永井龍男さんの長編小説「風ふたたび」を読了。
この話の筋を説明するのは非常に難しいです。
人間関係が複雑に絡み合っているのと、みんなが知り合いだったりすることも説明していかないとならないものですから。
さて、うまく説明出来るかどうか。とりあえず、ざっくり書いてみます。
【あらすじ】
鎌倉に住んでいた久松香菜江は夫と離婚し、渋谷の叔父夫婦の家に身を寄せていた。
香菜江には仙台で大学教授をしている父がいるが、父の再婚相手である義母との折合が悪く、疎遠になっていた。
叔父夫婦は映画館で売店を営んでおり、香菜江もそこを手伝ったりして暮らしている。
しかしそろそろ仕事につかねばならないと思っているところであった。
そんな香菜江の元に宮下という男から父の所在を訪ねる手紙が舞い込んでいた。
宮下は香菜江の父の生徒で、知り合いの川並陽子が香菜江の旧友であることを知り、
陽子を介して教授の居所を聞いてきたのだった。
実業家の道原は、気の合う実業家仲間と追放解除の内祝いで仙台旅行をしていたが、
帰途の列車で十万円を紛失する。
嫌疑は道原と入れ違いに洗面所に入った久松教授に向けられていた。
久松教授とは香菜江の父親。教授は論文発表の為、上京する為に乗り合わせていたのだった。
もう一人、偶然同じ列車に乗り合わせていた者がいた、川並陽子だ。
川並陽子は丸ビルの書籍店の販売主任をしていて、客の道原と懇意であった。
「騒ぎを大きくするな」という道原だったが、秘書は紛失事件を公にしてしまう。
一方、東京に降り立った久松教授は階段から転落し病院に運ばれる。
宮下の手紙以外、身元がわかるものを持っていなかった教授は、宮下が身元引受人となり、アパートに引き取られることになった。
「お父さんをお預かりしている」と連絡を受けた香菜江は、宮下のアパートにかけつけたが、
容体が安定するまでそのまま宮下の家で父を看病することになる。
はじめはそっけない態度を取る宮下に、あまり良い印象を受けなかった香菜江だが、
青果市場の仕事と犬の調教師の兼業で生き生きと仕事をしている姿に次第に好感を持つようになる。
宮下のアパートにいる香菜江のところに陽子が訪ねてきた。
陽子から道原が紛失した十万円の嫌疑の話を聞き驚く香菜江。
父に問いただそうにも病身の身ゆえ、なかなか聞く勇気がない。
香菜江は宮下に相談する。( 偶然が重なるが ) 宮下と道原は犬を介して面識があったのだ。
香菜江は道原の会社を訪ねることにした。
約束もなく面会を求められた道原は「久松という女性」に覚えはないが、
たまたまロビーで香菜江を見たという友人から「亡くなった君の奥さんにそっくり」と聞き、興味をそそられる。
父親の無実を真剣に訴える香菜江に、「お金のことは気にしていない」という道原は、
香菜江の就職の世話をしようと言い出す。
就職のことで道原とも近づきになった香菜江は、花火大会の酒宴や歌舞伎に誘われるようになる。
香菜江に思いを寄せる宮下と道原、そして陽子は密かに道原に思いを寄せている模様。
複雑な四角関係の中、道原は紛失した十万円のことで陽子から意外な事実を知ることになる。
てな話。
香菜江、宮下、陽子、道原がいずれも面識があるということが偶然すぎる感もあるが、大衆小説は得てしてこんなものかも知れません。
入手したこの本は、朝日新聞から出版されたものです。
この作品は新聞の連載として書かれたもので、執筆依頼は突然のことだったそうです。
朝日新聞に「めし」を連載中の林芙美子さんが昭和26年6月28日に急死。
連載の穴を埋めなければいけない朝日新聞は、白羽の矢を永井龍男さんに立てました。
当時の様子を、伊藤玄二郎さんがコラムでこう語っています。
「風ふたたび」に通底するのは永井特有の信条と人情の機微である。
作品には華々しい人物は登場しない。器用、不器用の差はあっても、その多くは市井で
真摯 に生きる人々である。それは永井の生き方である。
執筆の依頼は突然だった。朝日新聞に「めし」を連載中だった林芙美子が昭和26年6月28日急死する。林の後をうめなくてはならない。朝日は切羽つまっていた。
