Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

『大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ』

東京生まれの私は《同潤会》という妙にいかめしい名前をずっと聞いて育ちました。

でもって、小さい時から建物に興味のある子でして、

「いいなあ」「素敵だなあ」と思った建物のルーツは、同潤会アパートだったのです。

 

 

同潤会については知りたいことが山積しております。

歴史も古く、深すぎるのです。

だが有難いことに《同潤会》関連の書物は沢山ありました。

そこでまず手に取ったのは「大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ」でした。

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著者:川口明子さんは、1950年静岡県出身、静岡県富士高等学校、立教大学文学部卒。

静岡ご出身なので、東京で同潤会のアパートをご覧になったとしても晩年の姿でしょう。

 

本書にも、

「荷谷駅に降り立ったのが《2003年3月27日》」とあり、

「建物内部には入れないだろうが、せめて外観だけでも撮っておこうと考えた」が、

「目指す被写体は、解体工事用の目隠しの白い壁に囲まれて見えなかった」とありました。

※ 実は、大塚女子アパートの解体が始まったのは2003年2月12日。

  既に1階内部の解体が始まっていたので、川口さん、間に合わなかったようです。

 

そんなワケでこの本は、大塚女子アパートの建物自体をルポした本ではありません。

しかし私にとっては好都合。丁度良い本でスタートできました。

同潤会を知るには、外堀から・・・といった感じかな。

 

「オールドミスの館へようこそ」という副題

本書の副題は「オールドミスの館にようこそ」です。

掲載されている建物の写真は、全部提供されたもので鮮明なものではありません。

主役は建物ではなく、そこに住んでいた人たちなのです。

 

大塚女子アパートメントには、多くのキャリアウーマンが住んでいました。

筆者は、昔の新聞や資料をひもといてアパートに住んだ女性を紹介しています。

編集者 の素川絹子さん、熱田優子さん。

谷崎潤一郎の二番目の奥さんの吉川丁未子さん。

ロシアからやってきたバイオリニストの小野アンナさんなどに焦点を当てて。

上記の人たちは資料を基にの紹介でしたが、戦後に入居した戸川さんは筆者が直接取材されました。

 

戸川昌子さんと大塚女子アパート

本書で取り上げられた女性たちは、大塚女子アパートと深い縁でつながっていますが、 

その中でも特に戸川昌子さんとアパートの繋がりは図抜けています。

このアパートをモデルにした本『大いなる幻影』で、乱歩賞を受賞したのだから。

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次に読みたいものが決まってしまいました。

 

戸川さんと大塚女子アパートの深いむすびつき

本書を読んで「戸川さんがもしこのアパートに住まなければ、全く別の人生を送っていたのではないか」と思いました。

アパートでの体験が戸川さんを作家にした?
  • 戸川さんは、母親と二人住むところを探して一日歩きまわり、疲れ果てて大きな建物の玄関に座り込んだその場所が大塚女子アパートだった。

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  • そのとき戸川さんの目にとまったのが「空室あり」の張り紙だった。
  • 独身女性専用のため親子での入居はできないところをなんとか頼み込んで入居できた。
  • アパートの住民は、個性的な女性たち揃いだった。
  • 道路拡張に伴い、アパートを4m後ろに移動させる計画が持ち上がった。

戸川さんの処女作『大いなる幻影』は、アパートに住んでいる奇妙な女たちと曳家工事の時に閃いたインスピレーションから生まれた作品だったんです。

 

個性的な住民たちといえば・・・

戸川さんほど密接とはいえないまでも、他の入居者も多かれ少なかれアパートから影響を受けています。

特に吉川丁未子さんや、小野アンナさんのエピソードは面白く、もっと知りたくなりました。

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ひとつ本を読むと、関連する本が読みたくなって困ります。

※ 吉川丁未子さんは、谷崎潤一郎の二度目の奥さん。美人さん。

※ 小野アンナさんの元ご主人の小野俊一さんの姪はオノ・ヨーコさん。

 

