Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

大田区役所から堀之内を歩く

先日 ( 22日 ) 梅屋敷に行きまして。

趣味が高じて、帰りに図書館で沢山資料を借りてしまいました。

 

・・・借りたものは返さねばならぬ

そんなワケです。

資料を返しに大田区アゲインですの。

前回借りたのは、梅屋敷の近くにある図書館でしたが、

返却は、重いので蒲田駅前の図書館にさせてもらうことに。

 

その前に、図書館の隣にある大田区役所に飛び込みます。

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なんで大田区役所に来たかというと、

梅屋敷があまりに住みよさげなので転入・・・それは冗談だけど w

ここで、区発行の本が買えると聞いたからです。

購入以外にも、閲覧したり借りたりコピーも出来るっていうし。

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お目当ての部署は、二階にありました。

ここだ。

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閲覧テーブルは大きなのがひとつしかないけれど、

資料は写真を撮ってもいいし、コピーも出来るし、

「こんなのが見たい」と相談すれば、係の人がみつくろってくれる。

図書館の司書さんみたいだ。

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早速、係の方に「地図で見る大田区 (2)」と「史誌14」をリクエストしました。

先週、図書館で「地図で見る大田区」の(1)と「史誌13」を借りたので、

その続きがどうしても見たかったんです。

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的中 !!!

ありました、探していた興味深い資料が。

史誌14に、梅屋敷関連の資料「聖蹟蒲田梅屋敷公園余話」。

garadanikki.hatenablog.jp

大田区の広報課にいらした方が、焼失したとされる梅屋敷の御座所とそっくりなものが谷中の瑞輪寺さんに移築されていると聞き、真偽を確かめるために調査したレポなんです。

※ 上記「まるさんの資料置場」は、わたくし ( まるさん ) が個人的に作ったもので、

公開はしていないのですが、気になった記事や底本を書き写して放り込んでいる蔵です。

 

梅屋敷公園って、有名なようで結構 秘密のベールにつつまれた謎があるんです。

調べていて驚いたのは、梅屋敷についての情報が驚くほど少ないことでした。

 

ネットや区の資料の情報源や極めて少なく、出典先が同じだったりもしました。

 

明治天皇が愛された
  幕末の志士たちも集ったという梅屋敷が、、

 

明治から大正初期にかけての梅屋敷は、それはもう大繁盛だったというのに、

そのすたれようは無残なもの、聞くも涙語るも涙のお話でした。

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ベタな言い方をすれば「数奇な運命をたどった梅屋敷」みたいな話が、

ちょっと調べただけでも出てくるんです。

記録が少ない分、謎も一杯あるんですが興味が尽きません。

 

もうひとつ

地図でみる大田区 ( 2 ) を見たい理由は、けだまとりこさんに教えていただいた、

例の道識についてでした。

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銅板の道標があるくらいだから、原本が必ずやあるに相違ない。

そう思って探していたのです。

 

こちらもピンポーン。

ありました、ありましたよ、紙地図が。

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しかも、すごく鮮明で美しい。

 

分割してみました。

下の二枚はクリックすれば、かなり拡大できるから、見て見て見てーーー

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興味のない方には、こんな退屈な話はなかろうとは察しております。

でも無理なのあたし興奮してるから

本当に大田区役所に行って良かった。

この地図の解説として、とても興味深い話が沢山書かれていたからです。

大森堀之内は、現在の大森中3丁目の大半を占める。

本図は昭和53年に地元の橋本長十郎、野口市郎の両氏が作った大正初期の住居分布図を、同60年に落合五郎吉、茨田秀利の両氏が若干の改訂を行ったものである。

記載された人名は130を数えるが、ほとんどは通称の家名 ( 世襲名 ) である。

そうなのか、世襲名。。。

実は、最初に歩いた時には気がつかなかったけれど、

今でも地図と同じ場所に、同じ苗字の表札が多いんです。

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道標がある所も、大正時代と同じ「大塚さん」でしたし。 

 

本図に見える貴船神社三輪神社 ( 旧第六天社 ) 、天祖神社の3社が現在の三輪神社に統合されたのは大正4 ( 1915 ) 7月、その神殿が完成したのは同8年 ( 1919 ) といわれており、また、この地区の耕地整理を行った組合の設立は同11年 ( 1922 ) のことであるから本図は明らかに大正初年当時を復元した町並図ということになる。

そういうことなのか。

貴船神社も、天祖神社も見つからなかったのは、そういうワケだったんですね。

 

大田区の「地形分類図」(『地図でみる大田区 (1) 』所収 ) によると、堀之内全域は低平な多摩川デルタの中でも小高い自然堤防の突端に位置し、しかも呑川と陣川 ( 陣ヶ堀ともいい、大正期の堀幅6尺、土揚げ3尺 ) に挟まれている。まさしく要害の地であり、鎌倉時代に大森郷・永富郷を支配した大井氏の居館があった所ではないかと推定されている。

