またまた、新宿バルト9にやってきました。 ( 3/12のお話です )
新宿御苑にほど近い、この映画館は9つのシアターを持つ複合施設です。
エスカレーターから見えるこの景色が好きなんです。
この眺めには、これから観る映画に対するワクワク感を更にあげてくれる力がある。
屋上にプールが見えますが、東京都立新宿高校です。
新宿の繁華街、一等地に通う高校生の気分ってどんなだろう。
その奥に見えるのはNTTドコモ代々木ビル。
通称ドコモタワーは、エンパイア・ステートビルに似てると思いませんか?
お空つながり。
今回観る映画は、、、
どどん。グリーンブックです。
貧乏で粗野なイタリア系アメリカ人のトニー・バレロンガと、
リッチでインテリのアフリカ系アメリカ人、ドナルド・シャーリーのお話。
【あらすじ】
1962年、ニューヨークが誇るナイトクラブ、コパカバーナは今宵も大盛況。
用心棒を務めるトニー・“リップ”・バレロンガも大忙し。
だが、改装のため2か月の閉店が決まり、生活のためトニーは稼ぎ場所を見つけなければいけない。
「ドクターが運転手を探している」と紹介されたトニーが、指定された場所に行くと、そこはカーネギー・ホールだった。
相手は医者ではなく、劇場の上の高級マンションに暮らす黒人ピアニスト、ドクター・ドナルド・シャーリーだった。
彼が求めているのは、クリスマスまでの2か月間、南部を回るコンサートツァーの運転手だ。
「黒人との仕事に抵抗が?」と聞かれたトニーは「ないね」と即答するが、それは嘘だった。
イタリア系のトニーは、黒人に偏見を持つ親族の間で育った。
雇い主の “ 身の回りの世話 ” もあると説明されたトニーは、「俺は召使じゃない」と拒絶し、交渉は決裂する。
だが、差別が色濃く残り、黒人にとって危険な南部へ行くのに、トニーのどんなトラブルも解決する腕がどうしても欲しかったドクター・シャーリーは、トニーの希望条件を全面的にのんで彼を雇う。
出発の日、レコード会社から「グリーンブック」を渡されるトニー。
南部を旅する黒人が泊まれる宿が書かれたガイドブックだ。
運転しながら、妻のドロレスが作ってくれたサンドイッチを、ガツガツと頬張るトニー。
後ろを振り向いて話しかけると、「手を10時と2時の位置に」と冷たく注意される。
さらに「タバコは消せ」と命じられてムッとする。
それでもペラペラと話し続けると、今度は「少し静かにしてくれ」と言われてしまう。
最初のコンサートの前に、ドクター・シャーリーから土地の上流階級の名士に紹介されるので言葉づかいを直せと諭されたトニーは「クソ食らえ!」と返事をし、さらに本名の「バレロンガ」が発音しにくいから短くしようと提案されて、断固拒否するのだった。
静かに怒るドクター・シャーリーから「君は表で待て」と言い渡されて、窓から会場をのぞくトニー。
「心理学・音楽・典礼芸術の博士号を取得。ホワイトハウスでの演奏は14か月で2回」と仰々しく紹介されたドクター・シャーリーと、チェロのオレグ、ベースのジョージのトリオの演奏が始まると、トニーは目を見張る。
その夜、トニーはドロレスへの手紙に「あいつは天才だ」と興奮して記し、でも「楽しそうじゃない」と書き加えるのだった。
あんなに反発し合っていた2人のツアーは、いつしか笑いの絶えない旅へと変わり、
様々なトラブルを乗り越え、ついに最後の町、アラバマ州のバーミングハムへ到着する。
だがそのコンサート会場は、悪名高い歴史を持つレストランだった。
果たして2人はツアーを無事に終わらせ、トニーの家族が待つニューヨークにクリスマス・イヴまでに帰れるのか----?
