甘泉園公園の隣に、水稲荷神社があります。
天慶4年(941年)俵藤太秀郷朝臣が旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請し、古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」と言われました。江戸中期境内の大椋に霊水が湧き評判を呼んだことが、名前の由来の一つだそうです。
「おっとり刀で駆けつける」という表現で御馴染みの
『堀部安兵衛の碑』がありました。
筋書きは、ざっくり言うとこんな感じ。
叔父・甥の契りを交わした管野六郎左衛門が決闘を行うと聞いた中山(堀部)安兵衛は、「すわっ 一大事」と慌てて高田馬場に駆けつける。
途中、酒屋に立ち寄り景気付けに枡酒をガブガブガブと三口で飲み干し、刀の柄にブワーッと霧吹きして、おっとり刀で駆けつけるやいなや3人を斬り倒した、というもの。
いかにも江戸っ子が好きそうな話。
「おっとり刀」というのは、刀を鞘におさめるのも もどかしく、手に持ったまま走る様をいう言葉。
“ おっとり ” という言葉から “ ゆっくり ” を連想する人がいるけれど、逆なんです w
この決闘で活躍した安兵衛が江戸中に評判になり、講談や芝居の題材になりましたが、
いつのまにか3人斬りが18人斬りに盛られてしまいました。
安兵衛は、
明治43年(1910)に『安兵衛の石碑』が建立されたんですが。
旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅にあった石碑は、昭和46年に現在の水稲荷神社の移されたんだそうです。
堀部安兵衛が酒を飲んだという酒屋『小倉屋』さんは、江戸時代から320年続く老舗で現在も営業中。
当時の枡も、大切に保管されているそうです。
これが、その枡 ⤵
山吹の里で狩をした太田道灌が、馬とつないだ松と云われています。
しかし『三代目』と書いているので、
道灌様が馬をつないだ松ではなくて、
単にここにあったという目印みたいなこと w
太田道灌にまつわる話は他にもあります。
ひとつは『道灌つかみさしの榎』という話。
これは水稲荷神社の名前の由来にもなっているものです。
あるとき太田道灌は、狩の記念にと、採取した榎を冨塚古墳のそばに植えました。
後に この話を聞いた関東管領の上杉良朝が、この榎をご神木として稲荷神社を再興しました。
元禄15年(1702)道灌が植えた榎の空洞から霊水が湧き出し、この水で眼を洗ったところ、眼病がたちまち治りました。
これが江戸市中で大評判となり、多くの人に親しまれるうちに『水稲荷』とよばれるようになりました。
というもの。
現在でも『水稲荷神社』は、水商売や消防にご利益があると言われているそうです。
最後にもうひとつ。
『七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき』の古歌で知られる逸話ですが、
これも一説では高田馬場が狩場だったと言われています。
鷹狩に出かけていた道灌が俄雨にあい、とある農家に立ち寄って雨宿りした際、蓑を貸して欲しいと頼んだところ、出てきたその家の少女が、庭に咲いていた今を盛りの山吹を一枝切って差し上げました。
道灌は、これを不快に思って帰還しましたが、後に、老臣から、その少女が古歌「山吹の歌」に事寄せたものであることを諭され、自らの無学を恥入り、それ以来、和歌の道に励み、その道の達人になったという話です。
山吹の『実』と、蓑(みの)をかけて、
「ウチは貧乏で、お貸しする蓑もないことを悲しく思います。」
ということなんだそうです。
しかし、この話の舞台となった里は、早稲田の他にも、荒川区の町屋だとか、神奈川県の六浦だとか、色々な場所があがっているそうです。
桃太郎伝説とか、卑弥呼とかと同じなんですかね。
水稲荷神社の旧社地は、現在の早稲田大学9号館の裏手にありまして。
早稲田大学の拡張に伴い、神社は現在の場所に引越したのです。
それと同時に境内にあった富塚跡や高田富士塚跡などの遺跡も全部移築されて復元公開されたとのこと。
堀部安兵衛の石碑も、元は違う場所にあったわけだし。
その他、現水稲荷神社の境内にある『三島神社の石の小祠』も『北野神社』も『聴松亭』も 他所からここに移されたものだし、
神社の名前の由来である“霊泉の湧水”も、この地に湧き出したワケではない。
色々なご利益あるものが集結した神社ですから、ご利益増し増しかも。
新宿区西早稲田3-5-43
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