曳家工事の話も興味深い

東京オリンピックを期に首都の大改造が始まり、アパート前の春日通りも道幅を広げることになり、

アパートを4メートル後ろに移動させる曳家工事が行われることになりました。

工事は人が住んだままで行われました。

工事関係者は「慎重に作業するからコップにいっぱい水を入れても一滴もこぼれない」

と豪語したそうです。

 

残念ながら、曳家工事当時の写真は見つかりませんでしたが、

航空写真を見ると、建物の位置がずれているのがわかります。

 

左が昭和20年~昭和25年頃、   右が昭和36年~39年頃⤵

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南側道路が春日通り、よく見ると左 ( オリンピック前 ) の建物は隣りの建物より

春日通寄りに飛び出しているのがわかる。 

 

住民の層の変遷も興味深いところ

大塚女子アパートメントは、造られた当初と晩年では住民層が全く違います。

当初のターゲットは高給取りの職業婦人でした。

他の同潤会と違い、ここだけ《女性専用のアパート》でしたが、

それも、高所得者の職業婦人でないと住めない家賃だったそうです。

ところが戦後になると一変。

高所得者しか住めないアパートに、低所得の女性が多く入居するようになりました。

理由は《戦争》です。

本書ではこの経緯を以下のように書いていますが、アパートの運営が移管されたことによって、

アパートが担ってきた役割も、住民層もガラリと変わってしまったのです。

エリートの住いから低所得者の住いに

 エリート・キャリアウーマンの城だった大塚女子アパートの性格を一変させたのは、戦争だった。

 

 それまで同潤会は中産階級向けのアパートを建ててきたのだが、戦争中は労働者の住宅がひどく不足したことから、方向転換する。

( 中略 ) 同潤会は厚生省社会局の監督下に置かれることになる。

 

 その三年後、さらに状況は変化する。

厚生省内に住宅供給組織として住宅営団が作られて、同潤会は解散することになった。同潤会アパートの事業は住宅営団に引き継がれる事になったのだ。

 

 ところが日本が戦争に負けたことで、その住宅営団の運命も変転する。敗戦後、日本に駐留したGHQによって、解散の憂き目に遭う。

こんな調子で、同潤会の建てたアパートの運営主体がころころと変わった挙句に、ついには消滅してしまうことになったのである。

 

 住宅営団は解散を命じられたさい、賃貸アパートを管理する責任があることを主張してなんとか組織を存続させようとしたが、GHQはアパートを住人に払い下げるよう指示した。そのため、大塚女子アパートや江戸川アパートなど同潤会が建てたアパートは住人に優先的に払い下げられることになる。だが、評価額は坪当たりなんと七千円! とても住民が捻出できる金額ではなかった。そこで、同潤会アパート住民、二万戸が「鉄筋アパート代表協議会」を結成し、値下げ交渉に入る。

 

 1946年、同潤会アパートはいったん東京都に引き継がれ、都営住宅になり、1951年に住人に払い下げられることになった。 ( 中略 ) 

 

 このとき、大塚女子アパートだけはほかの同潤会アパートとは違う運命をたどることになる。

アパート分譲の話が出たときに、買いたい人と買いたくない人に分かれた。今までは一定の条件を満たした女性専用のアパートだったが、分譲されればどういう人が入居してくるか分からない。男性が入ってくることもあり得る。共同浴場やトイレなどの共有スペースがどうなるかという不安もある。仕事をもつ女性が安心して住める住居を守りたいという意識が、東京都が提示した払い下げを拒否させた。

その結果、大塚女子アパートは都営住宅として存続することになったのである。

 

 ここまでは、よかった。住人の願いが受け入れられたのだから。

ところが、都営住宅となったことが、大塚女子アパートの性格を百八十度変えてしまうことになった。

都営住宅となったために、入居の条件が「低所得」になったのである。佐原マユミさんが入居した1943年ころは、「エリート女性の住むアパート」といわれたアパートが、低所得者しか入れない都営住宅に変貌してしまったのだ。

 

本紙 第5章『怪しい女やフェミニストがうごめく美しい廃墟』p.146より 

 

 

建設当初の大塚女子アパートは凄かった!!!

