Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

明治大正実話全集 第4巻 名人苦心実話 村松梢風:著

 

布張りの古書、

「明治・大正 実話全集 (4) 名人苦心実話」と書いてあります。

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作者は、村松梢風さん。

先日「横浜富貴摟 お倉」を読みましたが、その作者です。

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村松梢風さんは、村松友視さんのおじいさん。

※ 友視さんは父-村松友吾さんが早世後、祖父-梢風さんの戸籍 (五男として) に入った。

梢風さんは中国通であり、歌舞伎・落語など芸能にも明るい方で、ジャーナリストから作家になられたんだそうです。

デビュー作は「琴姫物語」。それを大正四年に『中央公論』から発表して以来、「中間読み物」と呼ばれる新しいジャンルを開拓したのだそうです。

 

中間読み物って何かっていうと ( 木村穀さんの説によれば  ) 「村松文学は、丹念に収集された実録を基本にして、巷間で粉飾された要素を剥落させ、正傳に近いものにしようとした」とのこと。

名人苦心実話をまとめるとしたら村松さんをおいて他ないのではないでしょうか。

 

f:id:garadanikki:20171016182109j:plainここでちょっと全集の話。

全集は ( 調べた限りでは ) 12巻まで存在します。

当初、内容は全部「名人苦心実話」で

村松梢風さんの全集なのかと思っていました。

ところがそうではない。

一巻一巻ジャンルが違うんです。

そして各分野に明るい人が執筆して、

それが全集になっているのです。

 

例えば、

第二巻 悲恋情死実話は、三上於菟吉が執筆されていて、

  有島武郎事件、野村隈畔情死の真相、北川三郎の情死、

  芳川鎌子運転手事件、抱月須磨子事件などが収録されています。何だろうなぁ今で言うゴシップ集なのか、それとも真剣に語っているのか、ちょっと興味のあるところです。

 

他には、こんな巻があります。

政界疑獄実話、強盗殺人実話、財界興亡実話、妖艶淪落実話、詐欺横領実話、義理人情実話、陰謀騒擾実話、裏面暗面実話

当時、この全集の意図するものが何だったのか、読者はこれを全部買ったのかはわかりませんし、私も流石に全部入手する気はありません。


全集はともあれ 

村松梢風さんの「名人苦心実話」は、今後調べものをするのに一冊手元にあってもいいかと思い購入しました。

 

こんな方々のエピソードがつまっています。⤵ ぴ~が本を抑えてくれるって ww

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村松梢風さんは1961年 ( 昭和36 ) にお亡くなりになられていて、著作権が切れているので、ひとつ有名なところを抜粋しておこうかと思います。

初代三遊亭圓朝

落語で有名な「牡丹灯籠」、あれを書いた方です。

落語家としても超~有名ですが、創作落語をバンバン書いた方です。

 

とにかく凄い、全集までが出ているんですから。

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怪談 牡丹灯篭については昨年、志の輔らくごを聞きに行った時に知りました。

三遊亭圓朝さんが書いた、全編30時間にも及ぶ大作で、師匠はそれを2時間ずつ15日間かけて高座で語ったのだって。

圓朝さんが「怪談牡丹灯籠」を高座にかけていた時、酒井昇造さんという方が速記をされました。

酒井さんがもし、文字起こしをくれなかったら、牡丹灯篭という演目は現在出来なかったかも。

ただし、30時間かけて全編やる人はいないでしょうが。。。

昨今は大抵「牡丹灯籠」の一部、幽霊になったお露が、牡丹の柄の灯篭を持って、愛しい新三郎さんのところにやってくるという、「カランコロン」というあの場面が高座にかかります。

てっきりそれが「牡丹灯籠」の全容だと思っていましたから、30時間の大作だなんて驚きました。

 

さて、本の内容に戻ります。

圓朝さんがどうして新作を次々と書くようになったかという話が、「名人苦心実話」でわかりました。

それは、師匠に自分が今日やるつもりだった噺を先にやられてしまったからだというのです。

いじめですかね。出る杭は打つですかね。師匠の嫉妬?

