東京は新宿 歌舞伎町
かつて新宿コマ劇場があった跡地に、大きな映画館が出来たそうです。
東宝シネマズ新宿は、都内最大級の映画館とのこと。
そこに向かうこの通りはゴジラロードという。
いました。
ビルの上からヒョイッと顔を出しているゴジラが。。。
今日は、ビブリア古書堂の事件手帖を観に来ました。
ビブリアは原作もテレビドラマも観ているし、鎌倉好き、古書好きの私にとって
公開を待ちに待った映画化でした。
主演の黒木華さんも好きな俳優なので、それはそれは楽しみにしていました。
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映画のことは以前すでに触れましたが、私にとってワーストワンの作品になりました。
面白い、面白くないのレベルを通り越して、怒りを覚えるところもありました。
どう面白くなかったかの詳細は、公開が終了した頃に書こうと思っていたけれど、
つまらないことは忘れることに決めました。
しかし。
以下は、私が感じた疑問・違和感を列挙してしまったもの。
長いです。ネタバレもあります。
ビブリア古書堂に興味のない方には辛い内容です。
映画の関係者と、映画を楽しく観られた方には大変申し訳ない内容です。
どうぞお許しください。
納得のいかない、違和感を感じる、疑問点はいくつかありましたが、
まずロケ地についてです。
鎌倉を舞台にした作品なのに、鎌倉で撮影していないのはどういうワケなのか不思議でなりません。
パンフレットにはこのように書かれています。
北鎌倉駅や江の島電鉄など、物語の舞台・鎌倉の実景もふんだんに登場する本作。
その中で三島監督が鎌倉らしくて尚且文学的ということで本作のキーポイントとしたのが、山の稜線を切り開いて作られた切通し。
鎌倉に多く存在する切通しが、人と人がつながる象徴的な場所として効果的に用いられている。
絹子と嘉雄が待ち合わせをする場所も切通しだし、ビブリア古書堂も北鎌倉方面から切通しを抜けた一角にある設定だ。
その切通しのシーンや絹子と嘉雄の密会は下田で撮影している。
下田ロケでは台風に二度も見舞われたが、おかげで翌日の台風一過の晴天で輝かしいシーンを撮影する幸運にも恵まれた。
また、ごうら食堂と五浦家は味わいのある建物と風景を求めて常陸太田でロケをするなど、さまざまな要素を合わせて、原作の世界観、映画の空気感が作り上げられている。
ええっ?
鎌倉の風景を何故鎌倉で撮らないで、常陸太田や下田で撮る意味がわからないわ。
別の場所で撮影した絵が「原作の世界観、映画の空気感が作られている」と言っちゃうセンスがわからない。
映画の最初は、五浦家の葬式から始まりました
橋の上を向こうからやってくる葬列。
それは、小津安二郎の小早川家の秋の葬列シーンを思わせる前時代的風景。
「小早川家の秋」から ⤵
最初、何が起こったかと思いました。
違う映画をやっている部屋に紛れ込んでしまったのかと。。。
本編の橋は小津さんのような沈下橋ではなかったけれど、
お骨や位牌を持った親族が徒歩でしずしずと歩いてくる。
今日び、徒歩の葬列などあるのかい? と。。。
五浦家は、鎌倉ではなく別の山深き田舎に設定が変わったのかと思いました。
もしや 鎌倉にこのような川や橋があるのかしら。
たぶん、間違いなくないと思いますが。
最初から鎌倉らしくない風景で始まったことに、頭がクラクラしました。
「いったい何が始まるんだろうこの映画は」と驚いたのです。
切通しについて
三島監督が「鎌倉らしくて尚且文学的ということで本作のキーポイントとした」という切通しについてですが、映画ではこの切通しを、鎌倉ではなく下田で撮ったとありました。
何故、鎌倉の切通しでロケをしなかったのかしら。
それは、鎌倉の切通しと、監督が描きたい切通しのイメージに隔たりがあったからではないでしょうか。
以下は、鎌倉七口(切通し) の五つです。
三島監督のコンセプトでは、鎌倉の切通しが「人と人がつながる象徴的な場所」となっているけれど、
実際の切通しは監督のイメージからかけ離れていたのかも知れません。
1 朝比奈切通し
※ 鎌倉の十二所から横浜の金沢八景に抜ける道として頼朝が作らせた古道。