「駄目だ駄目だ」。
永井は断り続けた。口説き落としたのは朝日の文芸畑の重鎮、旧知の
扇谷 正造の殺し文句である。「アナタは元編集者でしょう。ならば新聞に小説が載らないのはどういうことか分かるでしょう」
7月4日、「風ふたたび」と題をつけた予告記事が出たが、何を書くか決まらない。
もう1日だぞと言われた時に、富山の薬売りの姿が頭に浮かんだ。永井は前々から面白いと思い、短編で書こうと思っていた。
ともかくも薬売りを狂言回しとして最初に据えた。
「黒いかさをさし、四角な風呂敷包みを背負った、かいきんシャツの男が、ガードからのだらだら坂を、ゆっくり上って行く。」
7月7日、林の急逝からわずか10日後に「風ふたたび」はスタートした。戦後、パージにかかって文芸春秋を辞めた永井は他にやることがないから自らを称して「売文業者」になった。40歳を過ぎての転身である。注文があれば生活のためにどんな雑文でも書いた。わずかばかりの才能を過信して女房、子供を泣かす作家は認めない、と永井はよく口にした。
↓ ↓ ↓ 上記はこちらから引用しました。
加藤さんのお話は、当時の経緯を知る貴重なものでした。
ただ「富山の薬売り」については、序盤は面白いけれど、後半には数行登場するだけで、
「狂言回し」として機能していたかというと、そうでもなかったように感じました。
富山の薬売りの役回りは、こんな感じ。⤵
- 鎌倉から引っ越して来た代々木の伯父夫婦の家に、代々木地区の薬売りが訪ねてくる。
- 代々木地区の薬売りは、鎌倉地区から引き継いで、鎌倉で使った薬代の回収と薬の補充に来た。
- 薬の補充をする際薬箱の中に一通の手紙が紛れ込んでいとるのを見つけ、香菜江に渡す。
- その手紙が宮下からのものだった。
私は序盤の 「河原もよぎ」の章が好きです。
鎌倉や代々木など縁のある地名が登場し、さてこれからどうなるのかと胸が高鳴る出だしでした。
面白い小説にあたったと読み進めたものの、回を追うごとにちょっとガッカリするところもありました。
人物の気持ちが曖昧というか描き切れてないというか、2人の男性の香菜江に対する好意の持ち方が伝わってこないので、それは香菜江にしてもそうでしたが、今相手をどう思っているのががわかりにくいところがありました。
ラストも何となく終わった感があり、多分陽子の一件をキッカケに道原は香菜江から手を引いたのか否か。。。。その辺もそうだとは言いにくい、ちょっとわかりにくい終わり方でした。
充分に小説を練る時間
急遽の代役ですから、小説を一本書く為の「準備期間」は足りなかったのは事実でしょう。
もしも、充分に物語を構築する時間があったなら、
富山の薬売りの狂言回しも、もっと膨らんでいたのではないかと思います。
登場人物の肉付きや設定が甘い気がするのが少し残念。
永井さんらしい素晴らしい表現
それでもハッとするほど美しい文章は数々ありました。多分、もう一度読み直せば、
初見では気づかなかったものがいくつもあるのだと思います。
以下は、香菜江の破綻した結婚の経緯が書かれた部分です。
( 香菜江の結婚話については ) 後妻への義理か、父からの同意の返事はなく、渋谷の叔父夫婦が親代わりで、万事をすすめたが、これが先ず、同居のしゅうとめの、気を曲げさせる原因にもなった。
ありふれていて、決して片付くことのない、妻としゅうとめの問題は、荒れた手先にまつわる、真綿のはしのようなものである。だれから取ってもらわなければ、始末はつかない。二人の間に入って、足並みを乱した彼が、鎌倉への別居の決意をした時は、もう遅かった。
「荒れた手先にまつわる、真綿のはしのようなもの」素晴らしい表現ではないでしょうか。
林芙美子さんと永井龍男さん
さて、話は小説から離れますが、
私は林さんの「めし」 が未完であったことを、今回初めて知りました。
「めし」は、原節子で映画化されていたからですけれど、これは未完の原作を監督がラストを作って映画化したものなんだそうです。
