新年早々、大風邪をひいて寝込んでいる間に、本を三冊読みました。
その中の一冊が『塩原多助一代記』です。
高い熱で うつらうつらした頭でも、何とか読めたのは語り口調だったからかも知れません。
『塩原多助一代記』は、三遊亭円朝の創作落語です。
三遊亭円朝は、江戸から明治にかけて活躍した落語家で、三遊派の大名跡。
円朝さんは噺もウマかったらしいが作家としても優秀で、沢山の創作落語を残しています。
代表作は、『牡丹灯篭』『真景塁ケ淵』『死神』『芝浜』『文七元結』など。
『塩原多助一代記』も落語から端を発し、歌舞伎・講談にも取り上げられ人口に膾炙しました。
円朝さんの作品が、現在も残っているのは 文字になっていたから でしょう。
これは当時の速記者のお蔭です。※ 若林玵蔵さんと酒井昇造さん
落語だけだったら、その時代 江戸にいた人にしか知られなかったはず。
文字にしてもらったお蔭で、日本中に知れ渡り、時代を超え、私たちも知ることが出来たのです。
因みに我が家には、三遊亭円朝全集 ( 角川書店版 ) の第一巻 怪談噺しかありません。
『塩原多助一代記』は、図書館で借りた岩波文庫で読みました。
内容は、語り口調なのでわかりやすい。
しかし最初はとまどいます。
序文と特にやっかいでした、総ルビだったから。
明治期の総ルビは本当にミミズがのたくったようでグチャグチャしてます。
ルビが旧かな ( 例:初集←しょしふ ) だから余計に大変。
本文は、総ルビではないものの、もうひとつ難点がある。
ひとつ抜き出してみますと、
傳「弱さうな名で、なまめいた名ですなア。主「なアに
頑丈 なものでござりやす。といふ所へ出て來たのは、丈し五尺七八寸もあつて、
こんな風に、傳吉さんのセリフ、主人のセリフ、ト書きが改行されずに羅列されてるのです。
塩原太助は何者?
主人公の塩原多助 ( 実名は太助 ) は、群馬県の名士です。
故郷で辛酸をなめた多助は、江戸に出て来て頑張って、大きな炭屋の店主になるまで出世。
一代で財を成した人なら他にもいたでしょうが、私腹を肥やすばかりでなく、公共事業にも投資。
そんな人は他にもいたでしょうが、落語・歌舞伎・講談で語られたことが人気になった要因。
戦前は立志伝型人物として教科書にもなり、上毛かるたにも詠まれる人物です。
ぬ「沼田城下の塩田太助」
上毛かるた とは?
上毛かるたをご存知でしょうか。
群馬県人なら全員詠めるものなんだと、MOURI が言っています。
群馬県の人は、学校で教わるだそうです。
その上毛かるたの中で、人名の札は全部で7枚。
『こ』内村鑑三、『へ』新島譲、『ほ』田山花袋、『れ』新田義貞、『ろ』船津傳次平、『わ』関 孝和のお歴々と塩原太助なんですと。
因みに。
MOURIに「『ぬ』の札は?」と聞いたら、「沼田城下の塩原太助」とスラスラ答えました。
しかし。
「じゃ、塩原太助って何やった人?」と聞いたら、この人だけは知らなかった。←ダメじゃん
今回『塩原多助一代記』を読もうと思ったのは、年末にそんな上毛かるたの話をしたのがキッカケです。
で。
塩原太助を群馬で有名人にしたのは、やはり圓朝さんの書いたこの本によるところが大きい。
※ Wikipediaの「塩原太助」に時系列でこうありました。
1878年 三遊亭圓朝が太助をモデルにして「塩原多助一代記」を創作し、高座にかけて人気が出る。
1885年 「塩原多助一代記」を出版。12万部という驚異的なベストセラーになる。
1892年 歌舞伎『塩原多助一代記』が初演される。
1928年 関東大震災の復興事業として墨田区竪川に「塩原橋」が架けられた。国道17号沿いに塩原太助公園が整備される。
1947年 上毛かるたに取り上げられる。
1994年 生誕250年記念として、塩原太助公園に愛馬「青」とともに銅像が建立される
ところが。
「沼田城下の~」という札になってますが、塩原太助の出生地は沼田ではないんだそうな。
⤴ 群馬の人も結構アバウトだな。
今では、群馬県利根郡みなかみ町に「塩原太助翁記念公園 ( 塩原太助生家 )」もあって、
こーんなデッカイ銅像もあるらしい。
東京の両国3丁目にも、「塩原太助炭屋跡」の看板があり、
「本所に過ぎたるものが二つあり津軽大名 炭屋塩原」と歌にまで謡われている。