圓朝さんは、落語に初めて芝居の小道具と鳴り物をとりいれた人なんだそうで、

鳴り物を用意して高座にあがろうとする。しかし、先に高座にあがった師匠がそのネタやっちゃった。

がΣ(゚д゚lll)ガーン

で。

圓朝さんは考えた。

「先にやられるのは知ってる噺だからだ。だったら自分で噺を作っちゃおう」

って、そう言ったかどうかは知りませんけど、この本にはそれがキッカケのように書かれています。

へぇ、そうだったんだと思うエピソードでしょう?

この分だと他の名人の章にも沢山、こういう話が詰まってるでしょうから、楽しみです。

 

今 私は圓朝さんから、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎と読み終わったところ。

他に知ってるところといえば川上音二郎とか、小さんとかですか。

その辺りを拾い読みしようと思います。

残りは随時、その名人のことを知ってから読むのでいいと思っています、資料として。

 

 

それでは。

もしお時間があって、

「圓朝さんの苦心実話」にご興味がある方は、

続きを読むをどうぞ。全文、現代かな遣いに直してアップしました。

 初代三遊亭圓朝

いまの落語家 (はなしか) には禄なのがない。従って、江戸の名残りの落語は衰えてしまった。

と、同時に、名人三遊亭圓朝を偲ばずには居られない。彼は落語家 (はなしか) でなく、芸術家であり紳士だった。現代 (いま) では、平等思想が普及したから、べつに落語家 (はなしか) だからと言って、軽視する者はなくなった。彼らの品位もまた向上している。けれど、幕末の頃は、決して人間並みに取り扱われていなかったのであるが、圓朝だけは、世間から特別に待遇されていた。

『彼の落語 (はなし) は、身振りや手真似をしないし、調子はずれの大声も出さず、しんみりと話を進め、じわじわと人の心に深みへひきずってゆくところに、何とも言えぬ妙味があった』と、言うことだ。

 

 兎に角、彼は我が落語会中興の偉人での、空前の名人であった。のみならず、後進を指導することに於いても、周到懇切を極め、理想的の教育者でもあったから、彼の門弟には秀才が多かった。当時の東京の落語界は、三遊派 と柳派の二つがあり、三遊派の圓朝門下には秀才が多かったから、圓朝没後しばらくの間柳派は負けていた。三遊派の圓朝門下には、園喬、園左、園右、園遊、小圓朝という勇将があったのに対して、柳派では、小さん、柳喬以下は、燕枝、助六、左楽、柳枝などではおっつかず、その上、三遊派には、二代目圓朝を襲名するだろうと噂された、圓生という渋い芸を持っていた長老もいたのだから、どうしても優勢だったわけである。

 

 こうした名人圓朝の前身は、出淵次郎吉といい、武士の家に生まれたものである。が、次郎吉の祖父太吉は、前田備前守に仕えて、江戸のお留守居役であったが、その長男である長蔵は、武士を嫌って二世三遊亭圓生の門下になって、橘家圓太郎と言い、その頃珍しい喇叭を吹きたて、客を煙に巻き、相当に人気をとっていた。そんなことで子の次郎吉もまた、落語家 (はなしか) にしようとして育てたので、彼はやっと舌の廻るころから、はや小噺の一つくらい出来るようになった。と、同時に、弁才はずんずん上達して、七歳の時には、大勢の前で、平気で噺が出来るほどになると、大いに喜んだ圓太郎は、次郎吉に小圓太という名をつけて、落語家 (はなしか) の仲間に入れたから、彼は高座に現れることになった。

 

 すると、その頃の江戸には、僅か七八歳の落語家 (はなしか) というものが無かったから、忽ち江戸じゅうの評判になり、彼の噺を聞くための客が大入満員という盛況を呈した。が、彼の母は、彼を武士にしたいと思って、一度は廃業させて、商店の丁稚にまでした。が、席亭は客の人気をたのんで、圓太郎を責め、母を説いて、再び落語家にすると、小圓太の芸はずんずん上達して、いよいよ世人から認められた。

 

 その後、小圓太は天才を発揮し、安政四年は十八歳で真打となり、圓朝と名乗り、はじめて、芝居の小道具と鳴物を用いて、世話物を講じた。この、圓朝の芝居噺が、すこぶる呼び物となったが、のちにそれを門人圓東 ( 三代目圓生 ) に譲り、彼自らは専心素噺を研究して、牡丹灯籠・累ケ淵・菊模様皿山奇談・塩原多助・英国孝子傳・美人の生埋・江島屋騒動・安中草三・業平文治などという名作を創作して、温雅な行き届いた語り口で、老若男女を感動させた。が、明治二十五年に病気の為に退隠し、三十三年八月十一日に、六十二歳で没したのである。なかでも、彼の創作塩原多助を粉本にして、先代菊五郎が舞台で馬の泣き別れを見せたときには、ことごとく見物の袖を濡らしたということである。

