玉川上水のことを調べていて貴重な資料を見つけました。
『上水記』といいます。
上水記 は、こちらのデジタルアーカイブで閲覧できます。⤵
9巻からなる古文書なんですが、
4巻が、玉川上水の羽村から四谷大木戸までの絵図でした。
下図4枚は、上北沢から笹塚あたりまでの絵図です。
実際の絵図は天地が逆。見にくいので北を上に、ひっくり返しました。
左が上流の多摩川方向、右が下流の四谷方向です。
流石に読めん。
小坂克信さん著『玉川上水と分水』の図と見比べて、わかる地名を書き込みました。
一枚目 烏山分水、上北沢分水が書かれたもの
二枚目 高井戸分水が書かれたもの
三枚目 代田橋が書かれたもの
四枚目 幡ヶ谷分水、三田用水が書かれたもの
なんでこんな古文書なのか、というと
下高井戸あたりの、昔の水路の位置が知りたかったから。
以前、気になる道や家 中村家 で、住宅街にぽっかりと開いた広い道が気になるという話をしましたら、
えつだむ (id:kwaico) さんが、調べてくださいました。
えつだむさんの行動力は凄い!
早速そのあたりを探索され、付近の弁天池という水源に注目し、
そこから水路がながれでいることを突き止められました。
水路は今は暗渠になっていますので、たどるのは非常に難しい。
ブラタモリでもお馴染みにように《妙に曲がった道、地盤の高低差は、川だった可能性がある》というアレですの。
水路は自然のものか、それとも用水路か
で、私もその辺りを調べてみたくなりました。
弁天池については、前に菅原神社で知りましたが、それっきりになっていたところ。
えつだむさんが暑い中、歩いて調べていらしたというのに、
怠惰な私は外に出る勇気もなく、ネットや図書館の資料で何とかしようという魂胆 (;^_^A
手をつけたのは、古地図との照合です。
気になるこの微妙な曲線
茶色くしてみましたが、なんか一反もめんみたいね、この形。
これと明治の頃 ( 140年前 ) の地図と比べると、、、
ほぼ一緒!
一反もめんみたいな形は『水田』だったのです。
水田といえば、用水路が不可欠。
じゃあ、この水田の水はどこから引いたのだろうか。。。
とても弁天池の湧き水だけでは足りない気がします。
思いついたのは、玉川上水の分水でした
ぐぐっと広域の地図です。
水田の部分と、用水路の部分はわかりやすいように色を足しました。
↙ 左上の角の所が「玉川上水の上北沢分水口」です。
クネクネと水路に沿って水田 ( 黄色 ) が続いています。
水路は、玉川上水から分水された上北沢分水、、、後の北沢川です。
北沢川は世田谷区上北沢にある東京都立松沢病院内にある将軍池が源泉で、
そこに玉川上水から引き込んだ水が合流したもので、一帯の田畑を潤しています。
現在北沢川は用水路としての使命を終え、全域暗渠になってしまいました。
※ 目黒川までが北沢川緑道になっています。
2011年8月9日撮影
その上北沢分水と弁天池からの水が合流したのではないかというのが私の仮説です。
暗渠になっている一反もめんのヘリの水路は、昔の水田の用水路ではないかと思うのです。
もうひとつの仮説は、こうです。
弁天池は、北側が最も玉川上水と接近していることから、
弁天池の湧き水は、北側の玉川上水からの落水ではないかと思うのです。
そんな仮説を裏付けたくて ←ちょっとオーバー
玉川上水の上北沢分水口がどのあたりか調べたというワケです。
いずれにせよ、
冷房のきいたお部屋でこんなことしていて、なんだか怠惰だな思っておりますケレド (;'∀')
追記
えつだむさん。
私たちと同じところに気がついている方のサイトを見つけました。
この方の推察では、例の広い道は暗渠ではないかということです。