Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

二人の作家 里見弴

 

 

里見弴著「二人の作家」を読みました。

二人の作家とは、泉鏡花と徳田秋聲のこと。

里見さんは二人と関わった当時のことを、11年後「文藝」で発表しています。

実にリアルに泉鏡花と徳田秋聲を語っています。

ふんだんに盛り込まれたエピソードの数々に、興奮を抑えられずに一気読みしました。

 

 

少年の頃より、兄 ( 生馬 ) とその同級生 ( 志賀直哉 ) の影響で、鏡花に傾倒しきっていた里見弴は、「白樺」を始める頃から下六番町の鏡花宅の斜向かいに住んでいたことも縁あって、

泉鏡花と親交を深めていきました。鏡花の臨終の席にも立ち会った仲でした。

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麹町区下六番町11の鏡花の自宅
明治43年に転入し死去するまでここで暮らした。
里見弴宅は往来をひとつ隔てた真隣にあった。

 

そんな里見弴は、秋声秋聲とも因縁がありました。

秋聲の「犠牲」という作品を酷評した時期もありながら、二人の仲は、ゆるゆると縮まっていき、

秋声が里見宅を訪れることもあったようです。

 

秋声から鏡花との仲立ちを頼まれたこともあったとか

こんな風に⤵

馬鹿正直者の私などは、いつ頃、どこでだったか忘れたが、秋聲から、

⸺君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくって貰えんもんかね、と言われ、一考の余地もないように、

⸺それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭ででもなければ、むずかしいんじゃァないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。

⸺ずいぶんひどいことを言う人だね、と、秋聲は、笑い顔ながらも、少し恨めしそうだった。

 

 

それでも 仲の良い作家の寄り合い ( 九九九会) に、秋聲を招き、鏡花を引き合わせたようです。

「斜汀の死を機縁として、どうやら仲が直ったらしい」と聞いた水上龍太郎が喜んで招いたのですが、

鏡花は「狸」と思しい寝入りよう、つまらなそうに秋聲も早々に帰ってしまったという不首尾で終わったそうな。⤵ 

 鏡花や、洋画家の岡田三郎助を中心に、清方、龍太郎、雪岱(せったい)、万太郎、私という顔ぶれで、毎月一回、飲んだり食ったり騒いだりするだけの、洵にのんびりした会合を、ここ数年来続けていた。この連中は、口にこそ出さね、秋声と鏡花との永年に(わた)る確執を、別段そう褒めた話とも思ってはいなかったところへ、図らずも斜汀の死を機縁として、どうやら仲が直ったらしいとの、近頃の流行語で謂う「朗報」が伝わったのだ。なかでも、鏡花の家計の面倒までみていた龍太郎が、大いに喜んで、この機逸すべからず、とばかり、九九九会と称せられたその暢気な会合に秋聲を招き、あわよくば常会員にもなって貰おうではないか、と提案した。誰にも異論はなかったが、鏡花だけは、あまり進まない顔つきだった。

 

 翌月の会合に秋聲が来た。ダンス、映画、素人女(しろうとおんな)玄人(くろうと)にしても、あまり金のかからない女将とか、自前の芸者とかを相手にするのが、趣味と言えばまず趣味で、生活に「遊び」や「馬鹿々々しさ」というようなものを持ち込めない性分の秋聲には、九九九貝の雰囲気は、どうにも馴染みようのないものだった。たまに会うわれわれ後輩の前では、当時文壇の一勢力を成していた「新潮」の座談会にでも(ふさ)わしいような、(かたず)んだ話でももち出すよりほかなかった。鏡花はまた、酒席でのそんな話は「まっぴら御免」とでも言いたいほうで、いつも以上に芸者ばかりを相手にし、いつもより早目にぶッ倒れて、「狸」と思しい寝入りようだった。つまらなそうに、秋聲も、はばかりにでも立つ風で、匇々(そうそう)に帰って了った。⸺とても駄目だろうなァ、あの分じゃァ。⸺そう。これッきりにしたほうが無事かも知れないね。例によってずぶろくぐでんの鏡花を、足が生えているだけ却って始末の悪い荷物のように、玄関の上り框に据え置いてから、龍太郎と私とは、そんな言葉を交し、月の明るい路上に哄笑(たかわらい)の声を響かせて別れた。

 

その半年後、秋聲は「和解」という短編を発表します。

「和解」についても里見弴は触れています。

「どういうつもりで『和解』という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏みにじっていた。」と。

 

私たち一般読者は「和解」という私小説を通してしか垣間見ることしか出来ませんが、

実際に二人と関わり、二人を傍観してきた里見弴にとっては、複雑な想いもしたようです。⤵

どっちがいいの悪いの、間違っているの正しいの、というような問題ではないので、国産自然主義の極意を真似て、あるがままに()、⸺まァ、二人ともそういう生まれつきなんだから仕様がないさ、と、口のうちに呟いて、静かに傍観するよりほかなかった。

 

 

里見弴は、実弟-斜汀とも関わりがあった!