 

 余技としては、書画・歌・俳句にも造詣が深く、さすが武士の家から出た人だけに、人となりの上品なところから、知名の文士画家、その他上流の人々に敬愛されていた。と、同時に、自分で人に知られるようになってからの彼は品行をよくし、某紳士から芸妓延新を千円で懸賞でけしかけたが、遂に陥落することが出来なかったそうだ。

 

 彼が圓生を師として、その道を本当に修行することになると、谷中長安寺に兄が玄正と言って住職をしていたので、そこで寺侍の代わりをしながら、熱心に落語の稽古をやっているのだった。

 

 夜は寄席に出て、朝になると圓生のところに稽古に行き、寺に帰って来ると、また自分で落語の練習を賢明にやっているのであるが、そこはさすがに寺のことだから、辺りは静かであるし、葬式 (とむらい) だの法事のない日にはいつも空いているその広々した本堂に座って、ご本尊様を相手にやっていると、ある日のこと兄玄正がそこに来て、

『なかなか稽古に精を出すな。なんでも稽古をするには決して他に心を移してはいかん、ただ一心に勉めないことには進歩するものではない。おまえが落語を稽古するにも矢張りそうだ。我が宗旨で行うように、ちゃんと座禅を組んで心を外部に移さず考案工夫を積むようにしたがいい。芸人となることに不賛成であったが、もうしかたがないから、あくまでも勉強して、あっぱれ名人上手と言われるようにならなければならぬ』と、しみじみと教訓した。

『ありがとうございます。そう心がけましょうから』と、こう答えた、圓朝の小圓太は、兄の教訓に従い、一層修行に努めながら、いつか十七歳になった。

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 しかるに、その頃、師匠の圓生の門弟は次第に減ってきていた。そうして、師匠もだんだん年寄りになって来たので、他の師匠に走るものが多く、弟子としたら、圓蔵・圓太郎・小圓太の三人きりになったという、まことに寂しい、情けない有様である。それを眺めていた小圓太は、若年ながら、憂慮しないではいられなかったのである。元祖の圓生には、古今亭新生・金原亭馬生・三升家小勝・圓蔵などいう名だたる門下があり、すこぶる盛んであった。またいまの師匠にも、もとは沢山な弟子があったことを考えると、悲しくてしょうがない。

『よし、こう衰えた我が派を興すには、自分が勉強して、芸を研き、天下に名を轟かすより他はない』

と、こう発奮した小圓太は、その日から元祖圓生の菩提所である金龍寺へ詣で、

『わが芸が上達して天下に名をあげるようにお護り下さいますように』と、生きている人に向って言うように、その墓前に祈願したのちに、名を圓朝と改めた。ちょうど、その日は、元祖圓生の忌日で、圓朝十七歳の春であった。

 

 その頃出席していたのは、外神田広小路にあった『川芳』で、二つ目か三つ目の落語家 (はなしか) だったのである。が、はからずもその日、弟子になりたいという者が訪ねて来た。

 で、これぞ元祖の手引きだと思ったから、圓朝は喜んで彼と子弟の約を結び、圓三と名づけて落語を教えることにした。圓三は、もと神田で寿司屋をしていた男で、豊次郎と言ったものだが、それが圓朝の弟子をとったそもそものはじめである。

 

 しかるに、またそのうち一人の弟子が出来たので、二人の弟子と自分では、寺の門番に住まわっていた当時の圓朝のことだから、何とも仕様がない。

 昼の稽古は、例によって寺の本堂でしていたが、夜は本堂に寝泊まりするわけにもいかなかったので、母だけを長安寺に残して、圓朝だけ二人の弟子とともに、下谷池の端七軒町の裏店に借家した。が、男所帯のことではあり、二人の弟子にしたところで、まだ年も若く、炊事その他のことは出来ないものだから圓朝自身がその任に当たるより他はない。