2013年3月21日撮影
2 名越の切通し
2013年12月05日撮影
3 大仏切通し
2012年2月28日撮影
4 亀ヶ谷坂切通し
2013年9月14日撮影
5 化粧坂切通し
いずれも鎌倉の住民が日常に暮らしに使う道ではありません。
五浦絹子と田中嘉男が逢引をする場所というより、トレッキングに来るような荒れた山道です。
残り二つ、巨福呂坂と極楽寺坂切通しはどうかというと、
巨福呂坂の旧道は民家があり、今は通行できません。
というか現存しませんし、
極楽寺坂切通しだけは舗装され、
江の島方向と鎌倉とをつなぐ大事な生活道路として使われていますが、
それでも絹子と嘉男の逢瀬に合うイメージではない。
要するに、
鎌倉の主たる切通しは、絹子がちょっと店を抜け出して来れるような場所ではない、
山奥の古道だったのです。
初めから無理がある
三島監督が映画で、鎌倉の切通しを、
「鎌倉らしくて尚且文学的ということで本作のキーポイント」としたいと、いくら思っても、
「鎌倉に多く存在する切通しが、人と人がつながる象徴的な場所として効果的に用いられている」というのも無理がある、と私は思うのです。
もっとも市街地には岩をくり抜いたこんな小さな切通しもあることはあるけど。。。
↕ 英勝寺 脇の切通し、、、というかトンネル
こちらは北鎌倉駅の脇の切通し、、、というかトンネル
原作のビブリア古書堂は、この先にあるというイメージなのかも知れません。
2012年9月29日撮影
くだくだと鎌倉の実状で映画をけなしているようですが、
疑問点や違和感は他にもありました。
ミステリーの要素が薄い問題
映画を観た方の中には「ミステリー要素が薄い」とか「安易なミステリー展開だ」といったコメントもありました。
もっともな意見だと思いました。
原因は、原作のミステリーを壊して、そのピースを無理やり違う形にはめ込んでいるからです。
物語のキーマンになっている稲本 ( 成田凌 ) が関わるミステリーも、原作の複数のミステリーをゴチャ混ぜにしています。
【映画の流れはこんなこと】
同業者 稲本が男に大切な古書を持ち去られるという事件があり、偶然居合わせた栞子が男が置いていった本の状態から、その男の住いを突き止める。
たどりついた家は、栞子の推察通りの家だった。
栞子は、その男の眼病を患っていることに気づいた。
「あなたがこの本を盗んだ理由は、失明する前に読んでみたいと思ったからではないですか」
栞子の話を聞き、稲本は男を訴えることを止め、男に本を貸すことにする。
しか~し。
映画では、男と稲本が共犯だったという結末です。
稲本は、男に命じて栞子の店に火をつけさせたり、晩年を盗ませたりします。
【原作のミステリーはこんなこと】
以上の物語のミステリーは、原作では三つの話から取られたものです。
1.客の家をつきとめるミステリーは、
原作 第2巻の第三話 芦塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』で、
栞子の母と、栞子が客の家を突き止めるエピソードから取ったものです。
2.男が眼病を患い、近く失明するというミステリーは、
原作 第1巻 第三話 ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』で、
目が見えなくなった坂口という男が大切な蔵書を売りに来る理由を栞子が解明する
話から取ったものです。
3.男が店を放火しようとするミステリーは、
原作 第1巻 第二話 小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』に登場する小菅奈緒のクラスメート、
西野の仕業だということを、
原作 第1巻 第四話 太宰治『晩年』の放火犯人を栞子がつきとめるという話から取ったものです。
映画を観て、「ミステリーとしてイマイチ」「ミステリーに意外性がない」「すぐわかってしまう」といった意見が多いのは、
原作者が緻密に構築したミステリーを映画で壊してつなぎ合わせたから。
稲本は、何故こんなまどろっこしいことをしたのか?