この話は、道標にも書かれていたので以前言及しましたが、

更に続いた こんな記述にも関心しました。

しかし興味ふかいのは、この陣川の流れの跡が今もって大森と蒲田の境界になっている点で、蒲田氏の勢力と対峙していた中世の名残を止めててるのかも知れない。

そうなの、地図を見て驚いたんです。

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上は、昭和初期の東京府荏原郡 大森町の地図です。

大森町の左側 ( 薄いえんじ色の部分 ) が蒲田村なんですが、村の境の形を見てください。

下の地図の太く黒い線の部分と同じでしょう?

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この太くて黒い線が、大井氏が居城の境になったのではないかという陣川 ( 陣ヶ堀 ) 。

地図って、こうやって見てみると面白いと思うんですよーーーーひとり興奮

 

解説は続きます。

本図の東側には「古街道」と呼ばれる2間幅の道がほぼ南北に通じている。これは東海道開通以前の幹線道路で、旧神戸橋で呑川を渡り、直線的に六郷の渡しへと続いていた。古い時代に拓かれた鎌倉への道と思われる。

この道、歩いてきました。

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道標から少し歩いた右にあったという「天祖神社」は、大正4年に三輪神社に統合され、今はないのは承知したんですが、祠の跡とかないものかと往生際が悪いのあたし。

 

ウロウロしていたら、おばあちゃまが天祖神社があったあたりの家から出てらした。

夕暮れ時。

こっちは地図を片手の不審者です。

目があったので、声をかけさしてもらいました。

「あのすみません。この辺りに昔、天祖神社があったという話なんで探していたんですが」

「ああ神社? ありますよ。この道じゃなくて、もっとあっちの方に大きいのが」

おばあちゃまがさすのは八幡神社のことだと思いました。

「八幡神社は先日お参りしたんですが、この辺にも昔、神社があったと聞いたので」

「そうですか、神社ねぇ。ここにはうーん、ないわねぇ。神社お探しなの? ご苦労さま」

「どうも、夜分に失礼しました」

不審者ではないということだけでも、わかってもらえれば良かった。

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考えてみれば、おばあちゃまがここで生まれ育ったという確率は低いわけで。

仮にここで生まれた人だとて、大正7年に生まれいるわけはないと後から気づいた次第。

明治・大正・昭和初期の話は、現地でちょこっと聞き込んだくらいでわかるわけものではありません。

古い話を調査したり、資料を保存してくれたりするのは区だったり教育委員会なのでしょうね。

 

話はそれますが、私の好きな雑誌に「古老がつづる」というものがあります。

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台東区が昔の地元の様子をお年寄りから聞き書きしたものを一冊のまとめたものなんですが、好評でシリーズ化出版されています。

地元の様子や歴史を次代に引き継ごうという取り組みは、各区でやられていると思いますが、

「古老~」のような本を作ることを、他の区でもやってもらえたら嬉しいのです。。。

 

 

 

地図を片手に、特徴のある場所を見つけるとゾクゾクする。

このカーブって、ここじゃないかしらとか。

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さらに上記の地図ですが、

呑川沿いに二か所、船のようなものが描かれてますよね。

これについての記述も解説にありました。

江戸時代から、堀之内地区には海苔養殖を業とする家が多かったので、海苔船をもやう「テンマ揚場」という共同河岸が、呑川の岸に三か所設けられていた点にも注目したい。

嵐や長雨で呑川が氾濫したときでも、水は地盤の低い北糀谷方面へと流れ、共同河岸は思いのほか無事であったという。

この「テンマ揚場」も銅板の道標には、ひっかき傷のように不鮮明だったのでわかりませんで。

大田区の紙地図で判明し、小躍りした次第。

 

その他にもこんな話。

堀之内の地盤は総じて小高いが、とりわけその中央を縦貫する「新田堀」の周辺が亀の甲のように高く、陣川ぞいの水田などはそれより70~80センチも低かった。したがって三輪神社がある中央部の四辻には火の見櫓が立ち、その境内にあった大銀杏の木 ( 戦災で焼失 ) は、沖に出た海苔船などの目印とされた。

これも、ほら、紙地図にはしっかり火の見櫓が描かれていますよ。

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ねっねっ、ねっっっ?

地図ってずっと眺めているたけどもこんなに発見がある、楽しいでしょう?

・・・・・。

やはり、私だけ?

 

 

ついでのおまけに

件の呑川 ( 旧呑川 )、この辺りは暗渠になっていて、

中央分離帯が遊歩道になっていました。 

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ついでのついで

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八百屋さんの脇道。

ここが陣ヶ堀ではなかったかと、私がにらんだ場所