 で、圓朝は、朝早くから起きて、女のする働きを台所でしなければならなかった。と、その姿も、手ぬぐいを被ったり、赤い襷をかけたり、赤い細帯を占めていたりするので、出入りの八百屋だの魚屋などは、圓朝をその家の細君と思い違え、弟子を亭主と思って、彼のことを、

『おかみさん!』とよんだりしたので、長屋中の大笑いとなったりしていた。

 しかし、圓朝はそんなことに頓着なく、自炊しながら弟子を養い、自らも芸道に精進して、他日の大成を期していたのだから、あたりまえの青年とはその心がけが違っていた。

 いったい、師匠が毎朝早く起きて、自分が煮炊きの労を執りながら、弟子に稽古をつけていたという話は、めったにあるものではない。が、それを平気でやっていたところが、圓朝の偉いところで若い頃て、後進を教導することに親切であった。ことほど左様に、後年彼の門下から沢山の俊才を出し、斯界に覇を唱えたばかりか、落語界中興の祖と尊 (たっと) ばれるに至ったのである。

 

 圓朝の歿後、圓左が彼を追憶して、

『ある日、庭を出て、ぼんやり植木を眺めていますと、突然背後から、ワッといって驚かされましたから、吃驚して振り向きますと、それは亡師で----お前驚いたか?----と言いますから、本当に吃驚りしましたと言いましたところ、亡師は---驚いた呼吸というものはそうしたものだから、その呼吸を忘れず、話のなかに驚くところがあったら、いまの気持ちでおやりよ----と、言いましたが、亡師は時々コンナことをして、その呼吸を呑み込ませました』と、語ったことである。

 

 また、圓朝は、弟子たちにガミガミ小言を言わなかった。弟子のうちに、その弟子たちら小言を言うものがあると、腹が立ったら、その腹が立った心持ちでそういう話を教えてやり、使いにやって用を忘れて帰って来たら、物を忘れた話を教えてやるようにしろと戒めたそうである。また、自分で苦しんで工夫するのも修行であるから、能く練って考えろと言ったそうである。が、それらからも、彼の指導者としての一般を知ることが出来るのではないか。

 それは、とも角くとして、圓朝が修行に熱心なことは非常なもので、元祖圓生の墓に祈願するほか、成田の不動尊へも祈願をこめ、毎日寄席へ出る前、井戸端の四斗樽に水を一杯汲みこんでおき、夜 席から帰って来ると、丸裸になって、その水を浴びながら、不動尊に芸の上達を祈願していた。

 

 そうした、彼の熱心をば、神仏も感じられたのであろう、その頃から圓朝の記憶力は次第に増進し一度耳にしたことは記憶して忘れることがないようになった。

 いったい、その頃の落語家 (はなしか) 社界では、十五通りの話を覚えれば、それで一人前の落語家 (はなしか) と言われあたりまえの者は、十種の話を知っていれば記憶がいいとされていた。しかるに、圓朝が僅か間に五十余通りの話を覚えてしまったことは、当時の落語家 (はなしか) 社界の驚異であったそうだ。なんでも、芸道にはこの記憶が大切なことで、記憶が悪かったら、どんなに努力したところで、その道の上達は難しいものだが、圓朝が、かくも記憶力に富んでいたことは、名人となるべき最大の武器を得たというべきであったのである。

 

 ところが、まだ圓朝は真打になることは出来なかった。何とかして、真打になりたいと思って様々に運動したが、一流の寄席では一向取り合ってくれないのだから困った。けれど、彼もまた非凡人であったから、鶏口となるも牛後となるなかれで、下等な寄席に看板を揚げて、とも角も真打となった。時に、年十七歳というのだから、若いにも若いが、覇気もあったものである。

 で、圓朝は、二人の弟子と、音曲噺の桂文歌を率いて、駒込、下谷廣徳寺前あたりの寄席を、真打として廻ったが、更に客が来ない。で、失望した彼は、その年の九月に、早稲田の寄席に現れ、木戸二十八文に下げたところ、思いの外の大入りをしめ、毎夜五し六十の客があったので、月を越してまて打ちつづけていた。