筋書きは、パンフレットから転載させてもらいました。
グリーンブックとは
映画のタイトルである「グリーンブック」は、1936年から1966年に発行された黒人ドライバーのためにガイドブックです。
ヴィクター・H・グリーンによって書かれたので、彼の名前にちなんでグリーンというらしい。
表紙に「THE NEGRO MOTORIST GREEN-BOOK」とあります。
今では黒人に対する蔑称であるNEGROと、しっかり書かれている。
グリーンブックが必要になったキッカケのひとつに、黒人が公共輸送機関から隔離されたことがあります。
そのため、自動車が購入するゆとりのある黒人が、行った先で不愉快・差別・隔離・屈辱から自由になることを目的として作られたのがグリーンブックでした。
当時のアメリカ、特に南部では、合法的に黒人差別が行われていました。
トイレも宿もレストランも、白人と黒人はハッキリ分けられていました。
白人専用という看板がないので、入った黒人が店で袋叩きにされたというのも日常茶飯事のこと。
グリーンブックは、そんな黒人のために作られて冊子でした。
黒人が利用できる施設を掲載し、黒人旅行者がみすみす苦難と当惑に向かってしまうことを防ぐのが目的でした。
紹介されている施設は、旅館やレストランだけでなく、ガソリンスタンドや自動車整備工場まで網羅されていたといいます。
上の地図は、シャーリーがツアーで周った場所です。
黒人差別のきつい南部でも、特に最終地アラバマは酷かったらしい。
件の会場では、かのナット・キング・コールも袋叩きにあったといいます。
ドクター・シャーリーだけでない
南部のツアーで、迫害や暴力を受けたのは彼だけではありません。
有名なナット・キング・コールでさえ暴行を受けました。※1
ビリー・ホリデイも、レストランやホテルに入れて貰えなかった話もしていますし、
実際にビリーの父は、肺炎で運ばれた病院で拒否され、たらいまわしにされた挙句亡くなっています。※2
ビリー・ホリデイの代表曲に「奇妙な果実」がありますが、これはアメリカ南部の差別の惨状を歌った曲。
※1
ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 - 1965年2月15日)
南部ツアーの最後のとある会場は、前年ナット・キング・コールがライヴをして、白人の歌を歌ったという理由で袋叩きにあった場所だった。黒人が自分たちの歌を歌うことは娯楽として受けて入れるというのに、白人が作った歌を口にするだけでリンチを受けた。
※2
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン (Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)
1937年3月1日、テキサス州ダラスでの巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。
1939年3月、ホリデイはルイス・アレン(英語版、フランス語版)という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。
差別の話ばかりに終始しましたが、映画『グリーンブック』は暗くて深刻な映画ではありません。
シャーリーの才能にほれ込んだトニーは、全力で彼を守る。その心意気が素晴らしい。
一方シャーリーも無学で粗野だと思っていたトニーが、家庭的で愛情に溢れていることがわかり。
次第にお互いの偏見を解いていきます。
用心棒としてのトニーは、とにかく頼もしいのです。
カッコ良いのです。
トニーにはこの人しかいないと監督がほれ込んだのが、
ヴィゴ・モーテンセンさん
名前でもわかるように彼はイタリア系ではありません。
彼は、監督からのラブコールを何回も断ったんだそうです。
「イタリア系でない僕が、イタリア系をステレオタイプするような演技をするべきでないと思ったからさ。それに、イタリア系には優れた俳優がたくさんいる。それで断ったんだが、ピーター ( ファレリー監督 ) は何度もオファーをくれ、そのたびに脚本を読み直すと、ますます好きになっていったんだ」
それでも諦めない監督は偉かった
この映画の成功のカギはやはり、2人の俳優の起用だと思います。
実際のモーテンセンさんは、細身でインテリタイプです。
でも、映画の中の彼は本当にホントウに、修羅場をくぐってきた有能な用心棒に見えましたから。
印象に残ったシーンをいくつか
シャーリーが捕まったと聞き、向かったプール ( ? ) の脱衣所で、彼は全裸のまま震えていました。
隣にはもうひとり裸の男性がいて、同性愛を示唆するシーンでした。
警官の冷たい対応に「タオルくらいかけてやれ」と怒るトニー。
人種差別主義者だったトニーが、意外にも性的な部分に寛容であるのが印象的でした。
「なんで勝手に出歩いたんだ」というトニーに
「このことだけは知られたくなかった」というシャーリー。
しかし、トニーにとってはそんなことどうでもいいことだったようです。
フライドチキンのエピソードも愉快でした
トニーは、運転しながらフライドチキンを食べています。
で、シャーリーに「お前も食べてみろよ」とすすめます。
生まれてから一度も食べたことのないシャーリーですが、食べてみたら「あらおいしい」となる。