「二人の作家」には、鏡花と実弟-泉斜汀とも、関わりも書かれていました。

鏡花の弟-斜汀は、昭和8年 (1933年) 秋声の経営するアパートで亡くなっているんですが、

                 ※ 秋聲はその経緯を「和解」というタイトルで発表。

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現存するアパート

亡くなる前の年、斜汀は里見弴宅を訪ねて《兄・鏡花への金の無心の手伝い》を頼んでいたようです。

そのくだりはこちら⤵

 たしか昭和六年の暮尾(くれ)だった、二三度会っているだけで、親しく交際(つきあ)ったことのない鏡花の実弟なる斜汀(しゃてい)が、三十日か大晦日の午後、突然訪ねて来て、

⸺ご存知のようなわけで、自身兄貴のうちへは顔出しがならないから、すまないけれど、代わりに行って、五十円ばかり借りて来てくれませんか、

という頼みだった。

 

際立って天才的なのと、至極凡庸なのと、兄弟二人が、同じ文学に志したことに根ざす訣別は、秋声との不和以上、遠くからの想像にも難くなかったが、家族内の入り混んだ情実などについては、鏡花の性分として、爪の垢ほどでも漏らす筈はなく、私にとっても無関心事だったので、

「御存知のようなわけ」と言われても、なんのことやら見当もつかなったが、ともかく依頼の趣きは、歩数(あしかず)でニ十歩たらずの筋向いへ、突っかけ下駄を引き摺りさえすればすむことと、簡単に引き受け、行ってみると、案に相違で、

⸺え? 斜汀があなたのお宅へ伺ってるのですか? と、度の強い近眼鏡の奥で目を(みは)り、

⸺仕様のない奴だ! と、呟いてから、きっぱり断ってくれとの返答だった。

 

あまり愉快ではなかったが、すなおに承知して帰り、その由を話して、金は私が立替ることにした。

夕方私の別宅の玄関に立った鏡花は、けろりと変わった機嫌顔で、

⸺どうしました? おとなしく引き取りましたか? 私が(つつ)まず事の次第を告げると、さもそうず、と言わんばかりに、来るから懐に突っ込んだッぱなしの右手を出したが、そこには、ちゃんと十円紙幣(さつ)が五枚載っていた。

ⵈⵈ 鏡花好みの、大義名分主義の現れと思われたが、もう一つ、勝手な想像を(たくま)しゅうすれば、細君への遠慮も含まれていたらしい。恰度(ちょうど)、晩飯の支度に忙しい刻限だったから。

 

またつながった!

実は先日「和解」を読んで、

私の胸の奥底のジグソーパズルのピースが、またひとつカチリとはまりました。

その時も《またつながった》と興奮したけれど、今回も更につながったのです。

 

「和解」は、尊敬するブロガー id:kssa8008さんが紹介されていたのを読み、

妙に気になり、その日の内に読了した作品でした。 

 

本に呼ばれる経験をするのは、私だけではないでしょうが、

私は《妙に気になる》と手にした本が、過去に訪ねた場所、読んだ本、好きな作家に繋がっていくことがよくあります。

そんな縁のようなものに溢れています。

 

今回もそうでした。

「和解」に登場する秋聲宅は、以前 訪ね歩いた本郷で見つけた家であり、

斜汀のために呼んだ( ぼうとした ) 医者も、かつて訪ねた島薗医院であり、

秋声の「黴」で書かれた長屋も、かつて夢中になって古地図をひもといた場所であり、

「黴」に登場する同居人も、三島霜川と、、、どんどん繋がっていたのです。

 

【関連サイト】

 

そこに「二人の作家」がつながりました

これを縁といわずになんだろう。

大好きな里見弴が、そういえば鏡花びいきだったなと手にした本に、

秋聲が関わっているとは思わなかった。

読んでいる内に、ドンピシャと内容がリンクしていき本当に驚きました。

 

  

