ちくま日本文学全集で内田百閒の小説を数篇読みました。
・・・というよりも、読み直しました。すごく気になって。
昨日、鈴木清純順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」を見て、ところどころ話の筋とは違う、いくつかのシュールなエピソードが不思議にとんがって目立つのが気になって。。。。
最初は、鈴木清順さん独自の発想かと思ったのですが、
ちょっと前に「あれ~この話最近読んだな」と気がついたんです。
さてその辺りは、後ほどお話しするとして、
先に、ちくま日本文学全集版「内田百閒」のことをお話ししたいと思います。
ちくま日本文学全集「内田百閒」には奇奇怪怪な短編が沢山納められてしました。
例えば、花火・冥土・山高帽氏・道連・短夜、、、、
もちろん「サラサーテの盤」も入っているんですが、本の中にはある共通点がありました。
神経衰弱気味の男の悶々とした夢が書き起こされたような作品が多いのと、
「土手」が沢山出て来ることなんです。
主人公が土手で遭遇するのは、狐だったり、顔色の悪い女や、生まれてこなかった兄、冥土を渡った父だったりする。
そして最後は「喉がつまったようで声が出せなかった」り、
「足が重くなり一歩も歩けなかった」という悪夢で終わるんですね。
本当に夢見の悪い話の数々。
読んでいると、その「ぼっけえ、きょうてえ世界観」に身を置いているのが段段楽しくなってくる。
何時の間にか内田文学の虜になってしまいました。
特に、初期の短編集がいい。
そうそう「ぼっけえ、きょうてえ」という言葉をご存知ですか?
「ぼっけえ、きょうてえ」
岩井志摩子さんの短編小説のタイトルでもあり、一度聞いたら忘れられないインパクトのあるこの言葉、岡山弁で「とっても怖い」という意味なんですって。
内田百閒さんの短編集を読んだ時に、まずこの言葉が思い出されました。
もちろん百閒さんのお話は「すっげー怖い」ということではなく、
「もどかしいような、ぞわぞわするような怖さ」ですけど、
舞台はやはり、関東でも北陸でもなく瀬戸内の、そう岡山だと思うんです。
「ツィゴイネルワイゼン」に盲目の旅芸人の一家が出てきますが、芸人たちが旅まわりをするのも、私のイメージでは四国、中国地方なんです。
本当はこの橋も、四万十川の沈下橋が似合う気がする。
まあ、完全な沈下橋 ( 欄干無 ) じゃ、盲目の旅芸人はおっこちそうだけど。
鈴木清順監督は、物語の舞台を鎌倉にしました。
それはそれで絵になるし、個人的には大好きな鎌倉のウハウハする光景で嬉しいけれど。
中砂が放浪するのは、やっぱり岡山あたりが似合う気がします。
映画「ツィゴイネルワイゼン」の原作が、内田百閒の「サラサーテの盤」であることはまぎれもないですが、映画のクレジットにサラサーテと書いてないんです。
「サラサーテの盤」は確かに短編。
清順さんが、サラサーテをインスパイヤして映画を作ったからという理由かと思いましたが、こんなことだったんじゃないかと気がつきました。
映画に引用したのは
「サラサーテの盤」だけではなかった
清順さんが引用したのはサラサーテだけではなく、他の短編のいくつかからイメージを、そればかりではない、具体的なセリフも沢山使っているから、あえて原作を「サラサーテの盤」と限定しなかったのではないかと思うのです。
引用したのは、例えばこんなもの。
青字が、百閒さんの小説にある実際の文章です。
《青地の妻 ( 大楠道代 ) の妹のうわごとのシーン》
細君の妹が死にかけた時、その病院の前の蕎麦屋の二階で、私と細君とが話をした。ひとりでに声が小さくなって、ひそひそ話になった。
「どうして、昨夜はあんな事を云ったのでしょう」
「どんな事を云った」
「聞いていらしたのではないんですか。
お台所の戸棚に鱈の子があるから、兄さんに上げて下さいって」
「兄さんって己の事かい」
「そうらしいんですの、そう云ったきり又寝てしまったから、よく解らないんですけれど、中野の兄の事ではないと思いますわ。だけど、うちに鱈の子なんかあったか知ら」
「有るじゃないか」
私がそう云ったら、細君が私の顔を見た。それよりも、私自身が、云った後で吃驚した。鱈の子があるかないか知りもしないで、うっかりそんな事を云ってしまった。
(中略)
細君は、片手でそろそろ丼を重ねていた。
「十九で死んでは可哀想だな」
「でも事によると、もう一度は持ち直すか知れないと云う気もしますわ」
「何故」
「何故って」
