどうしよう。

「なんかさ、舞鶴にレンガの博物館があるらしいよ。」

舞鶴っていうのは、反対方向でしょ? 

どのくらいかかるかわからないけど、行ってみようね。

 

 

さて。

気になる峠ですけど、走り出してしばらくしたら、こんなに辺鄙な道になりました。

農道かっ?

どんどんどんどん道は細くなり、やがてすれ違えない位になりました。

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対向車が来たら、どうしよう。。。

ドキドキしながら進む、でも対向車は一台もなし。

それはそれで怖いんです、誰もいない道を走るのって。

 

やっと見晴らしの良い場所に出ました。

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振り返ってみると、こんな道。

なんだったんだろう、凄く怖い道でした ww

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でも、景色は素晴らしい。

誰もいないから、独り占め。。。ふたりだけど

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この写真、今回の旅で一番好きな景色です。⤵ 

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私たちが迷い込んだ「農道?」は、海に面した道でしたが、

国道はあの正面にあって、真っすぐな良い道です。 

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やっと国道に合流。

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そうか、舞鶴って京都なんだ。京都に来ちゃったんだ。

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今回の立ち寄り地は、浜松 ( 静岡 ) 、長浜・近江八幡 ( 滋賀 ) 、小浜 ( 福井 ) 、金沢 ( 石川 ) ですが、そこに京都もプラスされてしまった。

「ここまで (京都まで) 来たんなら、鳥取にも行けそうだね。」

「いや、そりゃ流石に無理だ。」

「そうかね、冬だったら、カニ食べたいなぁ、鳥取で。」

 

そんなこんな話している内に、到着。

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おお、船だ。

そうか、海上自衛隊が舞鶴にありますもんね。

そういう船なのかな、詳しくないからわからないけど。

 

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本当に、京都なんですね、ここ。 

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着きました、れんがの博物館。

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舞鶴市立赤れんが博物館というのが正式名称です。

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入館料を払おうと思ったら、2館共通観覧券というのがあるとのこと、

それにしました。

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ここも人がいません。

今回の旅は、ほんとに空いているなぁ。

夏休みよねぇまだ、みんなどこに行っているんだろう。

 

博物館を並ばなくて観覧できるのは、嬉しい。

まず一階、世界のレンガが展示されてます。

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凄い、色々な国のレンガを集めてあります。

でも、どう違うのか、いまひとつわからない。

だって、内容濃すぎるんだもの。専門的っていうか(笑)

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古代のれんがから説明があります。 

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ホフマン窯

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ホフマン窯は、1858年にドイツ人技師のホフマンさんが考案し、特許をとった窯なんですって。

Wikipediaによると⤵

今までの煉瓦窯では、焼成前の(生の)煉瓦を入れて焼きあげ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れ…といった工程で、火を点けて消し、を繰り返すことになる。

 

ホフマン窯では、窯を環状(円形、楕円形等)に配置して、連続して煉瓦を製造できるようにしたものである。窯の内部に生の煉瓦を積み重ね、上部からコークスを入れて焼成する。一つの区画で焼き上がると、また次の区画に火を移して焼成を繰り返してゆく。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができるようになった。

そうなんだ。

昔は一回一回窯を冷やしていたんですね。そりゃぁ手間だったろうに。

「だったら窯を連結し、焼いているブースと、冷ましているブースを造ろう」

ホフマンさんのこの効率的、明解なアイデアは見事です。

ちょっと考えれば思いつきそうなアイデアにも思えますが、実際に形にするとなると、

なかなか工夫や技術が必要だったのでしょう。

 

そして、ここがホフマン窯を再現したコーナー。

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煉瓦を焼く内側の構造だそうですが、美しい。

近江八幡のたねやさんに飾ってあった和菓子の型もそうでしたが、

美しいものや美味しいものを作る道具というのも、それ自身美しいものだと実感。

屋根につづく曲線がなんとも美しい。

 

煉瓦といえば、 ヨーロッパのイメージがありますし、

日本など地震の多い国では耐震的には大丈夫なのかしら。

とにかく明治時代の建物には煉瓦が多かったように思います。

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私が実際に見たことがある煉瓦の建造物といえば、

東京駅に富岡製糸場、そして先日は大阪市中央公会堂を見ました。

 

あったあった、大阪市中央公会堂!!!!