当時、自宅通勤以外の職業婦人は、親戚に間借りをしたり、まかない付きの素人下宿に間借りをするしかありませんでした。

そこに登場したのが大塚女子アパート。

エレベーターもありました。

トイレは共同で各部屋には台所はありませんが、地下には共同浴室と食堂がありました。

 

ここの住人は夜、仕事で疲れて帰ってきても、夕飯のしたくをする必要はないのです。

地階に設けられた食堂で食事ができるからです。

一度に80人が利用できる大きな食堂で、ここだけは外部の人も利用できるようになっていました。

( ※  居住スペースは部外者は入れません ) 

メニューは、すうどん、きつねうどん、カツ丼、お好み弁当などの和食のほかに、カレーライスやオムレツなどのモダンな洋食も入っていたところが女性専用のアパートらしい。

しかもセルフサービスではなく、給仕がちゃんとテーブルまで運んでくれたんだそうです。

午前6時からやっているので、朝もここで定食やトーストを食べて出勤。

当時は女性が一人で外食をするなんてなかったでしょうから「おひとり様」の先駆けです。

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地階の食堂の入り口は、アパートとは別になっていたそうです。

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奥がアパートの玄関。手前が食堂に降りる階段。


何故入口が別かというと、大塚女子アパートは男子禁制だったからです。

男子禁制というルールは、とても厳しくて当初はたとえ父親や兄弟であろうと居室には入れず、一階の応接室で話をするしかなかったほど。

応接室は外部の人との面会で使われる他、新聞を読んだりできる くつろぎの空間でした。

一階の廊下にはミシン室まであったんだそうです。

 

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地階には30人が入れる共同浴場とシャワールームが完備。

こちらは食堂とは逆で、住人しか利用できないよう建物内部からしか入れない造りでした。

アパートには、洗濯や買い物を頼めるおばさんがいたので、仕事が忙しい人はそのおばさんに頼んでいたらしい。

 

トイレは居室内にはなく、各階に一か所設けられていましたが、これも当時は首都東京といえどもほとんど普及していなかった水洗トイレだったそうです。

 

屋上には住人専用の日光室 ( サンルーム ) がありました。

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日光室の隣には、音楽室があり、ピアノと蓄音機、ラジオが備え付けられていたそうです。

大塚女子アパートにはバイオリニストやオペラ歌手なども住んでいたので、この施設は何よりもありがたかったことでしょう。

 

 

しかしそんなサービスも、戦後は様変わりしました。

管理や清掃の担い手

大塚女子アパートには多様なサービスが行き届いていましたが、これらの管理とサービスを担っていたのが《同潤会》でした。

従業員には凄腕の女性管理人と掃除人兼ボイラーマンと二名の給仕がいました。

掃除人兼ボイラーマンは、同潤会から派遣され、アパート地下に住む込み、共同風呂の湯焚き、洗濯場・洗面所の湯沸かし、各種共用空間の掃除をしていました。

その他開設当初は同潤会から給仕や洗濯人が派遣され「女中などて住める同潤会」と言われていたそうです。

しかし戦後、同潤会の解散を期に掃除人兼ボイラーマンが解雇されると、共同浴室は閉鎖。

共用部分の清掃も居住者みずからしなければならなくなりました。

 

規則の変遷

大塚女子アパートには、「男子禁制」「門限は11時」という厳しい規則がありました。

面会者は受付で名簿に記入し、腕章をつけて入館。

男子との面会は、たとえ父親でも応接室までという徹底ぶりでした。

住民が病気になって医者が往診したり、アパートの工事や修理のために男性が居室に入らなければならない場合も、居室のドアを開けたままで管理人が立ち会うというやり方で、厳正に規則を遵守したのだそうです。

 

「経済的に自立したキャリアウーマンの為のアパートのはずなのに、まるで女子大の寮のようだ」と著者は言っています。

 