「駄目だよ」
私は真蒼になって細君の顔を見た。それと同時に、細君の「あれ」と云う声が、引く息で聞こえた。
そうして丼が二つに破 ( わ ) れていた。
「駄目だよ」と云ったのは、私ではなかったのだ。
《中砂の細君 ( 大谷直子 ) が青地を迎えに来て、家にさそうシーン》
男が土手を歩いている。片側が広い海、もう片側が浅い入り江。入り江の方にはひょろひょろと高い蘆 ( あし ) が生えている。しばらく歩いていると紫の袴をはいた顔色の悪い女が近づいてきて、丁寧にお辞儀をする。見たこともあるような顔だなと思うが思い出せない。黙ってお辞儀をする。
女はご一緒にまいりましょうと云って、並んで歩き出す。
入り江の蘆の上に、大きな花火が幾つもあがる。
「あの辺りはもう日が暮れているので御座います。早く参りましょう。土手の上で夜になると困りますから」
女について土手から入り江側の浅瀬におりる。歩いている内に、長い廊下の入口に出た。女の案内でそこに入った。女と土手で別れておけばよかったと思いながら。
《中砂の家での幻影》
「以前、夜道で狐に騙されたことがあって」
私は狐のばける所を見届けようと思って、うちを出た。狭い横町を曲がり、そこを通り抜けて町裏の土手に上った。しばらくすると、向うの暗い藪の中から、大きな狐が一匹、のそのそと出て来た。そうして池の向うに、何時の間にか若い女が立っていた。
はっきりした縦縞の着物を着ているのが一番目についた。
女がかがんでその辺りの樹の葉や草の葉を掻き集めて、頻りに押し丸めていると思ったら、それが何時の間にか赤ん坊になってしまった。女は赤ん坊を抱いて土手の方へ行き出した。
《青地が中砂の細君と歩く内に見る花火の幻影》
幻影に出てくる人物は、青地と中砂が旅した先の旅芸人や仲居 ( 佐々木すみ江 ) や、鰻をさばく女 ( 樹木希林 ) だったりする。
ロケ地は、鎌倉八幡の太鼓橋か?
《青地の義妹の幻影》
いきなり枕に膝を貸していた芸妓が私の口ひげを引っ張って起こした。
「痛い」
「痛くないわよ、この位の事、まあ真赤な目をしてるわ」
「どれ、どれ」と云って、ちゃぶ台の向う側にいた芸妓がにじり寄って来て、私の膝の上に寄り、首に両手をかけて、舌で私の目玉を舐め回した。
《青地が来客に語る寝床の水の話》
そうして相変わらずよく眠る。いくら寝ても寝足りない。夜昼暇さえあれば寝床の中にもぐり込む。そうして中途で目がされると、枕許の水を飲んで又眠る。飲み下した冷たい水が、腹の中で暖かくなると同時に寝入ってしまう。水に催眠の力があるのではないかとさえ思う。
だから私の寝床には、いつでも家の者が気をつけて、お盆に水を載せて置いてくれる。その水が時時、私の飲まないうちになくなる事がある。夜中に目がされて、いつもの通り水を飲もうとすると、眠る前には一ぱいあったコップの中が、半分足らずになっている事がある。始めの内は寝惚けて自分の飲んだのを忘れるのだろうと思ったけれど、段段そうではないらしくなって来た。これから寝ようと思って寝床に行って見ると、枕許のコップに水がないから、家の者を呼んでそう云ったら、さっき一ぱいに注いで置いたと云った。そう云えば、コップの底がぬれていた。どう云うわけだか解らなかった。ある晩は、宵のうちから眠っていると、いきなり顔に水をかけらない様な気がして目がさめた。まだ下では家のものの話し声が聞こえていた。私は夢てはないかと思って、額を撫でて見たら、その手が濡れてたので、驚いて半身起こして辺りを見廻したけれど、何の事もなかった。
《中砂の細君にサラサーテの盤を返しに行った日のこと》
「もう、後戻りは出来ませんわ」
「あんたは誰だ。」
ほら、縦縞の着物を着ているのも同じでしょう?
「もう土手の蘆の原には火がついて、外には出られません。」こんな女の傍にいるのは恐ろしい。
「土手は浪にさらわれてしまいました。もう御帰りになる道は御座いません。」
そう云うと女は大きな声だ泣き始めた。私は身動きできない。助を呼ぼうと思っても、喉がつかえて声も出なかった。
鈴木清順さんは、映画を作るにあたって、内田作品の色々な短編を読んでいたのは確かだと思います。
偶然読んだちくま日本文学全集だけでも、これだけマッチするものがありました。
清順さんが読んだ底本は・・・・さて。
他にもあるかも知れないし、興味がさらに広がった夜でした。
※ 鈴木せいじゅんさんの字を『清純』と間違っていました。正しくは『清順』
斉魚 ( えつ ) 姉さん。ありがとうございました。