里見弴『大火』を読了。
いつものように古書でです。
手持ちの本の中でもかなり状態が悪い部類ながら、旧かなの方がやはり好きなんです。
「大火」は、吉原の大火に見舞われる人々の話。
主人公の花魁-今紫と、彼女の元に通う客が大火で右往左往する様が、暖かくも小気味の良い筆で、コミカルに語られています。今紫の客に日本橋の箪笥屋の隠居と、三十三になる法家大学生がいて、それぞれ火事に巻き込まれるんですが2人の対比が面白い。
ご隠居の方は、避難した先で皆が落ち着いたほどよきところで「花魁がたにお辯當でもと思ふんだが、
お前いゝやうにしておくれ」と言って十圓札を三枚握らせて帰っていきます。
一方 大学生の三郎は、花魁の荷物を運び出したり、やぐらに登って火事見物をしたり興奮冷めやらない。
この辺が若さというものですかね。三郎の心境が面白く描かれているのがこの部分。
若者も大勢女ばかりのなかへはいって行くのは、だいぶ気がひけたが、そのまま帰ってしまうのも惜しいような気持だった。
この、吉原史にも永く残るべき大火の、目撃者である以上に、謂はば渦中の人物である自分の立場が惜しまれた。
そこを出て、電車の方へ歩いて行く時には、もうなみの野次馬の帰るのと同じことになる。
もっといつまでも、この大事件の関係者でいたかった。
主人公と親しくしている染之助という妓も、魅力的。
ちょっとでも髪へ触れた手は、必ずシャボンでよく洗ってからでなければ、なんにも出来ないほどの潔癖をもちながら、年じゅう裾から襤褸 ( ぼろ ) のさがった部屋着で廊下を掃いて歩いている矛盾が、そのままこの妓の心持であった。
客あしらいがイケゾンザイで、ウハウハと道化とおしで、いつも下から二三枚目より上へはあがったことのないグウタラで、どこへでもジャジャバリ出るというような特徴の、ついそのひと皮裡 ( うち ) には、恰度正反対の美しい性分が、いくら自分で誤魔化しても隠し切れずに、磨滅しずにあった。
この妓にとって、親切や真面目や勝気や潔癖などの徳性は、我ながら業腹 ( ごうはら ) でならなかった。どうぞして自分がその反対のものでありたいと希 ( ねが ) はれるのだった。
それには種々の原因もあったが、最も可愛らしい一つは、己の性分を己の容貌と一致させ、調子を揃えさせようという不思議な気持ちだった。
彼女は、成程美人という相からはだいぶ隔たってはいたが、決して不愉快な容貌ではないのに、自分でそれを全く棄てて顧みなかった。
醜女 ( ぶおんな ) のイヤにめかし込んだのが見ていられない潔癖から、自分の美しい性分をすら、顔つきに不似合いは他所着物 ( よそゆき ) かなぞのように、無用以上、邪魔もの扱いしているらしかった。
里見弴の人物描写は、いつ読んでも感心します。ずっと浸っていたい。。。