 と、十月の二日の夜、彼が高座で噺をやっていると、大地震があってめちゃめちゃになってしまった。それが、安政の大震災である。で、夢中で飛び出した彼は、湯島の伯父の家に行ったけれど、家内の者が旗本屋敷の庭に避難していたので、そこに一夜を明かし、生家に行くと、つぶれているので、谷中の長安寺へ行くと、はじめて、無事な兄や母の顔を見ることが出来たという次第だった。

 その翌年、安政三年は圓朝も十八歳になった。大地震のどさくさも鎮まり、復興景気も出て来たので寄席も繁盛して来たから、彼も方々の寄席に出られて来たので、寺に厄介になってもいられず、池の端七軒町の表店へと移転した。その頃は、彼も次第に認められて、桂文楽に随い、中入り前に出ることになったから、自然収入 (みいり) もよくなった。自分の腕で生活していけるようにもなったので、両親 (ふたおや) を七軒町の家へ引き取り、彼は浅草茅町に一家を持ったが、二十歳の時である。

 しかし、彼はそれで満足する筈もなかったのだから、自らの芸に新生面を開こうと苦心していた。

『他人の話を取り次いで噺していたのでは、一生うだつのあがろうはずはない。全然ちがったことを考え、新機軸を出すことにしなければ駄目だ』と、ここに初めて彼は鳴物噺というものを創造したのである。

 

 鳴物噺というのは、芝居の世話狂言にならい、高座の背景に書割の道具を飾り、噺の筋に応じて、台拍子・宮神楽・雙盤・山おろし・波の音なぞの鳴物をいれて噺をするのである。

 が、俳優 (やくしゃ) の声色 (こわいろ) はつかないにしても、いわゆる芝居噺と言われたくらい、賑やかでもあるし、趣きがちがっている、まるで芝居を観るようであったから、客は大喜びだった。

『圓朝の芝居噺はいいぞ』

との評判が立ったので、大入りをしめるようになった。そうなると、圓朝も得意だ。張り合いもついて来たから、件の芝居噺ばかりやっているうち、その年もあけ、二十一歳になると、だんだん人気もついて来た。

 そこで、彼もいい寄席で真打が出来る折此処だと思ったから、師匠の圓生には中入前に出て貰い、先輩の三升屋や勝造にも助けて貰うことにして、自分がはじめていい寄席で真を打つことになった。つまり、年来の望みを達することになったのである。が、出てみると、その期待は裏切られてしまった。

 圓朝は師匠に自分の噺と重複しないように頼んだにも関らず、その晩するつもりの話を師匠にされてしまったので、すっかり困ってしまった。折角用意してある道具が、初日から役に立てられなくなったのみならず、さすがに、師匠は名人だったから、上手に話したので、もう自分はどうすることも出来なかった。と言って、道具を替えることも、高座に出ないことも出来なかったから、出来合いの話でごまかしたが、そうなると客が納まらない。

『圓朝はもっと上手な筈だった』

『こいつは圓朝の偽物かもしれぬ』

『前に出たのが圓朝で、こいつはその弟子だろう』

と、言っているので、圓朝も苦しくってしようがない。やっとその夜は話を切りあけてすました。

が、その翌晩もまた圓生に自分の話そうとする噺を横取りされてしまわれたので、さすがの圓朝も閉口した。いまさら師匠を恨んだところでどうにもならぬ。苦心して案出した鳴物噺も水の泡で、これではしようがないから、席をやめようとまで考えたが、難事にあっても屈しない彼は、三日目の晩から、師匠に横取りされない話をやりだした。

つまり、師匠の知らない、すべて、彼自身が創作したところの、新作をやりだしたのだから、もう師匠に横取りされる憂いは断じてなくなった。しの処女作は、「累草子 (かさねぞうし) 」というのであったが、鳴物の道具もまだ不完全だったし、話術もまだ未熟だったから、甚だ不入りに終わってしまった。

 

 けれど、自信のあった圓朝は『おみよ新助』という噺を創作して、深川仲町の寄席に出ると、ちょうど五月の節句の晩からでもあったが、人気に投じて忽ち大評判となり、毎夜の客が二百人以上だった。これが即ち、圓朝の大入りをとった最初のレコードであった。そのうち、父の圓太郎が仲入前へ助けてくれるようになったので、彼も大分演りよくなったが、ために師匠との間が面白くなくなったのはむろんだった。

 