先にも言ったように、彼の知名度は、数々の公共事業に投資したからもあるようで、
『塩原多助一代記』にも、こんな下りがあります。
ある日、多助は奉公先の主人-山口善右エ門に二十両貸して欲しいと言います。
多助は、自分が貯めてきた金を主人の善右エ門にぜーんぶ預けてあるんですが、
その金だけじゃ足りないので、二十両貸して欲しいという。
日ごろ無駄なことひとつもしない多助ゆえ、善右エ門も心配はしてないが、何に使うかと聞きます。
すると「石を買って、押原横丁のお組屋敷に敷き詰めたい」というのです。
押原横丁へは毎日炭を車に積んいくんですが、道が悪いので手前で車を停め、七八丁炭をかついで行くそうな。
二月ともなれば、霜解けがして草鞋でも草履でも滑って歩けない。
一尺五寸ももなる霜柱を歩いた後、砂利道を通れば草鞋は忽ち 切れてしまう。
日に二足位ダメにするなんて非常に無駄。石を敷けば自分だけでなく皆も助かる。
とまあ、こんなことなんです。
善右エ門は、神田佐久間町のものが、四谷の押原横丁へ石を敷いてどうする、いらざる余計な事じゃないかと問いただすと、、、そのあとのくだりをちょっと書き出します⤵
多「旦那様お言葉を返しては済みませんが、
貴方 と違おうと思いやんす、神田佐久間町と四谷の押原横町とは町内が違って居るからと思召しては間違います、そりゃア町内は違って居りやんすが、押原横町の者も佐久間町を通る事もありやんすし、又神田の者も押原横町を通る事もあって、天地の間の往来で世界の人の歩くための道かと私 考えます、江戸中の人ばかりじゃねえ、遠国近在の人も通るから石 敷いてあれば往来の人がどのくらい助かるか知んねえ、又此処な家 から毎日彼処 へ炭を送る時出方のものを五十人として、日に十足の草鞋を切るとした所が大 い事だ、一足を十二文と積っても千足万足となれば何程になるか知んねえから、それよりは石を敷き詰めて置くと余程 得でがんす、私 聞いて見たら百年は受合って保 つといいやんした、極 堅い幅広 の長い石が一枚五匁 だというから、十枚では五十匁 、百枚で五百匁 だから、四百枚で二貫匁 是だけも敷けば百年ぐれえは持って、草鞋の切れることもなく貴方 のお得にもなり、天下の人が歩く度 にどの位助かるか知んねえから、世界の人のために石を敷きやんすので、決して四谷の押原横町と見て敷くのじゃアねえ、矢張 お宅の前 へ敷く心で居りやんす」善「成程恐れいりました、感服だのう和平どん ( ※和平は番頭 ) 」
和「うっかり口出しは出来ませんなア、此の間の藁草履の勘定で驚きましたよ、こりゃア事に
依 ったら得がついて返る事があるかも知れません」善「二十両出して石を敷くのは
宜 いが、お組屋敷で彼是いやアしないか」多「それも
私 が心配 だから、彼処 の手前の横町に石屋がありやすから、石を敷いて咎められやしねえかと聞いたら、傍にお箪笥町の鳶頭 が立って居やんして、いうには、己がお組へ往って届けて呉れようと、親切に石屋の親方と私 と三人で一緒にめえり、お組屋敷のお頭 に届けやんしたら、お頭も段々次第 を聞き、大きに感心なことだ、往来の者の仕合 で、決して咎めねえから早々 と敷くが宜 いと、実はお組のお頭も得心なせえやした事です」善「早いのう、感心だ、そんなら早速金を持って
往 くがよい」
江戸の人は、こんな人情噺が好物でしょう。
しかし『塩原多助一代記』は、そんなサクセスストーリーだけではない。
悪者が沢山出て来て、多助を何回も貶めます。
前半の多助の人生は、それはそれは艱難辛苦でございます。
そんな江戸っ子の面白がりそうな噺を、円朝が語るんだから評判は間違いない。
読んでいても「次はどうなるの?」「えっまたアイツが悪さをしかけた」と、ハラハラドキドキ。
面白い噺だが、こんな偶然あるかいなと思うことがある
読んでいて、こんな偶然あるかしらと思うことが沢山あります。
紛らわしいのが人間関係と名前で、多助の実父と養父は同姓同名です。
多助の父は、浪人で後に仕官を果たす塩原角右衛門。
養父は、百姓で 塩原角右衛門。
一緒に登場する場面は「塩原角右衛門」「百姓角右衛門」となっている ( ´艸`)
もうひとつヤヤコシイ人間関係は、
多助の叔母のおかめが、養父角右衛門の後添えとなったので、養母になります。