「めし」について ⤵ Wikipediaより
原作は1951年に『朝日新聞』に連載された林芙美子の長編小説であるが、連載中に林が急逝したことにより、未完の絶筆となった。そのため、映画化にあたり成瀬や脚本の田中澄江・井手俊郎によって独自の結末が付与されたが、会社から結末が離婚では困ると要望され、妻が夫のもとに戻るような終り方にした。
そして林さんと永井さんには不思議な因縁が見えてきました。
「めし」は、原節子の東宝専属第一回目の作品で、第二回目作品が「風ふたたび」なんですって。
朝日新聞の連載も林さんから永井さんに引き継がれ、東宝映画の原節子作品も林さんから永井さんとなったのですから、何かの巡りあわせなのかと思うのです。
「風ふたたび」の当時のチラシ
原節子 専属第二回主演東宝文藝大作
日本映画の良識を以って製作する東宝が1952年度
劈頭 に贈る話題の第一弾である。「霧笛」「旅愁」と共に世界的水準に達する文藝3大名作の第一作としてこの
映画に対する期待と
輿望 は大きい。朝日新聞に連載されて好評を博した永井龍男の原作より清純な香気を堪えた往年の名作「小島の春」や「泣虫小僧」「冬の宿」等幾多の文藝作を物した巨匠豊田四郎監督の久々の名作である。
脚本は「今ひとたびの」「酔いどれ天使」で知られる、日本第一級のシナリオ作家植草圭之助、製作は異色時代劇「決斗鍵屋の辻」の本木荘二郎が当たっている。
主演には「めし」で名演技を示した日本最大の女優原節子がヒロイン香
菜江に扮し、相手役には久方振りに適役を得て好演を期待される好漢池部良が宮下青年に、又、本年度のベスト演劇男優候補の話題に上る重厚山村聰が道原の重要な役を受持ち、陽子に扮する濱田百合子と共に正に好適役揃いと言うべきであろう、場面的にも話題の民間放送のシーンが取り入れられ、放送部員の一人としても明るい親しみ易い原節子の新しい魅力が見られるのも一つの収穫と言える。
清楚な美しさと程良い知性を身につけた香菜江と言う女性を中心に描く愛の心理葛藤、温か味のある鷹揚な愛情、めまぐるしい世相の中に築く建設的なきびしい愛と青春の香りが全篇ににじみ出て、新しい女性の心と生き方を示す珠玉の文藝篇として登場する日本映画白眉の秀作と言える。
尚、特別出演する菅原道済氏は人も知る実業界の大立物であると共に、宗元時代の古美術蒐集家として知られ、長唄も名取りで、氏の出演は日本映画美術考証上のプラスであり話題でもある。
映画も見てみたいです
でもビデオにもなっていないの。どこかの小さな小屋で「原節子特集」みたいな企画でやるようなことがあって初めて見られる渋い映画なのかも知れません。
たまたま入手できたこのチラシですが、A4の横幅ほどの小さなものでして、
それにビッチリと小さな字で「物語」の解説が書いてあるんです。
読んでみて、驚きました。
もう少しコンパクトに文章まとめられないものかと ( ´艸`)
とにかく台本の前のシノプシス、いやそれよりもプロット、企画書のような感じ。
昔の人は、文字離れの進んだ今の若者と違い、この程度のものは苦痛なく読んでいたんでしょうか。
それにしても、こんな細かい字で、こんな膨大な文章でなくても良いような気がするけれど。。。
以下は上を文字起こししたものです。⤵
スタッフ
製作…本木莊二郎
原作…永井龍男
脚本…植草圭之助
監督…豊田四郎
撮影…會田吉男
美術…河東安英
照明…大沼正喜
音楽…清瀬保二
キャスト
久松香菜江…原 節子
宮下 孝… 池部良
道原敬良… 山村聰
川並陽子…濱田百合子
久松精二郎…三津田健
お律… 杉村春子
叔父… 龍岡 晋
叔母… 南 美江
安岡… 御橋 公
菅原… 菅原道済
画家… 十朱久雄
秘書… 村上冬樹
母屋の奥さん…三條利喜江
物語
清楚な女性の香りの中に、ほんのりと近代的な知性を覗かせた香菜江の優美な面差しからは結婚に破れた女性の悲しい陰は何処にも見出せない。