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こんなところで再会できるなんて。

 

大阪市中央公会堂は、7月に大阪に出張した時に見たんですが、

仕事の合間だったので内部を見ることもなく、詳細もわからないまま帰ってきてしまいました。

 

 

気になっていた建物のことが、ここに来てわかるなんて。ヤッホー

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案内板には、こう書いてあります。

水の都・大阪を代表する一体である中之島に建つ大阪市中央公会堂は、大阪のれんが建築の代表でもあります。この建物は大阪の株仲買人であった岩本栄之助が1911年 ( 明治44 ) に100万円を市に寄付し、建設されました。㈶公会堂建設事務所が設立され、辰野金吾の考えで、日本中からデザインの明主が指名されて設計案が集められました。

そして辰野と提出者全員で審査会を開き、最年少であった岡田信一郎の案が一等に選ばれました。それをもとに辰野片岡事務所が設計しました。東側正面の大アーチは岡田の原案ですが、赤れんがを得意とする辰野らしいまとめ方がされています。

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なるほど。。。

これを読むと、公会堂建設は「提出者全員で審査会を開き」とあり、

公平にコンペが執り行われたように感じます。

 

辰野金吾さんは東京駅を作られた大御所ですよね。

そのくらいの知識しかなかったので調べてみたところ、こんな記事がありました。

サライ 

 明治時代を代表する建築家・辰野金吾(たつの・きんご)には、「建築家になったからには、生涯この3つを設計したい」という野心があった。

1つ目は「日本銀行本店」、2つ目が「東京駅」(中央停車場)、そして3つ目が「国会議事堂」であった。

明治29年に辰野は「日本銀行本店」を完成させ、大正3年には「東京駅」を竣工へ導く。こうして、辰野の最大の関心は「国会議事堂」の設計へと向けられるようになった。

ところが当時、国会議事堂の設計については、大蔵省の建築を多く手がけるなど国とのパイプも太かった妻木頼黄(つまき・よりなか)に決まりかけていた。 ここに辰野は待ったをかけた。

「コンペ形式で案を募り、設計者を決めよう」と提案したのである。

一見公平に思える提案だが、審査委員長には辰野が就任し、しかも「審査委員長も応募できる」という内容だった。

審査委員長が自作を選出するのは目に見えている。これにはさすがに批判が巻き起こり、辰野の親友であった建築家・曾禰達蔵(そね・たつぞう)も苦言を呈するほどであったという。

程なくして「審査委員長も応募できる」という要項は削除されたが、辰野はそれでも「国会議事堂」を設計する夢を諦めていなかった。

 

例えば、「大阪市中央公会堂」のコンペでは、のちに「明治生命館」を設計する岡田信一郎が選ばれたが、審査委員長だった辰野は岡田の案に大きく手を入れ、自作に仕立ててしまっている。

「国会議事堂」でも最終手段として、こうした“禁じ手”を使おうと目論んでいたのかもしれない。

 

しかし、「国会議事堂」のコンペは波乱ずくめだった。妻木が病に倒れて亡くなり、辰野までもがスペイン風邪でこの世を去ってしまったのだ。

明治建築界の大御所を立て続けに失ったコンペは遅れに遅れ、議事堂は昭和11年にようやく完成を見た。

結局そのデザインは、設計者があいまいな、いわば“詠み人知らず”のデザインになってしまったのである。

 

ところで、辰野は性格こそ強引なところはあったが、人々に親しまれる建築をデザインする手腕は極めて高かった。

「東京駅」をはじめ、手掛けた建築は各地のランドマークとなり、愛されている。 現在の「国会議事堂」は、なるほど、名建築には違いないが、あのピラミッド状のシルエットを愛する人が多いかというと疑問が残る。

もし辰野が「国会議事堂」を設計していたらどうだったか。日本の政治の舞台に対する印象も、ずいぶん違うものになっていたに違いない。

                        文・写真/山内貴範

 

おお、なかなか大人の事情もあったのか。

 

よく思うのですが、こういう案内板でも記事でも、ひとつだけ見ると印象が偏ってしまうこともあり、ある意味では危険なことだと思います。

最初の案内板だけで読む限りは公平な印象を受けましたが、

後の記事を読むと、一概にそうともいえない。

しかし、後の記事が真実かといえば、それだって書いた方の主観が入るわけです。

立場や考え方によって物事は色々な観方があるということを理解した上で、

最終的には自分で判断しなければならないのだと思った次第。

 

おお、こりゃまた脱線。

下は大阪市中央公会堂の「耐力調査時に採集されたコア ( 供試体 ) 」

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凄いです。

この赤れんが博物館には、各建物にこのような展示物が付いています。

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この方が、大阪市に対して100万円を寄付したという岩本栄之助さん。

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明治44年の100万円というのは今の値段で70億円相当だそうで、