 以来、彼は断じて他人の作を演じないことにしたので、寄席から帰ると著作をなし、昼は噺に使う道具つくり、背景を書き『牡丹灯篭』をはじめ、次から次と傑作を演じたので、毎夜大入りをとった。鳴物入りの芝居噺はいよいよ評判になるばかりであった。

 しかるに、師匠の圓生は、その頃から風邪で寝たのがもとで、次第に大病となって来ると、弟子たちも見舞いに行かないのをきいて、圓朝は眺めてはいなかった。自分が売り出そうとして出はなを妨げた師匠であるが、そうした恨みを忘れた彼は、席から受取った給金だの、客からの祝儀なぞを持って見舞いに行き、病床にある圓生を慰めること度々であった。

 

 文久元年、二十三歳の頃は、だんだん売り出して来たので、圓朝は浅草中代地へ転居し、両親 (ふたおや) とも一緒になり、孝養をつくしていた。が、その頃は弟子も四五人になっていた。ねば

 しかるに、一度全快した師圓生の病気が、翌年の正月に再発して、ついに亡くなった。と、枕頭 (ちんとう) にかけつけた圓朝の手をとった圓生は、いままでの好情を謝し、本葬のことを頼み、彼に三遊派の取締りになって他派を凌ぐようにとくれぐれも言って、その夜のうちに息をひきとってしまった。が、その年の十一月に兄が死んだりした。けれど、そうした不幸のうちにも、圓朝の人気はいよいよ高く、翌元治元年には両国の垢離場 (こりば) で昼席の真打となった。

 その頃、昼席といえば、赤離場のほか、両国手前の林屋と長左衛門の三軒しかなかったもので、この昼席で真打を打つことは、落語家 (はなしか) として一流の地位を占めねばならぬ。従って、彼の収入 (みいり) も多くなったので、裏門代地に、もと札差の隠居所だった立派な、畳数も六十畳ある家を----借金してだが----買って、庭のある家に住みたいという母の希望を叶えさしたというのも、その頃のことであった。

 そのうち、世間は漸く騒がしくなり、慶応三年五月には、上野の戦争があった、即ち彰義隊が官軍と戦った。それであるために、東京市内は、騒乱の巷となった。圓朝はその時、家にいて出入りの人々様子をきいていたが、じっとしていられなかった。

『実地を観て、噺の材料をとっておかねばならん』と、すぐさま外出した。

 

 当時、落語家が日常家に居る姿は、半纏に三尺帯をしめ、髪は半髻 (はんもとどり) で下卑た風俗だったけれど、圓朝だけは寺侍の代わりを勤めていたことがあるので、その頃でも寺侍に見えたから、番兵に怪しまれては危ないと言って家人に注意されたが、圓朝は平気だった。そのまま家を飛出して浅草見附から柳橋の方へ廻って行くと、なるほど大変な騒ぎだ。

 

 官軍は厳重に隊を組み、あるいは小具足をつけ、あるいは陣羽織を着、または赤熊 (しゃぐま) の陣笠を被ったりして、槍刀を閃かして行くし、大砲や小銃を通行人に向かって打放 (おっぱな) さんばをかりの勢いである。のみならず、見附の橋詰には、青竹を四つに組んだ上に、血 (ちしお) のしたたる生首を貫き、

『この者は幕臣某の首なり』など認めて晒してある光景を観ては、さすがの圓朝も仰天してしまった。

 けれど、圓朝は逃げ帰るようなことはしなかった。ここぞ材料をとるには好機会だと思ったから、生命のことも忘れて、危険を犯しながら、そこら此処らと、材料をあさって歩いた。が、幸いに彼も無事なることを得たし、戦争もその日のうちに済んでしまった。が、ために圓朝は芸嚢 (げいのう) を肥したことは非常にあったそうだ。

 

 やがて、秋頃には、世間も鎮静したので、寄席も開業した。と、同時に圓朝も出席したが、何処へ出ても以前に勝る大入りつづきで、人気があり、好評を博していたが、世は明治と改まり、翌明治二年には日本橋茅場町の宮松亭の昼席に出て、相変わらず好評を以て迎えられていた。

