Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

翻訳はどこまで許されるのか

コレットの「青い麦」を石川登志夫さん訳で読んだのは、数か月前のことです。

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正直いって、自然や植物の形容が多くて内容が頭に入ってきにくく、難航しました。

こんなにも想像力や読解力がなかったのか、と自己嫌悪に陥るくらい。

 

そんな時 我が頭の程度を棚に上げ 原作の難解さなのか翻訳の問題なのかを知りたくなってしまいます。

フランス語が出来ないので、どうしたって翻訳の先生の筆の力やセンスに頼るしかない。

いくつかの訳を読み比べたくなる悪い癖が出てしまいます。

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今回は、石川登志夫訳 / 1954年、手塚伸一訳 / 1991年、河野万里子訳 / 2010年 を比べてみました。

 

冒頭からしてもこんなに違うのです

石川先生訳 「漁にいくのかい、ヴァンカ?」

春雨の色をおびた眼をしたつるにちにちそう(ヽヽヽヽヽヽヽ(1))のヴァンカは、横柄にうなづいて、そのとおりよ、漁に行く恰好をしてるじゃないの、と言わんばかりに答えた。

 

手塚先生訳 「えびをとりに行くの、ヴァンカ?」

春の雨のような色の目のヴァンカ、《つるにちにち草》( つるにちにち草はヴァンカという別名をもつ。 ) は、そうよ、きまってるじゃない、というふうに横柄にうなづいた。 

 

河野先生訳 「エビ捕りに行くの、ヴァンカ?」

青い花<ツルニチニチソウ>という意味の名前、ヴァンカ── 。彼女はその名のとおりの青い目、でも春の雨を思わせる色合いの目で、<そうよ>というように、つんと頭を上げた。

 

冒頭からいきなり訳すのが難しい文章で、先生方も苦労されたのではないかと思います。

フランス人なら「ヴァンカ」という名前だけで、つるにちにち草のことだとわかり、女の子の眼の色が青なのでこういう愛称なのかと察してくれるかも知れません。

しかし日本人には一から説明しなくてはならない。

しかもメンドクサイのは、ヴァンカの眼の色は、つるにちにち草の青より、春雨の色に近いという。

⤴ 春雨の色ってどんな色?って感じです。

 

 

色々比較検討した結果、私は新訳の河野万里子先生の訳がスッと頭に入ってきました。

ただ、気になるのは河野先生だけが「横柄」という言葉を使っていないことです。

「横柄」が「つんとした」になるだけで、ヴァンカの印象が変わります。

「横柄」と言う言葉がひっかかれば、彼女がそういう人物なのかも知れないと思い、

後から「そうか本当に横柄なのではなく、ヴァンカとフィリップが幼馴染で、気心しれた関係だからぞんざいにしていたのか」とわかってくる。

その関係性を感じさせるために、わざと引っかかりのある言葉を使ったのかな、という風に思えてきたりする。

原作者があえて使った言葉だったら、そのあえてに見合う日本語を使う、翻訳はそういう作業なのかも知れません。作者がどこに複線を張っているかを把握し、サラリと流すかこだわるかも翻訳者のセンスだったり裁量だったりするのかも知れません。

 

翻訳は大変難しい作業

そんなことを考えると、翻訳は大変難しい作業だと思います。

ただ外国語が出来ればいいというワケでなく、原作に忠実にする必要もあったり、日本人に理解しやすいように配慮する必要もあります。

 

《戸田奈津子さんのこと》

日本の字幕翻訳家として大御所の戸田奈津子さんが、ファンから批判された事件をご存知でしょうか。

私は最近知ったのですが、Wikipediaによるとこういう話です。⤵

日本で公開された際に、戸田奈津子が日本語字幕を担当したが、劇場公開版は「誤訳が多すぎる」として、指輪物語ファンから抗議が殺到、日本語字幕改善の署名活動まで行われた。

 

一例としてはボロミアがフロドから指輪を奪おうとするシーンで、フロドの「あなたはおかしくなっている!(英語: You are not yourself !)」というセリフが、単に「嘘つき!」と日本語に翻訳されており、ボロミアが指輪の魔力に囚われたのではなく、単に私利私欲で裏切って指輪を奪おうとしていると誤解されてしまう字幕になっていた。

 

ファンの抗議が、監督にまで手紙で届き「二作目では、戸田を交代させる」とインタビューで答えるまでに至った(実際は戸田は二作目においても日本語字幕を担当しており、原作の共同翻訳者である田中明子・『指輪物語』出版社である評論社が、戸田奈津子の字幕チェックをし直し、二重チェックを行い、映画封切前に署名活動の代表者に試写を見せた)。

 

ファンからの抗議を受けて、DVD-Video版は、劇場公開版の字幕翻訳をそのまま使わず、日本語字幕の翻訳手直しが行われた。

 

厄介な話だと思いました。

映画の字幕は、一行であることが必須。

役者が早口で叫んでいるセリフに対して、忠実な訳の日本語を書いても、読み切れるものではない。

いかに端的に伝えるか、その仕事を何十年も続けてきた戸田先生のご苦労もわかります。

もちろん誤訳はいけません。

しかし映画に字幕をつけるという作業は、意訳と誤訳のギリギリの境目で戦わなければならない商売であるということも容認しないといけないのではないでしょうか。

 

実は私は、ここでひとつの怖さを感じてしまいました。

小説や漫画の読者が高じてその世界の熱狂的なファンになる、

さすれば登場人物たちへの思い入れもひとしおになるのはわかります。

ファンにとって、一言のニュアンスの違いで、人物像が破壊され、設定や世界観が狂うことは許されないでしょう。

 

