Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

夏旅Vol.16 舞鶴 引揚記念館

赤れんが博物館を見学してから、

市役所の先の赤れんが倉庫群を見に行こうと思います。

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歩いて5分くらいだそうで、真鶴東港に沿って行けばよいらしい。

 

そういえば。

赤れんが博物館の中に舞鶴港に関係している戦艦の写真が掲載されているコーナーに、

20代の女性が3人いました。

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「見て見て、〇〇よ」「うわーっ」「こっちは〇〇だ」とかなり興奮。

彼女たちはなんだ? 海上自衛隊オタクなのかな。

いや、今の自衛艦じゃなくて、もっと古い戦艦に詳しい人たち。

いずれにしても、お船が好きなんでしょう。

いいなぁ、同じ趣味の仲間と旅行に来て盛り上がれるなんて。

とても楽しそうでした。

 

大きな自衛艦が停留しています。

本物を見るのは、初めてです。

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舳先の横に425と書いてあります。

もしかしたら、これで船名とかわかるのかな。。。

※ 調べてみました、425というのはどうやら「ましゅう」という名前の自衛艦のようです。


赤れんが倉庫群が見えてきました。

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舞鶴市には、1901年 ( 明治34年 ) の旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、明治期から大正期にかけて建設された赤れんが建造物が数多く残っています。

なかでも全部で12棟からなる北吸地区の「赤れんが倉庫群」は、うち8棟が国の重要文化財に指定されているほか、平成24年には「舞鶴赤れんがパーク」としてグランドオープンしました。

 

左の建物が、舞鶴市政記念館。右はまいづる智恵倉。正面が赤れんがイベントホールという名称になっています。

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まいづる智恵蔵は、明治35年 (1902 ) に旧海軍兵器廠の倉庫として建設されたれんが造の倉庫で、終戦までは弾丸庫並小銃庫として、戦後は民間倉庫会社の倉庫として使われていたそうです。

現在は、舞鶴の海の京都エリアの土産物が並ぶショップや、旧海軍ゆかりの展示場になっています。

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ところ狭しと並ぶ、京都( 海の ) の物産。

海上自衛隊のマスコットやTシャツなんかもありました。

それから、カレーも(笑)

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赤れんが工房

こちらも知恵蔵として使われている建物と同じ明治35年に建てられたもの。

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通常はフリースペースになっていて、音楽練習や、結婚式にも使えるそうです。

 

良い立地ですね、、、、あたりまえか、

この倉庫から弾薬や兵器を船に移していたのだから。

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舞鶴市街地は、下の地図のように碁盤の目になっています。

今回市街地を歩き回りませんでしたけど、

京都中心地と同じように、縦は一条通~九条通り、

横は軍艦の名前になっているそうです。

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戦艦通り:舞鶴市街地の軍艦地名 -1-:東舞鶴(舞鶴市浜)

 

2階の展示スペースには、旧海軍関連の資料の他、

舞鶴の歴史や名刹についての解説もありました。

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ほほーう、戦艦三笠です

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日露戦争における連合艦隊首脳の写真ですって。

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3回にわたる旅順港封鎖作戦のあと、艦船の修理・整備のため帰国した連合艦隊首脳が、東京へ報告に上がる途中、神戸に立ち寄り歓迎会に臨んだときの集合写真。神戸駅階上のみかど食堂で明治37年12月26日撮影。

背後にクリスマスツリーが見える。半年後に彼らはバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃つことになった。

右から、第一艦隊参謀・秋山真之中佐、第二艦隊参謀長・加藤友三郎大佐、第二艦隊司令長官

・上村彦之丞中将、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将、第一艦隊参謀長・島村速雄大佐、第二艦隊副官・船越楫四郎少佐 (職名階級は当時のもの)

 

 

 

 れんが倉庫から出てきたら、また自衛艦。

こっちのは、682と書いてある。

※ すがしま型 とじまという船のようです。

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人が出てきた。

人と一緒に写すと船の大きさがわかりますね。

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ここから遊覧船が出るようです。

乗ってみたい。・・・でも時間が合いませんでした。

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「海軍&引揚ゆかりの港めぐり遊覧船」と書いてあります。

『海軍』というのは、当時のことなんでしょうね、もちろん。

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さきほどの倉庫でも「海の京都」とありましたが、

どういう意味なんだろう。

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マンホール ww

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さて、こちらは車で5分ほど走ったところにある「引揚記念館」

記念館は写真不可だったので観覧したのち、展望台に来ました。

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この展望台から、引き揚げ桟橋があった所が見えるんですって。

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あの辺らしい。

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今は静かな海ですが、

多くの引き揚げ者がこの港に到着した当時はとても賑わっていたようです。

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引き揚げ船は下のつり橋のあたりまでしか入れず、

はしけ (小舟) が、引き揚げ船に横づけされ、

引き揚げ者ははいけに乗船し、桟橋に上陸しました。

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目と鼻の桟橋まで、あと少し。

早く家族に会いたいともどかしかったことでしょう。

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「桟橋には出迎えの家族などの姿があって、肉親の名前を大きく書いたのぼりが立ち並び、やがてそこかしこから悲鳴にも似た嗚咽と爆発するような喜びの声が交錯しました」

これが引き揚げ船が着くたびに見られた光景だったそうです。

 

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引き揚げ記念館で、驚いたことがあります。

終戦が昭和20年で9月に舞鶴港が引き揚げ港に指定されてから

最後の集団引き揚げが終わるまで十三年かかったのだそうです。

 

最後の引き揚げ者がここについたのが、昭和33年9月。

私とMOURI の生まれた年です。

自分が生れた年にもまだ、祖国に帰れない人がいたということを知り、

まだ戦争は終わっていなかったんだなと感じました。

そんなことも知らずに生きてきた自分に自己嫌悪。。。

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展望台の小径には、この公園の整備の為に、

寄付をした方たちの名前が書かれた柱が林立していました。

 

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小浜から舞鶴まで小一時間運転して、赤れんがパークと引き揚げ記念館を見学したら、

そろそろお腹もすいてきた。

一昨日は鰻、昨日は近江牛と、豪勢な昼食でしたが、

今日は目先を変えて「天下一品」です。

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これは、京都に寄ることになった時に決めていました。

京都の昼食は天下一品にしょうと。

 

もちろん東京でもよく食べますが、舞鶴で食べた「こってり」は正解でした。

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ネギが甘くておいしいんです、東京よりも。

とろっと甘いネギのお陰で、東京よりも一段美味しく感じました。

美味しいなぁ、大感動。

ごちそうさまでした