Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

鎌倉 巨福呂坂を訪ねる1 志一稲荷

 

2019年 鎌倉 初探訪。

小町通の鳥居にも「初春」と幕。

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1月も7日となれば、少しは歩き回ったりしないと。

体に毒です。

 

 

昨年暮に、ビブリアの映画関連で鎌倉の切通しについて、いくつかアップしました。

鎌倉には8つの切通しがあって、その内の7つ「鎌倉七口」の話はしましたが、

その中のひとつ、巨福呂坂だけはまだ行ったことがありませんでした。

 

切通しなのに「巨福呂坂」というのも変ですけど、実はもう存在していないのです。

鎌倉から北鎌倉に抜ける道は、巨福呂坂として1240年に北条泰時の命で作られました。

しかし明治に入って新道が作られ、旧道は埋めて消失してしまい、今はありません。

その七口のひとつ昔の巨福呂坂が今どうなっているのかを

自分の目で確かめたくて見てみたいというのが今回の目的です。

 

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小町通りを雪の下1丁目を経て、鶴岡八幡宮の西堺いに沿った道を進みます。

 

巨福呂坂 ( 旧道 ) は、鶴岡八幡宮の西の鳥居を過ぎた角を左に入る道ですが、

その手前に、ちょっと気になる階段があったので寄り道することにしました。

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階段の奥に鳥居が見えます。

 

急な階段。

なまった体で登り切れるか・・・。

地図を見るとここ

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階段の突き当りは、志一稲荷

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とても小さなお稲荷さんですが、綺麗に掃き清められている。

 【志一稲荷(しいちいなり)

鶴岡八幡宮の西の鳥居を出ると、鶯谷山の中腹に志一稲荷がある。

この辺りは、鶯ヶ谷と呼ばれる谷戸で、

三代将軍 源実朝が鶯の初音を聞いたという故事からそう呼ばれるようになった。

志一稲荷には狐が祀られているという伝説がある。

 

※ 底本は、新編鎌倉志 七

京都仁和寺の僧侶の志一上人は、訴訟のため筑紫から鎌倉に来たが、

証拠文を筑紫に忘れてしまった。

その文書を、可愛がっていた狐が一夜のうちに持って帰ってきた。

訴訟には勝ったが、長い道のりを走り続けた狐は死んでしまった。

その狐の霊を倉稲魂神(うかのみたま)として祀ったという。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04202/ru04_04202_0007/ru04_04202_0007.pdf

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04202/

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志一上人の石塔は鶴ヶ岡の西。町屋の後ろ。鶯谷という山の上にあり。

里人の伝。

志一は筑紫の人なり。訴ありて鎌倉に来れり。既に訴えも達しけるに、文の状を本国に忘れ置いて、如何せんと思われし時、平生志一に仕えし狐ありしが一夜のうちに本国に行き、明暁、かの文状をくわえて帰り。志一に奉り。そのまま息絶えて死けり。志一訴えかないしかば則てかの狐を稲荷の神に祭り祀りを立つ。坂の上の小祠、これなり。

志一は、管領 源の基氏の代に、上杉家。崇敬により、鎌倉へ下られけるとなし。「太平記」に。志一上人鎌倉より上りて、佐々木佐渡の判官入道 道譽の許へおわしたり。細川相模の守 清氏にたのまれ、将軍を呪詛しけるとあり。

 

参考文献:  鎌倉史跡・寺社データベース

 

階段は、志一稲荷をまわりこむ形で更に上に続いていました。

志一稲荷を右に何段か上ると、庚申塚がありました。 

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右側に青面金剛

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半分埋もれています。

 

左側の台座には、六人の名前が刻まれている。

        ( クリックするとおおきくなります )

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右から、岩瀬〇〇、富田庄左門、小池〇〇、広井宮内、〇〇安兵衛、〇屋平左〇

うーむ、読めぬ。

もどかしい。

 

あきらめて、上に登ります。

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この上に住まわれている方は、毎日この階段を上り下りしているワケですな。

ゴミ出しも、130段以上の石段を降りないとならない。

大変だろうな。

住民の皆さんだけでなく、郵便屋さん、宅配業者の方々のご苦労もいかばかりか。。。

 

 

途中まで登ったところで振り返ってみた。

正面が与一稲荷の背面 ⤵

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春秋窯? 陶芸をしているお宅でしょうか。

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その先を左に折れると、突き当りに急な階段がありました。

梯子まである。

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この先には、お家が一軒だけ。

登っていって「どなたですか? どんな御用で?」と言われても、答えようがないからやめます。

 

ちょっと戻って左に曲がってみます。

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突き当りを右の方に曲がり、登りきると終点でした。

 

そこから向こう側の山の上に、さっき登るのをやめたお家が見えました。

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ガラス張りのお家。

さぞ眺めはいいでしょうが、生活するには大変なご苦労も伴うのでしょう。

 

 

 

いやぁ、鎌倉はひと辻入るだけで突き当るような場所ばかりです。

この山は、そう地図地図。

どうせだからうーんと古い地図で見てみましょうか。

鶯谷山と書いてあります。その右には「志一稲荷」もある。

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1902年 ( 明治35年 ) 版元  松林堂 林初三郎

         絵師 田村茂太郎

鎌倉遊覧実測地圖 から 

http://ndb1.nichibun.ac.jp/tois/chizu/santoshi_2227.html

 

だめだわ、こんなに道草食らってちゃ。

巨福呂坂は、この辻の2本ほど先を入った道です。

 

今 入った辻には、20軒ほどの民家があり、鶯谷山に突き当り終了でした。

突き当りの民家の脇から山の尾根に抜けられそうな気もしましたが、

これ以上ウロチョロしていたら、完全に不審人物です。

 

この辺りは山や尾根があっても、それが国有地か、鎌倉市のものか、

はたまたどっかの寺社の土地かも知れず。

もしかしたら私有地かも知れません。

 

テレビの企画だったら「許可を得て入っています」と、もっと深く探訪できたりするのだろうが。

ああ、ぶらタモリのスタッフ、いいなぁ。

 

次回は、ほんとの「巨福呂坂を訪ねる」です。