garadanikki

日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

代田あたりの水道施設

世田谷区代田あたりには、水にまつわる施設や施設跡が沢山あります。

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玉川上水を、ご存知でしょうか? ←何をいまさらといわれそうですが (;^_^A

太宰治が入水自殺した、あの玉川上水。 

といっても、太宰の入水したのはもっともっと上流 ( 三鷹 ) で、

これからお話する代田橋あたりは10㎞下流なんですけれど。。。。

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代田橋は、東京の水道の歴史を語る上で、重要な施設がひしめいています。

「東京の水道の歴史を語る」だなんてちょっと大きく出てしまいましたが (;^_^A、

江戸時代の上水路跡があり、

大正・昭和初期の上水路跡があり、

現在の給水施設があるからです。

 

現在の給水施設は、先日お話した『和田堀給水所』と、

もうひとつ『和泉水圧調整所』があります。

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左上の「給水所」と書かれているのが『和泉水圧調整所』です。

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水圧調整というのが、どういう役割を果たしているのはひとつわかりませんが、

とりあえず「給水所」と「水圧調整所」の二つが近くにあることには、意味があるのでしょう。

⤴ これはまた別に調べます。

 

水圧調整所の前をウロウロしていたら、バス停見つけました。

『水道横丁』ですって www

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ほーら、ごらんなさいまし、本当に水道横丁なんです。

 

 

さて、この『和泉水圧調整所』の場所が、今回の重要なポイント地点です。

ここを Aポイントとして時代の変遷を追っていきます。

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1880年 ( 明治13年 ) ( 約140年前 ) には、Aポイントには 旧玉川上水しかありません。

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1910年 ( 明治43年 ) ( 約110年前 ) に、Aポイントが 二つに分岐しました。

下が、従来の玉川上水。上が、淀橋浄水場につづく玉川上水新水路です。

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1960年 ( 昭和35年 )  ( 約60年前 ) は、水路も道路もなくなり、

Aポイントは溜池みたいになってます。

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普通、道は時代が進むうちにどんどん出来てきますが、ここは逆です。

昭和5年にあった道が、昭和35年には消滅している。

 

使命を終えた道や川

田んぼの用水路が、宅地化されたことで必要なくなり、埋め立てられるということはあります。

都心では暗渠となってしまった溝川も結構あります。

しかし《一旦つくられた道が無くなる》というのは稀かも知れない。

道路が何故消えたのか、、、それは使命を終えたからなんですが、

それをお話しする前に、このあたりの水路の歴史をもう一度さらってみます。

 

江戸時代は、玉川上水が江戸の人の水道でした。

明治に入ると玉川上水の水質汚染のために、淀橋に浄水場が作られました。

玉川上水から淀橋浄水場まで水を引くため、Aポイントの東南東に玉川上水新水路が作られました。

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しかし淀橋浄水場が昭和40年にその役目を終えたため、玉川上水新水路も使命を終えます。

新水路は、環七の交差点までが道路になり、残りの部分が宅地化されました。

このポカンと空いた場所が道が無くなった所です。

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東放学園専門学校の《東》の字あたりは、昔道路があった。

 

歩いてみました。

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下の写真は、上の地図のところ、正面右に甲州街道の上の高速道路が見えます。

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無駄に広い空き地。

不自然なカーブは、代田に続く古い水路の暗渠のようです。

 

新玉川上水路が無くなって、宅地になった場所。

突き当りは緑地公園。

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新玉川水道が通っていた場所は、宅地になったり、こういう公園にたりしています。

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左の道が少し高い場所にあるのが不思議。

理由を知りたいのですがわかりません。←宿題

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Aポイントは、水の歴史の交差点

代田のAポイントは、さしずめ水道の歴史の交差点かな。

1 江戸から明治にかけて使われた水の道→玉川上水と、

2 明治 (明治31年 西暦1898年) から昭和 ( 昭和40年 西暦1965年 )にかけて使われた水の道→淀橋浄水所への玉川上水新水路と、

3 現代の水道道路が

 

交差しているんですもの。

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代田が江戸の昔から水の要所であったのが上の地図でもお分かりいただけたでしょうか。

これには、高台だったということや、真っすぐな道が作りやすい場所だったからです。

こんな重要な拠点はそうはないでしょう。

この辺り、まだまだ水道にまつわる面白い場所が沢山ありますが、まず本編の話はこの辺にいたします。

 

 

 

 

 

 

もっと話してもいい?

あのですね、玉川上水新水路と淀橋浄水場の関係について、もう少し補足したいことがありました。

さきほど「淀橋浄水場が役目を終えたので、玉川上水新水路も役目を終えた」と、さらっとやっつけてしまいましたが、厳密にいえば誤差があります。

淀橋浄水場が停止した年と、玉川上水新水路が道路に変わった年とが前後しています。

 

東村山に浄水場が出来て、その機能が移ったのが昭和40年。

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都心 ( 新宿駅の目の前 ) の一等地にあった淀橋浄水場は、太陽にほえろの刑事たちが走るので有名な、

あの新都心の高層ビルに姿を変えます。

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ところが、淀橋浄水場が姿を消した昭和40年よりも前に、

玉川上水新水路は、姿を消しているんです。

 

さっきの古地図を見ても、 昭和35年にはこの地点の玉川上水新水路が無くなっています。

 

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玉川上水新水路の水深は10㎝と浅くて子どもたちの遊び場としても親しまれていたそうです。

ところが1921年 ( 大正10年 ) の地震で一部が決壊、追いうちをかけるように1923年 ( 大正12年 ) の関東大震災で大規模な決壊があったため、1937年 ( 昭和12年 ) に新しい導水管の完成※1に伴って、玉川上水新水路は全面廃止されたのだそうです。

※1 新しい導水管は、1937年 ( 昭和12年 ) 甲州街道道路下に作られました。

 

大正初期 笹塚付近の玉川上水新水路

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馬の背に作られた玉川上水 

江戸時代に作られた玉川上水は、高低差を非常に計算され作られています。

武蔵野台地は、東に行くほど低くなっているのですが、その勾配を巧みに利用した水を流したようです。

羽村の標高は122m、四谷大木戸の標高は30m

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玉川上水を引くためのは直線距離を通したくなりますが、緻密に計算され点線のルートを通っています。

これはそれぞれの段丘の、一番高いところを結んでいるのです。

イメージは馬の背。

一番高いところを通すことによって、玉川上水を分水する時に、右分水口にも左分水口にも水が引けるようになっているのです。

 

江戸時代の人は、よく考えて工事をしたんですな。

勿論、小さな失敗を繰り返していたようですが、ほんとうによく考えられた水路だと思います。