幸田文「おとうと」を読了しました。
父君-幸田露伴の文章が好きで、幸田文の作品も楽しみにしていたんです。
すごい。
父ゆずりの表現力に、たおやかで清々しい響きの言葉が宝石のようにちりばめられています。
それでいて嫌らしいところがひとつもない。
男性的でさっぱりしたテンポは、向田邦子さんと同じ匂いを感じます。
内容は、父親と継母と弟と自分の実生活を描いたもの。
リューマチを患い、家のことが出来ない継母に代わり、家事一切を背負わされた主人公 ---げん ( 文 ) の生活が克明に描かれています。
げんは、継母に反抗する三つ下の弟を愛おしく思い、母親代わりを努めます。
弟の碧郎は、継母への反抗心から次第と不良の道に進み、あげく、結核になってしまいます。
そんな碧郎の看病は、全てげんの肩にかかります。
父親は経済面を支えるための仕事をせねばならず、持病を持つ継母は役に立たないからでした。
弟に注がれた父親の愛情に不公平感を抱き、何もしてくれない継母へのいらだちを感じながら、十七歳から二十二歳で、弟が亡くなる年までのげんの日常は不憫なものでした。
本作では、実在の幸田家の様子がつまびらかに描かれています。
父親と後妻が不和であること。
リューマチを患う継母が家事一切を娘にまかせっきりにしていること。
弟が結核で亡くなってしまったこと、などなど。
作者の怒りは、特に継母にむけられます。
継母にあんなことを言われた、こんなことをされたと一部始終を活字にしていくのです、容赦なく。
とぎ澄まされた刀でスパッと切るような彼女の筆の切れ味は、相手に傷みを感じるすきさえ与えません。
ただしかし。
切りつけておいて、ちょっとばかりいい子ぶった言葉を付け加えるのは、いささか歯切れを悪くする。
どうしていいかわからないと悲しげに云われて、げんはふわっと母の悲嘆のなかへ惹きいれられた。母とやりあうとき、いつでもげんは母を疎ましく憎らしく思う感情と、気の毒に申し訳なく思う感情と、相反する二つの感情の両方へあちこち引っ張りまわされて、しまいにはもうどうでもいいから、とにかく早くその場が済むようにと思うのである。
有名な文豪の一家の、内輪もめ。
継母の非道に、息子の死の病に、行き遅れてしまった娘の哀話となれば、
もっていきようによって、この上ないスキャンダラスな物語にもなりかねず。
映画としては恰好の題材なのかも知れません。
小説「おとうと」は、2度の映画化、4度のドラマ化がされているようです。
レンタルDVDは、市川崑監督作品1960年、岸恵子( げん )、川口浩( 碧郎 ) 版。
VHS 1990年 斉藤由貴( げん )、木村拓哉 ( 碧郎 ) 版は、
ちょっと興味を惹かれ、観たいような気もします。
しかし、やはり小説の中でなければ味わえないものがあり、
映画では描ききれないようにも思うお話でした。
ウィキペディアには、以下のような記述がありました。
生活技術の教育?
気になる記述でしたが、要するにリュウマチで家のことが出来ない継母に代わり、文が家事をするようになったという意。しかもその教育は露伴によってされたということのようですね。
上記を読んで、露伴の「野道」の中にこんな文章があるのを思い出しました。
友だちと野道歩きをすることになった露伴は、かの物を作ることにします。
かの物とは、杉の赤身の屋根板に、ありあわせの味噌を塗り、火鉢の上にかざし、焼き味噌を作ること。同じようなものを二枚出来たところで、味噌の方を腹合わせにして紙にくるみ持っていく。何に使うかというと、野道で採った蒲公英や、蕗の芽に味噌をつけて味わうんです。
本文には、露伴がかの物を作る場面で、こんな記述があります。
露伴が「野道」を執筆したのは昭和三年五月のこと。
内容が執筆の直近とは言えませんが、「覚えておけ」と言った相手に文がいないのは、
文が嫁いだ後の話ではないでしょうか。
※ 昭和元年、長男・成豊が結核で死去。昭和三年に文が嫁ぐ。
そして、文が露伴から「生活技術の教育を受けた」というのは、こういう事柄であったのではないかと想像され、印象深く思ったのです。