おかめの一人娘-おゑいは従妹ですけど、養父角右衛門の遺言で結婚させられて、多助の妻になる。
更に、因縁が多すぎる。
こんな確立はあり得ないだろうというのが、養父角右衛門の活躍ぶり。
沼田の養父角右衛門は、伊勢崎を旅してる時に悪漢に襲われているおかめを助けて家に連れて帰ります。
←多助の実父の塩原角右衛門の妻の妹であるおかめを助けるというのも偶然すぎる。
その12年後、沼田の養父角右衛門は、江戸に出て来た折大火にあい、おかめの娘-おゑいを助けて家に連れて帰ります。
←江戸に出できたタイミングで助けた相手が後添えの娘だっていうのも凄すぎる。
悪人はどこまでも悪人たるところも凄い
江戸の痛快噺には、主役が苦労するということが必要なのでしょうか、悪役が一杯でてきます。
主な悪役は、おかめ・おゑい。原丹治・丹三郎。おかく・小平・仁助。
多助を苛め抜くおかめとおゑいは、実の叔母と従妹です。
最初は健気な女たちで可哀そうな身の上とばかり思っていた2人ですが、途中から豹変します。
この絵は、多助が義母おかめから折檻されてるところ。
百姓五八は亡くなった義父 ( 塩原角右ェ門 ) の代からの手代で、この家での唯一の多助の味方。
五八はおかめを止めようとしてますが、それを後ろから押さえてるのが、おゑい。
修羅場です!
なんでおかめ・おゑいが多助を虐めるかというと、色狂いだから。
おかめは原丹治と密通。おゑいは丹治の息子-丹三郎と密通。
だから多助が邪魔なのです。
女に折檻されてるなんて、多助も情けないですが、彼女らは本気で殺しにかかります。
殺しを引き受けたのが間男の原丹治・丹三郎。
沼田から帰ってきた多助を山中で殺そうと計画する。
が、動物の感って凄いもので、愛馬-青は待ち伏せ場所の手前で動かなくなります。
そこに偶然通りがかったのが多助の友達-円次郎でした。
円次郎が代わりに曳くと、青が動き出す。
多助は円次郎の荷物を徒歩で。円次郎は多助の代わりに青を曳いて山越えをします。
もう、わかりますよね、
友達の円次郎は、待ち伏せしていた原親子に間違って殺されてしまうのです。
妻の密通に気づいていても、養父角右衛門の遺言だからと、ずっと耐え続けてきた手助でしたが、
とうとう出奔を決意。
命さえあれば、いずれ家を再建することは出来る、養父角右衛門の家を ( とりあえず ) 離れ、江戸に出て働いてお金を貯めたら、故郷にもどろうと心に決めます。
この絵が、愛馬-青との別れのシーン。
青の鞍に金をくくり、家に戻そうとします。
自分は稼いだ金の中からほんの少々持って江戸に行こうとする。
青は涙を流して、帰ろうとしないという感動的なシーン。
そんな多助にまたもや災難が。
ずっと塩原家に悪さをしてきた小平たちに身ぐるみはがれ、一文無しなります。
多助、弱すぎ~
この小平の登場シーンも因縁深すぎでして、
叔母-おかめを騙して、おゑいをかどわかしたのも、おかく・小平だし、
江戸に向かう多助を襲ったのも小平だし、
その後、何回も塩原家に悪さをし続けるのです。
「またお前か」と思うんですが、読んでいるとハラハラドキドキの方が面白くて
気にならなくなるのは何故なんだろう。
「もう駄目だー」
お金もなく、実の両親にも会えず、身投げをしようと思ったところを山口屋に救われて後は、
《江戸の多助、頑張る》のいい話が続く。
ところが、国ではまだ揉めとります。
多助がいなくなったのをいいことに、娘の結婚式を画策するおかめだが、
分家の太左衛門が乗り込み待ったをかける。
婚礼の場は大さわぎ。
丹三郎が太左衛門に切りかかる。
青が暴れて丹三郎とおゑいをかみ殺す。
農民が名主を殺害。
丹治とおかめは家に火をつけて脱出。
江戸の人情噺というのは、切ったはった、裏切り、怨念という大騒動がなければ盛り上がらぬのか、とにかく派手です。
挿絵を並べても、いつも誰かと誰かがもめている。
そこが面白いんです。
どんどん読めちゃう。歌舞伎になったのも、講談になったのもわかります。
塩原多助一代記は、冷静に読めば偶然が多すぎるけれど、こういうのもアリかも知れません。
ああ、面白かった!
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