映画を観終わって、稲本はなんでこんなまどろっこしいことをしたのか気になりました。
一連の事件は、稲村が栞子に近づくための工作であり、自分が晩年を追う真犯人ではないと思わせる為のトリックだったのでしょうが、男の家をつきとめさせる必要が果たしてあったのか。。。
動機が希薄だったり、辻褄が合わない点があることで、作品のミステリー性を薄く陳腐なものにしてしまったように感じます。
人間の反応、セリフ、シチュエーションに違和感
作品の中でいくつか、リアクションやセリフに違和感を感じる場面がありました。
- 五浦食堂で田中嘉男が頭をぶつけて倒れるシーン。
絹子と田中嘉男が初めて出会うシーンだったと思いますが、嘉男がぶらり入った五浦食堂でカツ丼を食べ帰ろうとする。
背の高い嘉男は、食堂の入り口の鴨居に頭を強打して失神。
気がつくと、嘉男は食堂の座敷に寝かされ絹子に看病されている。
嘉男と絹子はお互いにビビっとくるというシーンなんですが、奥から絹子の旦那の声が聞こえてきます。
「もう、( 店を ) 閉めるぞ」
旦那は声だけでここには登場しませんが、店の客の大男が失神したのですから、普通は店主も出て来て寝かすのを手伝ったり、帰るという時に「大丈夫ですか?」の一言でも言いに出てきたりすると思うのです。
それが姿も見せず、嘉男のことを知ってか知らずか「もう閉めるぞ」のセリフで終わるのはちょっと乱暴すぎる気が。。。 - 「晩年」の本を預かった五浦大輔が、家に帰りつくと背後からスタンガンで気絶させられ、本を奪われるというシーンがありました。
店の戸は開けたまま、朝になって倒れている大輔を見つけた新聞配達が言う。
「そんなところで寝ていたら風邪ひきますよ」
想像してみてください。(←ドラマで栞子さんがよく言っていたセリフです )
もしあなたが、扉が開いたままになっている店の中にバッタリ倒れている人を見たら、もっと心配するんじゃないかしら。
「そんなところで風邪をひきますよ」じゃなくて「大丈夫ですか?」と抱き起すんじゃないですか? って。 - 田中嘉男の伯母だかが、嘉男のことを「高等遊民」だというセリフがありました。
とても、強く違和感を感じました。
映画の嘉男は作家を志し働かないでいるという設定でした。
多分、夏目漱石の『それから』の代介とダブらせたかったのだと思います。
しかし明治時代じゃないんだから、東京オリンピックが開催された1964年という時代に「高等遊民」という単語はやはり違和感がありました。
細かくて申し訳ないけれど、人間のリアクションを考えると雑ではないかしら。
旦那には、あの場にいて欲しくないという気持ちはわかる。
新聞配達もそんなに目立たせたくないでしょう。
でも。
「ええっ、こんな時にそう言う? もっと心配したりしない?」と思ってしまわせるとしたら、やはりそのシーンに何か無理があると思うのです。
絹子のカツ丼
絹子の店のカツ丼の上に梅干しが乗っているといるのには、過去に理由がありました。
初めて来店した嘉男が、五浦食堂でカツ丼を注文するとグリーンピースが乗っていた。
嘉男はグリーンピースが嫌いなのか「えっ?」という顔をする。
絹子は「嫌いなの?」と察して、テーブルの割りばしを割り、グリーンピースをポイポイポイと自分の手に取る。
そして嘉男の目の前で、手のひらのグリーンピースをポイッと自分の口に放り込む。
このシーンの夏帆の動作が非常に印象的でした。
可愛いと思った人もいるでしょうし、「えっ?」と思った人もいたハズです。
印象のわかれる微妙な行為が何故か忘れられず、
映画館を出て、何故か無性にカツ丼が食べたくなりました。
歌舞伎町のカツ丼には、残念ながらグリーンピースは乗っていませんでした。