アパートができたばかりの6月18日に、同潤会の理事と細木住宅課長による次の訓話があるそうです。

自分達は貴女方に対する大家であり、差配であり又は宿屋の亭主であるに他ならない。而して同潤会なるものは社会事業ではあるが慈善事業ではない。貴女方は私達に言わせればお客様だ。で家賃さえきちんきちんと払って貰えればそれで文句はない。ここは沢山の部屋があるがそれは皆一個の家であるから、同潤会としてはお貸しした以上それに対して干渉はしない、皆さんが気持ちよく住んで下さればそれを最も喜ぶものである。

ところがその後、話はこう続いたそうです。

皆さんをお預かりしました以上は、皆さんに間違いがあってはならない。問題を起こさせてはならない。同潤会の事業の名に汚点がついてはならないと言う事で、男子の方には絶対に二階以上の部屋には訪問をおさせしない方がよくないかという事になった。

皆さんだって何もベッドのある部屋に男子の方をおよびにならなくても、おはなしなさるのなら下に応接室もあるから、不自由はなさるまい。別に皆さんを信用しないのじゃない。してるのですが、あやまちが起こった場合にあわてるよりも初めから用意して用心しておく方がより安全だと思うので、親も兄弟も男性という男性はすべてお断りすることにした。この私達の老婆心というか、皆さんの為を思う気持ちをよく皆さんにお分かりになる事と思うが

 

うーん。

著者も書いていますが、課長さんの発言は矛盾しているというか、つじつま合わない気がします。

アパートの居室は「一個の家」と言っているのに、アパートの住民を「お預かり」したという認識のずれには驚いてしまいます。

男性との付き合いも「あやまち」というのもどうかと思いますが、1930年 ( 昭和5年 ) の話。

訓話を残した細木住宅課長だって、間違いなく明治生まれでしょうから、

《女は守るもの》という観念は至極当然の発想だったのではないでしょうか。

 

しかしこうした厳しい規則も、戸川昌子さんが住まわれていた1950年代には次第にゆるやかになっていったものと思われます。←もう読んじゃいました「大いなる幻影」オホホ。

 

 

今回「大塚アパートメント物語」を読んで、とても複雑な思いが残りました。

著者がタイトル副題に「オールドミスの館にようこそ」とされたのも言い得て妙。

住民が《女性だけ》だったということが、他の同潤会アパートと違う運命をたどった所以であることは、やはり間違いのないのかも知れません。 

 

 

 

追記:

今回のこれをまとめるにあたって、ドメス出版の『同潤会 大塚女子アパートメントハウスが語る』も参考にさせてもらいました。戸川さんの『大いなる幻影』も面白かったです。

もしもご興味があれば、この2作、おススメです。

大いなる幻影 (1978年) (講談社文庫)

大いなる幻影 (1978年) (講談社文庫)

 

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追記

id:cenecioさん。

ブックマークコメントありがとうございました。

奥野ビルは行ったことはありませんが、テレビで見て気になっていました。

奥野ビルが高級アパートメントだった当初からそこで美容室を経営し、晩年はそこで暮らされたという100歳のスダさん のお部屋が、彼女が亡くなられた後にも有志の手で守られているという内容でした。

その奥野ビル ( 銀座アパートメント ) が、まだ取り壊さずにあるなんて驚きです。

 

今回、セネシオさんからのお話をもとに調べたところ、奥野ビルは同潤会アパートと同じ建築家-川元良一さんが設計されたものとわかりました。

同潤会アパートといっても16ありますから、川元さんが全て設計にあたられたものかはわかりません。

でも意匠を見る限り、共通点を感じました。

 

同潤会が戦争や国の方針に翻弄され消えてしまったことも、その建物が全て解体されたことも残念です。

一方、個人所有の奥野ビルが残っているのはなんとも皮肉な話。

本来なら貴重な文化的建造物は、公の機関こそ残す努力をしなければいけないのでしょうに、、と。

個人の体力で代々ビルを存続させていくのは並大抵のことではありません。

固定資産は三代でなくなるように税金が課せられると聞きましたから。

奥野さんのように貴重なビルを残す苦労をされている方には、国としての援助をして欲しいと思します。

そして、奥野ビル、訪ねてみたいと思います。