 しかるに、その頃彼は、悟るところがあって、音曲噺は弟子の圓樂に譲り、諸道具一切を與え、自分は素噺専門となってしまった。そうして、真打も彼に譲り、自分は中入前を勤めながら、四年間というものは、宮松亭で大入をとり、その名声はいよいよ高くなったのであるが、晩年は専ら後進を教育することに努め、明治三十三年八月十一日に永眠した、時に享年六十六歳、鐵舟翁 (てつしょうおう) の選による法名は『三遊亭圓朝無舌居士』葬った寺は谷中全生庵である。辞世として、『耳しひて聞さためけり露の音』との句が、石碑の側面に刻まれてある。

 

 圓朝の弟子は随分多かった。幾百人という数であるから、彼の人情噺を演ったもののうちで、圓喬・圓正・圓橘・小圓朝・圓右 ( 二代目圓朝 ) なぞは、師匠の噺をよく真似、癖までもとっていたが何うも聴く者に感動を與えない、魅力が足りないから、鵜の真似をする烏であった。従って、近頃では圓朝の噺をする落語家がなくなってしまったのは惜しい。ことごとく師に及ばざるものであったのは惜しいことである。

 

 いったい、圓朝の話は、想像や架空のものではなかった。一つの創作をするには、必ず実地を踏査して、強い記憶力によって、一切を実写して話すのだから、根底があり、活きている。例えば、何村から何処までは何里何町あって、その路傍には道祖神があり、杉の大木がある。そうして、何里行けば井戸があり、道が二股に分かれている。という様に、事細かに演じるから、その地方の人が聴くと、びっくりすることが多い。従って、他の聴客に迫る力が強く、働きかける魅力があるわけである。

『師匠、こうした噺を拵えましたから、どうぞお聴き下さい』と言って、一人の弟子が一席話した。それは、酔っ払いが本所から九段まで、千鳥足をしながら、滑稽な真似をして歩いて行く話であった。

 と、その話を終わりまで聴いていた圓朝は、微笑 (にっこり) しながら、

『なかなか面白く出来た。が、惜しいことには時間が合わないね。本所から九段まででは、酔っ払いがひろひろしながら、唄なぞ歌って歩いたんです、半日もかかろう。それをお前のように話したら、二三間しか離れていない様だ。まず、試しに、お前が酔っぱらって、歌ったり、ふざけたりしながら、本所から九段まで歩いてみなさい。そうすれば、客も感心するわけだが』と、こう弟子に教えたことがある。

圓朝自身の噺はすべて、この心がけでやったものであるから、真に写実的だった。

 

 そうして、彼の話ぶりは、高座にのぼったはじめは、まことに低声ではじめ、聴客が耳を傾けるようになると、はじめて大声で話し出すのが、その秘訣だった。が、一作を演ずるには、一回が三十分で、十五回で終わるように仕組んであり、それより長いのや短いのはなかったということである。

 が、彼は、井上馨候のお気に入りで、来客があったり、茶会がある時は、いつも彼を招いたもので旅行するときは、きっと伴って行ったから、ために一か月も席を休んだことさえあった。それは、候として旅情を慰めるために、彼の噺を聴こうとかではなく、圓朝は泥酔したことがないというほどの酒豪であったが、彼を酒の空いてにしようとでもなかった。退屈したとき、世間話をして、飽くことを知らないという風だった。というのも、圓朝の話術が巧であったからに相違なかった。

 

 候が山口県へ、例の通り圓朝を随行させたときのこと、土地の豪商たちがご機嫌伺いに来て、自分たちはまだ圓朝の人情噺を聴いたことがないから、一席命じて頂きたいと願った。と、候はすぐさま、

『それはいいが、それには予め報酬を決めておかねばならん』と、家令を呼んで言った。

『いつぞや、東京の屋敷で越路大夫に語らせたときは何ほどの報酬であったか?』

『あの時は五圓でございました』

『では、彼も日本一の浄瑠璃語りなら、こちらも日本一の落語家 (はなしか) じゃから、一席百圓やらにゃならぬがいいかの?』と、候は土地の豪商たちに念を押した。その頃の一席百圓と言ったら大したものだから、彼等は顔を見合わせたには見合わせたが、では高いから止めるとも言えないので、それで圓朝の噺

一席聴かせて貰うことにする他はなかった。

 で、一夜圓朝は彼等に一席聴かしたが、一席では短すぎると言って、二席話させ、まんまと二百圓の金を豪商たちから吐きださせたこともあったそうである。