Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

筒井康隆「残像に口紅を」

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「残像に口紅を」を読もうと思ったのは、

PCのキーボードが壊れてしまい、打てない字があって困ったという投稿をした時に、

 

 

わっとさんからこんなコメントを頂いたのがキッカケでした。

 

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「残像に口紅を」は、世界から音がひとつずつ消えていくというお話で、

わっとさんは、私がキーボードで打てない ( 使えない ) 字があることから、

この小説を思い出されたようです。

 

ほとんど忘れてました、昔、読んだ気もするんだけど。

じゃあ、もう一回ちゃんと思ったわけですの今回。

 

感想はやっぱり「うーん、実験的過ぎるなあ、この小説は」といった感じでした。

この作品は、佐治という人気作家が「世界から言葉がひとつずつ消えていったらどうなるか」という構想を立て小説を書き始める話なんですね。

筒井さんもこの作品自体を、消滅していく字を使わず書き進めていくんです。

 

面白い発想です。

でも、設定にちょっと無理があるところもある。

まず筒井さんは、この作品をすすめるにあたって、

主人公の佐治が「最近、超虚構ということを追求し始める」ということにしています。

つまり佐治が書く文章が、佐治をとりまく現実社会に影響をしていくわけです。

筒井さんは、佐治に「現実が虚構を模倣し始めたんだ」と言わせてるんですね。

なんのこっちゃか ww

とにかく、そういう設定で物語を進めていく。

すると、消えた言葉がつく物や人物が佐治の周りから消えていくんです。

例えば「ふ」という言葉が消滅すると、佐治の次女「ふみこ」がいなくなる。

「ぱ」という言葉が消滅すると、世界から「パン」が無くなり、

パン食だった佐治も、朝食でご飯を食べるようになる。

 

しかし筒井さん、こんな設定を考えついたんだけど、無理があるということにも気づいたようです。

佐治のよき理解者である津田にこんな質問をさせてます。

「どういう順にことばを消していくつもりか知らないけど、たとえば『心臓』ということばが消えた時に実際に心臓まで失われたんじゃ、登場人物としてのぼくや君は生きていけないことになってしまうぜ」

そうだそうだ。

すると佐治がこう言います。

「言い方が悪かったかな。君。これは虚構なんだということを忘れないでくれよ。

君は小説を書いている時、いちいち『彼は胸部左側に心臓をひとつ持っていて』などという人物紹介をやるかい。表現上どうしても必要になった時以外は、虚構内存在としての君やぼくには心臓は、または心臓ということばは不必要なんだ。『私の心臓はときめいた』と書かなければならなくなった時、はじめて君は自分の心臓がないことに気づいて死ぬなり消えるなりすればいいわけでさ。でも、そうした表現はほかのことばで簡単に代替えできる筈だよ」

 

うーん、どうなの? 苦し紛れにしか聞こえない ww

そんなこんなで作品は進んでいくんですが、1節ごとに「あ」が無くなり、「ぱ」が無くなりしていって、最後の方は残る字「い」と「か」と「が」と「た」と「ん」で文章が作られる。

そして、最後に残った字「ん」が無くなると物語は終わるのです。

 

で。

思いました。

これを書いた時、筒井さんは頻繁に使う字とあまり使われない字をリサーチしたのではないかしら。

自分で統計とったのかな。

いやぁ多分、編集者に自分の小説に「あ」が何文字、「か」は何文字使ってるかを、

数えてもらったんじゃないかなぁ。

 

しかし。それでも、残った字だけで小説を書き進められる筒井さんのボキャブラリーには感心せざるを得ません。

ちょっとすぐには思い出せないけど、色んな言葉を置きかえてしのいでいるのです。

「家」を存在させる為に、佐治は四苦八苦して「家」「自宅」と色々な呼び方で存続させたり。

消えては困るから建物も「大きな建物」「巨大なビル」と言ってビルの名前を思い出すことをやめてしまう。

 

うーん、やっぱり無理くりやん。

「こんなに字が減っても、おらぁ小説書けるぜ」みたいな筒井さんが言ってる気がしてきました(笑)

まあね、色んな意味で「すごいです」とは思いますが、

そうとしか言えないのも残念でもあり。。。という作品でした、私にとっては。

 

私はどちらかというと、人物像が描かれているのを読むのが好きだから、

この作品で面白かったのは、佐治の小説家としての生活が垣間見られた部分でした。

佐治は、妻と三人の娘が楽しく暮らす母屋とは別に、近くのマンションを買い書斎にしていまして、

仕事を一段落すると母屋に戻ってくるんですが、大抵は神戸市内の料亭だのレストランに家族五人で食事に行くんです。

佐治の奥さんは何かと理由をつけて外食したがるんです。

奥さんは食事の支度が辛いのでどこかで外食をしようと言いたいんだけれど、それを言うために、家事を怠けようとしているんじゃないという言いわけがながながと続くんです。

 

短気な佐治にとってはてっとり早く「何か食べにいきたい」と言ってくれた方が助かるのでイライラしてしまう。

「わかったわかった。もういい。食べに行くんだな」

でも奥さんの言い訳は続くの。

「お食事の支度するの、大変なんですよね。三人ともよく食べるでしょう。

 ご近所で、わたしほど毎日たくさん買い物をするひとはいないって評判なんですよ。

 なにしろ両手にどっさり」

 

「わかったわかった。もういい。で、どこに行く。『よしもと』か。

「わたしもうへとへと。くたびれ果てて。だから月に一度くらいはどこかへ食べにつれて行ってくださってもいいでしょう」

「月に一度ぐらい」はいつもの彼女の言い方で、たとえ月に三度ほど外食していてもそう言うのだ。

「いけないとは言ってないよ。そうか。娘ども、日本料理食べに行くのは嫌ってたな。

 やはり、すると、フランス料理か」

 

それでも奥さんのグズグズはまだ続く。

要するにねぎらいのことばがない限り話を進めぬという決意があるらしい。

 

なんだか、笑えます。

お金が沢山ある人気作家の妻か。

いいなぁと思う反面、たまには手料理作ってあげなよとツッコミたくなる奥さん像、

こういうシーンが楽しいのです。

 

もうひとつ、佐治が言葉をかなり失った中盤、講演で話をしなければならなくなるシーンが面白い。

年寄りでいくか、佐治はそう思いつく。年寄りの独白のみで一作書いた時、年寄りの話しことばの言い回しは多彩だなと思ったことを今、思い出したのだった。

特にことば尻が多様だった。

佐治は壇上にあがります。

「ただいま紹介していただいた佐治勝夫じゃが」

やりますな佐治さん、、、というか筒井さん。

こういう発想とセンスは流石、筒井さん。

やはり凄いものです。

 

それにしても「残像に口紅を」って、随分とシュールなタイトルだなあ。

とても複雑な作品なので、もう1~2回読んでみる必要がある作品かも知れません。

そうこれにとどまってもいられない気もするんですけどねぇ。(;'∀')