しかし、そこで単純な疑問がわいてしまいました。

「果たしてみんなは、指輪物語を原文で読んでいるのだろうか」と。

大多数の人は、翻訳されたもので読んでいると思います。

それで感動したのなら、その翻訳者の指輪物語のファンなのではないかと。

本の翻訳は信用し、映画の字幕の訳にだけ、何故くいつくのか。

それほどまでにファンであるなら、原文で楽しめばいいのじゃないかと。

 

You are not yourself ! が、「嘘つき!」というのが誤訳か、はたして意訳か。

映画のスクリーンに「あなたはおかしくなっている」と書くので、本当に良いのかな、

そちらの方が余程おかしいと私は思います。

 

ファンの署名運動というのはほんとうに怖い。

日本語字幕改善の署名活動ですと? 書名活動するより自分で訳して持って来い。と思います。

封切り前に、署名活動の代表者に試写を見せた? 腰抜け配給会社。と思います。

 

ああ、こんなことを書いたら、大火事になるかしら。

そしたらこの部分は、さっさと削除しようと思います ww

 

本を選ぶ時

本を読む時、もしその本が複数の出版社から出ていたら、読みやすい本を選ぶことが出来ます。

読みやすいとは、活字や紙やレイアウトといった本の装丁の違いもあるし、

その本が外国のものだったら、どの訳者で読もうかということもあります。

翻訳家と原作者との相性もあるでしょうし、時代によっても違います。

 

私の場合、日本の小説は、明治・大正・昭和初期の作家さんの作品が好きなので、

紙質は悪くとも、初版に近い、旧かなのもので読むのが好きです。

その方が当時の雰囲気か伝わってくるような気がするからです。

 

しかし、それを翻訳本に当てはめると違ってくることに最近気づきました。

例えばコレットの場合、1922年の小説なので大正11年に近い翻訳者の訳で読んだ方がいいのかと、思っていましたが、そうとも言えない。

最も古い、1954年 ( 昭和29年 ) 頃発行の、石川登志夫先生、福永英二先生、堀口大学先生、鈴木健郎先生などが一気に出版されていますが、

手にとってみるとやはり読みづらいのです。

原作者に、翻訳者の古さというフィルターがかかってしまったからかも知れません。

であれば、改変改変を繰り返した最新の翻訳、実はこちらの方が良いのかも知れません。

 

といっても、これも最終的には好みです。

本当なら、フランス語を勉強して原語で読めば一番良いのでしょう。

しかし、翻訳家にゆだねなければならない身としてみれば、

翻訳の先生のセンスや文章力を信頼して読ませていただくしかない。

 

外国映画の字幕も、これに準じることなのではないかと思います。

 

どっちが読みやすいか 

どっちが読みやすいか、を比べてみるのも面白い。

それぞれに苦心されたところもあるでしょうし、魅力も違いますから。

比べてみることで、原文が少しだけ垣間見られるかもしれません。

 

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1991年 手塚伸一訳 集英社文庫 2010年 河野万里子訳 光文社古典新訳文庫
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一部分を抜き出してみました。

手塚訳 p.106   河野訳 p.110
8月も終わりに近く、夕食にはもう明かりが必要だった。   8月も終わろうとしている今、夕食はランプのほり明かりにつつまれて始まった。
あけ放ったドアからは、赤銅色の紡錘型の雲が浮かぶ緑色の西空が見えた。   開けはなれた窓という窓のむこうには蒼い夕焼けぎ広がり、そこに糸つむぎの道具を思わせるふくらんだ形の、淡い赤銅色の雲がひとひら浮かんでいる。

船影のない海は、燕のような黒っぽい青に沈んでいる。そして食事をしている人たちの話がとぎれると、小潮が満ちる規則正しいひそやかな波音が聞こえてきた。

  人気のない海はツバメの羽のような青黒い色に沈んで眠り、食卓の会話がとぎれると、小潮どきのおだやかな波が物憂げに、けれど規則正しく打ち寄せる音が聞こえてくる。
フィリップは影たちのあいだに、ヴァンカのまなざしを求めた。   フィリップは、影たちのあいだにヴァンカの視線を探した。
何年も前からおたがいに結びつけてきた、あの目に見えない糸の力を感じとるために。   何年ものあいだ、ふたりを互いに結びつけてきた、目には見えない糸の力を感じたくて。
その糸のおかげで、彼らは、食事が終わるとき、季節が終わるとき、一日が終わるとき、ふたりを打ちひさぐさびしさに耐えて、恋する身を純潔なまま守りとおしてきたのだった。   その糸が、食事の終わりや季節の終わり、一日の終わりに襲われる物悲しさから、ふたりを熱く純粋なままに守ってきたのだ。

でも彼女は皿に目を伏せて、釣り照明具の明かりに、円味をおびたまぶたと、日焼けしたふくよかな頬と、その小さな顎を光らせているだけだった。

 

ところがヴァンカはお皿に目を落とし、ペンダントランプの光を受けて、ふっくらしたまぶたと褐色に焼けた丸い頬、小さなあごを、つやつやと輝かせているだけだ。

彼は見捨てられた気がして、きらめく三つの星に導かれて海に伸びる、ライオンのような恰好の岬の向こうの、闇にも白い、ケル=アンナへの道を求めた。   フィリップは見捨てられた気がして、海につき出たライオンみたいな形の岬のほうに、目をやった。岬の上には星が三つまたたいている。そしてそのむこうに、夜も白く光ってケル・アンナに続くあの道がある。

 

家人の留守の間の食事。

行儀は悪いが、本を読みながら、スプーンでぱくりできる、こんなチャーハンが最適。

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炒飯か、ピラフか、その中間のようなものでした。

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