当Blogの画像はクリックすると大きくなります。
母の容体も落ちついたので東京に帰ります。
上田から東京までは、上信越道と関越を使って帰るんだけど、富岡を通るので「富岡製糸場」を見学していこうかな。
13:38 製糸場近くの駐車場はすんなり入れたので、テクテク商店街を歩きます。
商店街には「工女さんたちが愛した○○」というフレーズで色んなものが並んでる。
いい建物なのに、瓦が落ちてる。
隕石でも落ちたか?
そういえば、何も食べてなかった。。。
空腹に食べ物の看板は目に毒。
これが門か。
レンガの壁とポストがいい感じ。
入場料500円也
富岡製糸場には、ボランティア解説員によるガイドツァーがあるらしい。
集合場所は、この先のレンガ造りの建物のドーム付近。
15分おきに出発するそうです。
この下で待ってればいいのね。
レンガに瓦、面白い。
ボランティア解説員がいらして、ちらほら人が集まり出した。
解説、はじまり、はじまり。
・・・・ 耳に入ってこない。
一生懸命説明されてるんだけど、この方の声は頭に入ってこない。
15分すると次のクルーがあるから、展示室を一回りして時間をつぶすか。
ドームを入った右手に、展示室と売店がありました。
ここは回遊式の展示室になっているから、ひとまわり。
富岡製糸場は、明治5 ( 1872 ) 年に、明治政府が日本の近代化のために最初に設置した模範機械製糸場。
日本は生糸が最大の売りだったから、品質の高い生糸を沢山作るために技術革新が必要だと思ったのね。
渋沢栄一さんは、ご自身の実家も養蚕に関係していたはず。
ナショナリストだったと聞いていたけど、「自国の産業を強固にする為には、まず外国から学ぶ」という精神で、
フランス人の力を借りることにしたということか。
政府 ( 伊藤博文や渋沢栄一ら ) の要請でやってきたのがポール・ブリューナ (Paul Brunat) 。
まず彼が行ったのは、武蔵・上野・信濃の地域を調査して、“ どこに製糸場を作ればいいか ” から考えた。
富岡が選ばれたのは、養蚕が盛んで、広い土地が確保できて、
近く ( 高崎・吉井 ) で燃料の石炭が採れることが理由。
地元の同意が得られるというのも大きかったようです。
建築資材の調達はほとんど県内からだった。
当時は、レンガ職人なんかいなかったから、瓦職人が焼いたんだって。
そういえば。。。
さっき見たドーム入口の瓦。そういう意味もあったのかな。
【フランス人が生血を飲む】
明治5年、工女募集が行われたけど「フランス人が工女の生血を採って飲む」という噂が流れて思うように人が集まらなかった。初代場長の尾高さんは自分の娘さん ( 尾高勇14歳 ) を率先して入場させた。
労働条件も当時としては画期的
勤務時間:年平均一日7時間45分 休日:日曜日 (七曜制の導入 ) ほか、暑休や年末年始 給料:能率給。月給制で当初は4等級だったが後に8等級に細分化。 一等工女 1円75銭、二等工女 1円50銭、 三等工女 1円、等外工女 75銭 福利厚生:宿舎が用意され食事は支給。毎日入浴できる。 場内の診察所で治療が受けられ、診察料および薬代は工場が負担。 在勤期間:一年以上三年まで希望通りとする |
富岡日記
和田 ( 横田 ) 英さんも、工女が集まらなかったため、各府県に人数の割当てで集められた士族の子女のひとり。
この『富岡日記』は、英さんが当時の富岡製糸場での回想録として書いたもの。
【手触りの違いを感じてみようのコーナー】
「生糸」からアルカリ性の薬品で精錬してタンパク質 (セシリン) を取り除いたのが「絹糸」。
比べてみると、「生糸」が大人のにゃんこの毛なら、
「絹糸」はお乳を飲んでいる頃の仔猫のぽやぽやっとした肌触り。
繰り糸作業の実演
中国から取材に来た人達。
真剣。食い入るように見学。
さて。
15分後のツアーをもう一回パスして、この方のグループに参加することに。このおじさま、声も顔も話し方も、NHKの面白ゼミナールをやっていた鈴木健二さんにそっくり。
繰糸場
内部は、どこまでも長く、機会が並んでいて…
こんな説明書きがついている。
けど、あん/まり。。。よく、わかんない。
こちらは首長館といって、ブリューナさんの住居跡。
すっごい好待遇だったのね。
家族やメイドと暮らしたその建物は、一家族用としては望外のもの。
広さ320坪ある建物は木骨レンガ造で建てられ、高床で廻廊風のベランダを持つ風通しの良いつくり。
ブリューナさんが帰国した後は、工女の夜学校として利用されたそうです。
ブリューナさんを始めとするフランス人は、明治8年 (1875)の契約満了をもって、全ていなくなり、
その後は日本人のみが運営するようになった。
その後は学校として使われた為、内部は改築され、住居の面影はない。
片倉診察所という看板が。。
当時の病室は、畳敷きだったそうです。
富岡製糸場は立ち入り出来る場所が限られています。
あそこに見えるのは女工の官舎だったそうですが、見学不可。
2階から伸びる鉄の棒みたいなのは、階段ではなくて、滑り台だったんだって。
ガイドツァーはここで終了。
40分くらいでした。
解説してくださったオジサマは、顔出しOKとのことでお名前も言っておられたけど、
失念しました。解説、ありがとうごづいました。
柵の向こうは崖になっていて、その下を鏑川 ( かぶらかわ ) という川が流れてます。
日当たりが良くて風通しがいいのは、この立地だからかしらね。
実は、富岡製糸場については、今回初めて書きました。
昨年行った時は、まだ「世界遺産」に登録される前だったので、
お客さんも少なくて、ガイドツァーも予約券なしでゆっくり見学できました。
どこかに行くと、いつもはすぐに駄日記に書くくせに、
富岡製糸場だけは、何故か書く気にならずにお蔵入りに。。。
気が乗らなかったのね。
一年経って、どうしてなんだろうか考えたんだけど、
なんだか妙に、お化粧している感じがしたから。
ワタシが感じただけで、本当のところはわかりません。
でも本当に工女哀史は無かったのかな。
「あゝ野麦峠」じゃないけど、当時の工場は劣悪な環境が多かったと聞きますが、
唯一富岡製糸場だけは、そうではないと言われてます。
工女の待遇についても、給金がどうとか、診療所は無料とか、労働時間がどうのとかね。
富岡日記も、やたら嬉しい、楽しいという文章が目立ち、かえって気になりました。
和田さんも、尾高勇さんも、一般の工女が集まらないので広告塔の形で召集された士族の子女。彼女たちの書いたものだけを読んで、他の製糸場のような工女哀史が無いと果たしていい切れるのだろうか。
最近、佐多稲子さんの「キャラメル工場から」や、島木健作さんの「満州紀行」を読んだばかりなので、余計にそう思ってしまったようです。
官や経営母体倚りの立場の人間によって書かれた史料だけで判断することの怖さや愚かしさを、前述の本で考えさせられた後だけに気になってしまいました。
世界遺産にもなった富岡製糸場にケチをつけるつもりではないけれど、
昨年帰宅してすぐに駄日記に記す気になれなかったワケが、
こんなところにあるような気がしてなりません。
富岡製糸場の高環境が、ブリューナ氏や、フランス人医師たちがいた最初の4年間だけでなく、その後の原時代・片倉時代等民間経営にも生かされていたのかどうか、その点を調べてみたくなりました。