どんな金持ちかっていうと大阪・北浜で株式仲買人をしていた人らしい。

で。寄付した理由っていうのが凄い。

彼が32歳の時、澁澤榮一さんを団長にした「渡米実業団」に参加し、対米中に実府の訃報で帰国したんですが、

滞米中にカーネギーなど米国の富豪が社会貢献事業に私財を投ずることを見聞きし影響を受けたっていうじゃない。

栄之助さんは亡父の遺産50万円に浄財50万円を合わせた額を公益のために寄付することを決意したんですって。

 

 彼は、帰国後澁澤榮一さんらに相談の上、明治44年に大阪府に対し100万円を寄付して、中央公会堂建設を提案したんだそうです。

凄いですよね。個人の寄付ですよ、な、な、、ななじゅうおくえん。

 

ところが。。。栄之助さんは事業の失敗から大正5年10月 39歳で自殺。公会堂

の施工は見ることがなかったそうなの。

「落成奉告祭では、栄之助さんの愛娘4歳が母テルの付き添いで大阪市長に鍵箱を手渡し、市民の涙を誘った。」んだそうな。

波乱の人生って片付けちゃ簡単すぎて申し訳けないが、それ以外の言葉がみつかりません。

 

この話を知って、岩本栄之助さんという方のことをもっと知りたくなったのと同時に、またもや澁澤のおじいちゃま登場。と驚いてしまいました。

 

さっきも言いましたが、大阪で中央公会堂を見て、まだ調べきれないところで、ここ舞鶴でこんなにも詳しく「中央公会堂」のことがわかって吃驚しました。

 

赤れんが博物館の凄いのは、このボリュームで、他の建物のことも説明がし尽くされているのです。

専門的というか、全部は見きれない。

あまりにも情報が多すぎて、アップアップしてしまいます。

 

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富岡製紙場のブースもこんな感じ。 

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これはねぇ、一度では吸収しきれない情報量です。

もう少し近かったら、お勉強をしてからまた再来したい、

そんな凄い博物館でした。

 

もうひとつ、れんがの博物館なんですが、何故か ( 理由はあるんでしょうが見そびれた ) 鉱山の開発と囚人使役の話についてかなり詳しいブースもありました。⤵ 

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明治時代は、鉱山、炭鉱採掘などに囚人を投入していて、過酷な採炭作業をさせていたんですって。

上のボードに詳しく書いてあったんですが、ざっくりいうと、自由民権運動が盛んになった明治17年ごろ、反乱を起こし

 弾圧が行われ、受刑者が33,000人から63,000人に激増。

政府はこの囚人急増を奇貨として、炭鉱に送り込んだ。

例えば北海道、空知集治監は、幌内炭鉱での使役のために設置されたんだそうな。

それで飛躍的に経営が潤ったのが財閥で、安田善次郎 ( 安田財閥 ) もその恩恵にあずかったけれど、鉱山の労働で盲目になる人や死亡者が多すぎて採掘使役を中止したそうです。

それでも、各地では囚人使役は続けられ、三池炭鉱もずっと囚人を従事させていたそうです。

三池炭鉱っていったら、あれでしたよ。

NHK朝ドラの「あさが来た」

あのドラマにも登場しましたが、主人公あさが炭鉱を買って儲ける話がありましたよね。

ドラマでは荒ぶる炭鉱夫の中に、あさが乗り込んで、お相撲なんかをして人気者になって、炭鉱夫たちがあさをボスとして認めるなんていう話になっていました。

しかし、あれも本当は三井が三池炭鉱を買取った時に、囚人使役は引き続き認められたので、その犠牲に成り立つ安価な石炭が国際市場で競争力をもって、三井財閥発展の礎となったというのが本当のところらしい。

 

れんがの博物館で、こんなことを知ることになるなんて、まあなんだろう。

本当に、この博物館、また来たいです。

凄いんだもの。

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こんなのも、ありました。

ジグソーパズルっていうんでしょうか、積み木。

結構楽しみました。

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れんが博物館、本当に凄いです。

何がって、情報量が半端ないということもありますが、働いている方が意欲的で活気があるのです。

ちょっとした質問でも、真剣に対応してくれたし、

道案内のコピーもひとつとってもこのひとつ色付けしたり工夫もしているのです。

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帰り際に、受付の方に聞いてみました。

「凄い、展示量ですね。

 情報量も凄くて、一度には見きれませんでした。これ全部、市で集めたんですか」

係の女性は、

「はい。全部市で収集した資料です」と目をキラキラさせておっしゃった。

なんかね、自分たちの仕事に自信を持って、意欲をもって取り組んでいるのがわかりました。

だからでしょう、博物館を一歩入った時から、その気迫のようなものが伝わってきましたもの。

 

舞鶴市立赤れんが博物館。

良い施設を見学できました。

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