現在の彼女は叔母が出している映画館の店番が自分らしい生き方とも思っている。叔母の留守に別れた夫横田のことで、私服の刑事の来訪を受けた時も、何か遠い他人のことの様に思えた。仙台大学の教授を父に持つ香菜江は、生さぬ仲の義理の母との折合が悪く最近は実家とも疎遠勝ちである。
その頃彼女の父久松教授は学界に論文発表の為上京途中にあった。その列車内で突如実業家道原の十万円が紛失する事件が持ち上がった。嫌疑は道原と入違いに洗面所を出た教授にかけられた。しかし道原はこんな些細なことで良識のある人間を陥れたくなかった。これを目撃する道原の秘書、友人の安岡、今一人、東京の丸ビル内にある書籍店の販売主任で道原と顔見知りの川並陽子等の好奇な目が教授に注がれていた。
ある日香菜江の売店に父の上京を知らせに来た宮下青年の案内で彼の下宿に厄介になる父の許を見舞った。憔悴した父の身の回りを世話するのも幾年ぶりであろうか、宮下が戦争中父の研究所の助手をしていたこともクラスメートの川並陽子が彼の下宿の近所に住んでいて、彼女の兄が宮下の戦友であったこともわかった。久々に見る快活な友若々しく親切な宮下、香菜江は生きる喜びをしみじみと身近に感じるのだった。築地の野菜市場に働く宮下は翌朝元気に陽子と肩を並べて出勤して行った。
市場に尋ねてきた陽子の口から、宮下は意外な言葉を聞いた、陽子の手にする新聞には、道原の十万円紛失の記事が載せられ香菜江の父が疑われていると聞かされた。宮下は陽子の無責任な言葉を非難してはみたが、香菜江へ一応電話でその旨を伝えた。
憔悴した父を前に恐れ慄く手で新聞を取り上げた香菜江は、勇を鼓して事実を確かめてみたが、彼女の信ずる通り潔白な父であった。ほっとした気持ちになってこの経緯を宮下に話した。香菜江はこの際道原に直接会って釈明してもらうのが最良の道とも考えた。
道原は香菜江の来訪を知らされたが心当たりがなかった。唯友人安岡の口から死んだ妻の面影に生き写しの美しい女性が訪ねてきているときかされて好奇心も手伝い、合ってみると言う気になった。香菜江を一目見た道原の顔には瞬間ある種の感情の色が流れた様に思えた。道原は愛情のこもった穏やかな調子で彼女の言い分に耳を傾けるのだった。香菜江は誘われるままに父の事や、就職の希望等を話した。
香菜江は間もなく道原の紹介で民間放送局のプランナーや演出関係の職を得た。
日増しに明るく美しくなる香菜江を宮下は愛し始めていた。香菜江の方も新鮮な野菜を相手に生きがいを感じる男らしい宮下の素朴さに心ひかれていた。
香菜江はここ両日中には北海道に出張する宮下が一層切なく想えてくるのだった。
しかし年内に宮下が帰京すれば、奥日光の楽しいスキー旅行の楽しみがある思えば寂しさもいくぶん救われる気持ちになれた。
道原の懇請で再び香菜江の父が上京して来た。何時か道原に話した父のフッ素の研究を樹脂工業に応用する為の話であった。教授は道原に宮下を技師長に推薦するのだった。香菜江は喜びを込めて宮下に電報を打った。間もなく宮下から返電が来て、仕事の都合で四五日遅れるとのことであった。
大晦日の日、香菜江は道原邸を訪ねた。彼女は古風な家造り、諸々の高雅な調度品と道原氏の風格を偲ばせる邸内の様子に心打たれた。女中の他女手のない邸内を道原に従って奥へと入っていった。蔵の内部を整理する道原は亡き妻を偲ぶかの様に豪華な裾模様を手に、傍に佇む香菜江に話かけた。「一寸これを体に着けてみてはくれまいか」と言った。ためらいながら豪奢な衣装を身につけた彼女の姿はこの世と思われぬ程の美しさに輝いて見えた。香菜江はこうして道原といると、何かしらその温かな包容力の中に溶け込んでいくような気持ちになるのだった。
年が明けて新春の五日、雪焼けした宮下が元気な姿をみせて帰ってきた。道原邸を訪ねた宮下は美しく着飾った香菜江の姿が何か自分から程遠い人の様に思えてきた。道原の鷹揚な態度、宮下は敗北感を感じながら今にも泣き出しそうな香菜江の声を背後に道原邸をかけ抜けるように逃れ出た。
