Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

宇都宮稲荷神社

 

宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱ともつなの祖先藤原通兼関白の曽孫宗円が、日光山宇都宮神社の別当職にあったため、当地にその分霊を勧請し、稲荷神社を建てたと云われています。
神社の前には辻子幕府跡の石碑がたっており、その敷地の広さは東西、南北とも約200mだったと推定されています。

嘉禄元年 ( 1225年8月16日 ) 、北条政子が亡くなり、源氏三代の政権が終わると、北条泰時は北条政権の確立を図り、この地に新しい御所を移転しました。北条泰時は、この御所で新将軍・藤原頼経の元服式を行い、武家の初の法律、御成敗式目を制定しました。しかし、この新御所では権力闘争に伴う陰謀術数が渦巻き、嘉禎2年(1236年)、僅か12年で若宮大路に幕府は移転しています。

 

 

〈辻子〉について 

辻子ずしとは大路を結ぶ小道の意味で、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ小路です。

 

鎌倉幕府は初め大蔵に在りしが嘉禄元年政子死してより、これを他に遷さんとの議起こりのち、時房 泰時ら巡検評議の末 同年十一月この地に造営。十二月将軍藤原頼経ここに移り住す。その後 嘉禎二年 頼経再びこれを若宮大路に遷せるまで天下の政令のここに出づるものすべて十二年なり

大正10年3月建之    鎌倉町青年会

 

石碑の隣にある宇都宮稲荷は、かつて御所内にあったと伝えられており、北条泰時の屋敷もこの御所の北側に隣接してかまえられていたと思われます。 

 

〈宇都宮〉について

宇都宮の名称は、治承4年 ( 1180年 ) 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、評定衆に列する重臣のご家人であった宇都宮朝綱ともつながこの地に屋敷を構えたことにちなんでいます。宇都宮の姓は、藤原通兼 ( 藤原道長の兄 ) の直系で、末孫宗綱が宇都宮の姓を名乗ったことに始まりました。

宇都宮朝綱の孫頼綱よりつなは、北條時政の女婿でしたが時政の娘政子 ( 頼朝の正室 ) と弟義時と時政の確執により鎌倉を追われることとなったと伝えられています。

ちなみに、宇都宮一族の先祖は藤原鎌足であり、下野国 ( 現在の栃木県 ) の豪族という名だたる宗教家で、また「鎌倉歌壇」とは違う京風の歌壇である「宇都宮歌壇」を有して、多士済々の人物を輩出していると云われています。

 

宇都宮稲荷神社への歩き方

鎌倉駅東口を背に直進すると、若宮大路に出ます。

若宮大路を左 ( 鶴岡八幡宮方向 ) に進むと、二の鳥居があるので真ん中の段葛を歩きます。

100mほど進むと、右手に鎌倉彫会館とカトリック雪の下教会があります。

その間を入り、突き当たった所に《宇都宮稲荷神社》があります。 

 

写真は、下の図の角度から撮影したものです。

 

 

① 段葛に宇都宮辻幕府跡 宇都宮稲荷神社という看板がある 

 

② 左が鎌倉彫会館

 

③ 宇都宮稲荷が見えてきた

 

④ 正面

 

⑤ 通り過ぎて横から見たところ

 

⑥ 後ろから見ると敷地が丸くなっていました