橋本の供養塔の一番左の「忠魂碑」について調べてみました。
題字の横にある、内山岩太郎氏は、神奈川県知事を21年なさっていた方でした。
今から70年前、官選で2年、続く知事選でも選出された方。
ということは、三基の供養塔はやはり、左のが一番新しいようです。
表忠碑 ( 真中 ) は、日露戦争の戦病没者を祀った碑だそうで、「表忠」は「忠義」を表す言葉でした。
「忠魂碑」も同じ意味合いですが、左のは、第二次世界大戦の戦没者を祀ったもの。
また右の古い供養塔は「享保21年( 1736年 ) に最初の供養塔が建てられた」という記録があるそうです。280年も前ですよ。
現在のは明治31年に建て直されたもの。
じゃ、なんで建てたかっていうと、昔むかーし、447年も前のお話です。
1569年10月の武田信玄と北条氏康が戦った三増合戦の落ち武者を供養したものでした。
ここで甲冑が発掘されたからみたい。
三増合戦は、1569年10月、信玄率いる2万の軍勢で小田原城を攻めることから始まりました。
しかし城から出てこない北条軍を見て小田原城攻略を断念。
甲斐 ( 現在の甲府 ) へと引き上げます。
その道中の三増峠 ( 愛川町 ) で八王子から来た北条氏照、氏邦隊と衝突した戦国有数の山岳戦。
そして、この戦いで双方たくさんの死傷者がでました。
その中の北条方の武士が滝山城への引き上げの途中、
橋本付近で道に迷い力尽き自刃したのが供養塔の辺りだと言われています。
当時の村人達は哀れに思いこれを手厚く供養したようです。
戦国時代にここで自刃した落ち武者がいて、それを村人が供養して、、、
後年、甲冑も発見されたから、キチンと供養塔を作ったんだね。
ここは橋本の一等地。
供養塔はちょっと横に寄せて何か建物でも建てたいところでしょうけれど、そうはいかない。
明治になり。じゃ、日露戦争の表忠碑も建立しようとなり。
昭和には。じゃ、第二次世界大戦の忠魂碑も建立、ということなのかと思います。
三つの戦争の供養の場ということになったというワケなんですね。
深いなぁ。
でもこの場所。
とっても清々しい気が流れていました。
いにしえの村人たちから、現在の住民までの供養のたまもので、
亡くなった人たちの魂も、成仏できたからではないかしら。
合掌。