道原はついに香菜江に自分の本意を打ち明けた。法事が過ぎたら求婚するつもりでいたと洩らす道原。宮下は失意の身を友人のいる月寒の農場で冷凍野菜の研究に一生を託する気持ちになった。香菜江は千々に心乱れた。寛大な道原の情愛に生きるべきか又、宮下との建設的な真実の愛か。
いよいよ法事の日、道原との約束もあり道原家の法事に参列することになった。道原の喜びの顔、陽子の羨望に満ちた顔。香菜江の胸には宮下のあの悲痛な顔が強く焼き付いて離れぬ。法事も無事に済んで道原の前途を祝う人々の酒宴、その仲はに酒気を帯びた陽子が意外にも十万円の犯人が自分であることを告白するのだった。
その時宮下の来意が告げられて、いよいよ道原、香菜江、宮下の対決の時が訪れた。色とりどりの複雑な感情の中から彼女は今こそ自分の選ぶべき道がはっきりと分かったような気がした。宮下との新天地での生活、それはたとえ苦しくとも生き甲斐のある自分に適した道であると心に誓った。
続きを読むでとじてあるのは、「風ふたたび」の冒頭部分の本文です。
単なる、備忘録として
つぎはぎだらけの、職業安定所の上にも、ひさしぶりの青空が見える。
夜中の豪雨が、重苦しい梅雨空を、どうやら切り放したらい。
代々木へ向けて、渋谷駅を出た山手線の電車が、この辺でスピードを増し、車体をかしげながら、ゆるい上りこうばいを走り去る。
線路下の土堤にそって、はちまきをした半裸の若者が、一球一球、むきに力をこめた、キャッチ・ボールをしている。もう、ひるに近い暇な時刻だ。
線路の、向こう側へ抜けるには、それから二三町先の、背をこごめるように低い、狭いガードをくぐる。
くぐり抜けると、白い小さな河原よもぎの花が、空き地一面に咲き、白いちょうが、そこここに、目まぐるしく舞っていた。味噌汁のように赤くにごった溝が、ごうごうと地響きをさせて流れていた。
黒いかさをさし、四角な風呂敷包みを背負った、かいきんシャツの男が、ガードからのだらだら坂を、ゆっくり上がって行く。
ぬれしょぼたれた、ボール箱のままの、ちまちました家々が、かっと射し始めた日をうけて、男の行く手にひろがる。日まわりも唐もろこしも、もうかなり背が高い。
額の汗をふき、手にした紙きれに眼をとめてから、男は、ようやく路らしい路に入った。湿気のある暑さの中で、男の体が薬臭かった。
------富山の薬売り。根気にまかせ、脚にまかせる古風な商売が、いつの間にか復活していた。
「ごめん下さい」
男は、もう一度紙きれと、表札をにらみ合わせてから、一軒の家に声をかけた。ガラスの格子戸を細目に開けると、台所まで見通せ、目新しい水色の蚊帳を、庭のさおにかける、むき出しの女の腕があった。
つり手の金具が鳴るほかは、シーンとしている。
「ごめん下さいまし」
「・・・はァい」
商売のカンで、最初の一声でその家の気風が解り、楽に行く、行かぬの判断がつくのだそうだ。
若い声だが、娘の声ではないらしかった。
「一寸、おたずね致しますが、こちらに、鎌倉にお住まいだった、久松さんがおいでになりますでしょうか?」
答えはなく、縁へ上がるけはいがしたが、やがて、上り口のすぐわきの間から、花模様の、ビニールのエプロンをした女が、静かに現れた。
形のよいふくらはぎに、庭のどろの、ベトリとついているのが、ひどくなまなましく、男の眼に入った。
前髪のカールから外したらしい、クリップの一つ二つが、手の中に光り、
「どういう御用でしょうか」
と、短いスカートのひざをついた。心持ちきつくしたひとみが、男を見詰めていた。
「どうもお邪魔を致します。わたくしは、富山の薬屋でございますが・・・」
「とやまの?」
「鎌倉の久松さんが、こちらへお引越しということで、薬の入れ替えに伺いましたが・・・」
「とやまの薬って、ああ、あの大きな袋に入れた・・・。まあ、よくここが分かったこと!」
来訪者への気構えを、一度にくずす色が見え、片方のひざを、スカートのすそで、かくすようにした。
「鎌倉へ上がったのは、別の者でございますが、同じ組合なので、連絡をたのまれました」
中略
「だけど、えらいものね。ここまで探し当てるなんて」