都立図書館の調べもので もうひとつ。すこし分かったことがありました。
「松濤ホテル ( USA Armed forces rest Hotel ) 」のことです。
去年6月に、デヴィ夫人が住んでいるという神山町の話から、火災保険特殊図の話題に転じ、昭和31年の火保図 ( 火災保険特殊図 ) を見ていただいたことがありましたが、
その時に書かれていたのが松濤ホテルでした。
松濤ホテル
鍋島邸の跡地が「松濤ホテル ( USA Armed forces rest Hotel ) 」となっていた件は、
ずっと調べていたけれどネットで情報を得られませんでした。
その件が少しばかり進展したのは、都立図書館の司書さんのお蔭です。
司書さんは、GHQ・接収・占領軍・進駐軍・ホテルなどなど、考えられるワードを検索して、何冊かの本を選び出してくれました。
その中の一冊がこれです。
「図説 占領下の東京 1945~1952」 著:佐藤洋一
渋谷区松濤町26
71st Sig Serv Bn Off Club
日本語名称 鍋島士官クラブ
昭和27年12月8日返還
現状は松濤中学校、住宅。
FAC.no.3555←外務省告示文書にて示された施設番号。
佐藤洋一著『図説 占領下の東京』p.134 東京部区部の占領軍接収リストより
話を整理すると、
戦前、鍋島邸宅だった敷地は、
敗戦後、接収され「鍋島士官クラブ ( 71st Sig Serv Bn Off Club ) 」となった。
昭和27年に返還され、昭和31年火保図作成時までは、
「松濤ホテル ( USA Armed forces rest Hotel ) 」という名称だった。
跡地は現在松濤中学校と住宅になっている。
まだまだこれしかわかりません。
松濤ホテルや、鍋島士官クラブの様子や状況は、まだ謎のまま。
他の大きな施設のように書籍になっていればいいけれど、まだ見つかっていない段階です。
「71st Sig Serv Bn Off Club」という名称は、
福島鋳郎:著「G.H.Q.東京占領地図」にもありました。
地図の拡大です。
渋谷区の中心部の、黒く塗られた建物に番号がふられている。
それら全ては接収された個人宅です。
特に密集しているところを丸で囲みましたが、
右上のワシントンハイツは、現在東京・代々木公園で、有名な施設。
マッカーサー元帥の後任、リジウェイ大将の住いとして接収された前田邸も左下にあります。
その右横に、ありましたありました!
71st Sig Serv Bn Off Club
現段階では、ここまでしかわかりませんが、占領された建物がこんなにあったことに驚きました。
帝国ホテル、東京會舘、第一生命ビルを初めとした多くの西洋建築以外にも、
沢山の個人洋館が、嫌も応もなく接収されていたのです。
このことがよくわかる資料がありました。
渋谷区大山町会発行の「渋谷区 大山町誌」です。
この本は、凄い。
東京の 渋谷の 大山町という
《いち町内会》で作られた町内誌のレベルを超えたプロの出来栄えです。
自分の住む町に対する情愛と親しみとプライドと、、、様々な思いがつまった資料です。
特筆すべきは、その内容が近隣地域や渋谷区全体にもわたる内容に満ち満ちていることです。
とても読み応えのある本でした。
その中に、戦後の接収に関する記事もありました。
わが大山町は被害を受けたものの、焼け野原にならずに済んだわけですが、実は幸いにして焼けなかったのではなく、意図的に焼かれなかったことが終戦後すぐに明らかになりました。
p.38
これに関する町内在住の方の話も驚くものでした。
戦後すぐ接収の通知が来て、父はG.H.Q.に乗り込んで直談判に及びました。
そのためか接収は家屋の半分で済んだのですが、その時、向こうから『軍の宿舎用に、大山町・松濤町など洋館の多い地域は焼かないで残した。前から決まっていたので変更はできない』といわれ家屋に番号のついた地図を見せられた、と話しておりました。
P.40
この方の父上が見せられたと思われる地図が、件の『G.H.Q.東京占領図』とのこと。
先の地図です。
第二次世界大戦末期のアメリカ軍の戦略爆撃は、日本の地理や建物を知り尽くした投下であったという話は、前にも聞いたことがありますが、
※ 聖路加病院の施設を使用するためとか、神保町の古書店街の日本の資料を守る為といった話
終戦後の進駐の宿泊施設まで考えて計画されていたとは驚愕でした。
何気に出発した「松濤ホテル」というキーワードから、G.H.Qの話や渋谷区の歴史と、
次々に興味が膨らんで、あと何冊か関連の資料を読んでみたいと思いますが、
もう本当に時間が足りない!
ほんとうにこまったものです