骨はどうしたら良いかと困っていると「こうすんだ」とトニーが窓から放り捨てます。
シャーリーも真似して窓から放り捨てるんですけど、その時のシャーリーの顔が可愛いの。
子供に返ったような、悪いことをしてるとわかりながら、なんだかとても楽しそうな顔。
調子に乗ったトニーが、コーラのカップも放り投げる。
すると。。。
次のシーンで車がバック。運転席のドアが開き、道に落としたカップは回収。
「カップはダメだ」とシャーリーに怒られたんでしょうね。
ラブレターの代筆もいい
愛する妻に、各地から手紙を書くトニーだか、
その手紙を見たシャーリーは「つぎはぎの脅迫状か?」と呆れる。
やがてシャーリーは、手紙を推敲するようになります。
トニーが場末の黒人酒場にシャーリーを連れていくシーンもよかったです
しわひとつない高級なスーツを着たシャーリーは、店の中でも浮いています。
そんなシャーリーに演奏をすすめるトニー。
シャーリーは静かにショパンを弾き始める。店の客はシーンとなります。感動しているのです。
彼の演奏に聞き入ったのはバーの客だけではなく、店で演奏するミュージシャンも同じでした。
やがてシャーリーの演奏に、ミュージシャンも合わせてきます。
かつて「あいつは天才だ」「でも楽しそうじゃない」といったトニーが見たものは・・・
はじけるようなシャーリーのとびきりの笑顔だったのです。
ラスト5分がたまらない
最終のコンサートを終え、アラバマからニューヨークに帰る車の中で、
トニーは過労死するほどくたびれています。
「ダメだ。もう死にそうだ」というトニーに、
「頑張れ、クリスマスには家に戻るんだろう」と叱咤するシャーリー。
ようやく着いたニューヨーク。運転は、、、、ホロッとしてしまいました。
その後も洒落ている。
祝い事には親族が集まり、わいわい楽しくやってるイタリア移民の家族たちの中に、
何とか間に合ったトニーでしたが、シャーリーは執事を家に帰らせマンションで独りぼっち。
トニーの家に来客が。
シャーリーが招かれたのかと思いましたが、違うんです。
質屋の老夫婦でした。たぶん彼らはユダヤ系。
親戚の1人が社交辞令で「クリスマスに来ないか」と言ったんでしょう。
まさか本当に来るとは思わなかったが、その辺は来る者拒まずのイタリア気質。
老夫婦もワイワイ楽しく混ぜてもらっています。
そしてまたひとり、来客が。
ドロレスがドアを開けると、そこにはシャーリーが立っています。
シャーリーに抱きついてドロリスがかけた言葉に、、グググッときました。
そうだろうな、そうだよね、と思いながらも。
観客をくすぐるこのハートフルな映画を撮ったのは、
流石コメディーの名手、ピーター・ファレリー監督です。
この映画は実話です
この映画は実話で、トニー・バレロンガの息子がプロデューサーだそうです。
息子のニック・バレロンガは、実在の人物---シャーリーから「映画にしてもいいが、自分が死んでからにして」と言われていたそうです。
実在の人物トニー・バレロンガの経歴がまた凄い。
実は、後年俳優をしていたそうです。「ゴッドファーザー」をはじめ、イタリアマフィアが出て来るような映画にバンバン出ていたというから、今度観てみたいと思います。
実在の人物:トニー・バレロンガ
フランク・アンソニー・ヴァレロンガ・Sr
(Frank Anthony Vallelonga Sr., 1930年7月30日 - 2013年1月4日)は、トニー・リップ(Tony Lip)という通称で知られていたアメリカ合衆国の俳優、作家である。
1930年、アメリカ、ニューヨーク州ブロンクス生まれのイタリア系アメリカ人。10代の頃から知り合いだったドロレスと結婚し、2人と息子に恵まれる。世界的に有名なニューヨークのナイトクラブ、コパカバーナに12年間勤める。その間に培った人脈から『ゴッドファーザー』 (72) で俳優デビューを果たし、その後も『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』 (85) 、『グッドフェローズ』(90) 、『フェイク』(97)、大ヒットTVシリーズ「ザ・ソプラノズ/哀愁のマフィア」(01~07)などの出演する。1999年に妻に先立たれ、2013年1月4日、82歳で亡くなる。
実在のドナルド・ウォルブリッジ・シャーリー
1920年生まれの黒人ピアニスト、作曲家、編曲家。
2歳の頃から母親にピアノを教わり、9歳でレニングラード音楽院の生徒となり、18歳でボストン・ポップス・オーケストラにてコンサート・デビューを飾る。
音楽、心理学、典礼芸術の博士号を取得し、複数の言語を話すことができた。
1955年、ケイデンス・レコードから「Tonal Expressions」でアルバム・デビューを果たし、カーネギー・アーティスト・スタジオの専属作曲家を務め、コンサート・ホールの上にある高級マンションで暮らしていたこともある。
2013年4月6日、86歳で亡くなる。
Dr. Donald Shirley's piano interpretation "Happy Talk" - a show tune from the 1949 Rodgers and Hammerstein musical South Pacific. He is joined by bassist Robert Field.