「二人の作家」は読みようで暴露本と位置付けることも出来るかも知れません。

しかし、私にとっては、魅力ある一冊でした。

べらんめいでどこか投げやりの態度の中に、里見さんのいつもの茶目っ気さと情の深さを感じられたから。

またひとつ、さっぱりした江戸っ子気質を味わえた喜びで満ちています。

短編ですが、ふんだんに盛り込まれたエピソードの交通整理も見事です。

お時間、ご興味があれば是非、お読みいただきたい一冊です。

 

こちらの本に収刊されています。

恋ごころ 里見トン短篇集 (講談社文芸文庫)

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  • 作者:里見 トン
  • 発売日: 2009/08/10
  • メディア: 文庫
 
「文豪とアルケミスト」文学全集

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  • 発売日: 2017/10/31
  • メディア: 単行本
 

 

もしくは 期間限定でこちら。。。⤵

 

 二十歳台で「白樺」に幼稚な作品を載せ始めた頃の私からすれば、徳田秋聲も、泉鏡花も、共にひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、遥か彼方に鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を享けて、同窓の幼馴染でもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社の頭領で、且つまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、正反対とも言えるもののように思われたし、そのせいでか、永らく交りが(たた)れているという噂にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派のロマンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻(かんか)不遇を(かこ)っていた秋声も、日露戦争後、自然主義勃興(ぼっこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩、田山花袋、島崎藤村等と肩を並べ、じみ(ゝゝ)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いて()った。一方、尾崎紅葉の愛弟子ではあり、年少にして(つと)に鬼才の名を(ほしいまま)にしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋聲などを、遥か後方(しりえ)瞠若(どうじゃく)たらしめて来た鏡花は、以前一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにせよ、一種傍系(ぼうけい)的存は在として、とかく文壇からの蔑視は(まぬが)れなかった。⸺ 「スバル」第二次の「新思想」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を()くようになったのが、恰度 (ちょうど)そういう時代だった。

 

 小波(さざなみ)たちのお伽噺から引き続きに、蘆花(ろか)紅葉(こうよう)柳浪(りゅうろう)一葉(いちよう)緑雨(りょくう)、そして鏡花(きょうか)の、殆ど全部の諸作によって、無条件に魅了せられつけた私一個の、単なる好悪を露呈するならば、じめじめと、煙脂臭(やにくさ)い下宿屋を想わせるような題材の多い国産自然主義には、大体に於いて反撥を感じていたが、さればとて、捨てて顧みないわけでもなかった。現在と違って、雑誌の数も少なかったし、根が好きから踏み込んだ道ゆえに、大抵は読んでいた。大正五六年か、「犠牲」という題で、無精(ぶしょう)ッたらしく、ふんぎりの悪い父親をもった何人かの幼児が、つぎつぎに疫痢(えきり)(たお)れて行く有様を、当時の慣用語で()う「平面描写」⸺ いやに落ちつき払った筆法で描いた秋聲の作品で、私はむしょう(ゝゝゝゝ)に腹を立てさせられて(しま)った。もっとも、最初の子を生後五十日たらずで()られたあと、次のが生れて間のない頃だったせいでもあったろう、⸺ 犠牲とは、さほどでない者が、よりよき者を、更によくするために身を亡ぼす場合にだけ許される、容易ならざる言葉で、この作品の父親が、死んだ子供たちより、果してよりよき者かどうか、また、子を亡くしたために、彼が更によくなりそうなめど(ゝゝ)でもついているかどうか、読了後の筆者には、そこに毛筋ほどの敬意も希望ももてなかったのに、それを呼ぶに「犠牲」の語を()ってするとは、天意人道にも(もと)僭上(せんじょう)の沙汰と言うべきである、⸺ そんな主旨の、批評とよりは、若き父親の義憤から発した抗議の如き文章を、某紙の文芸欄に投書した。早速、同じ紙上に、秋聲からの、⸺ 家内に死なれたり、子供を亡くしたりで、ひどく気落ちがしているところを、鈍刀で、ごしごしと鋸挽(のこぎりび)きにされたのではやりきれない、という風な、作品から受けていた感じとはだいぶ隔たりのある、存外すなお(ゝゝゝ)な返事が出たので、今さら気の毒に思ったこともあるが、それでも、好きにはなれなかった。

 

 一体、先輩、後進というような、階級的な感情に乏しく、時にはそれを軽蔑し、蹂躙(じゅうりん)したがるような気風が、今は知らず、近衛篤麿(このえあつまろ)を院長に戴いていた頃の学習院にはあり、大部分がそこの卒業生だった「白樺」同人の、謂うところの「文壇」なるものに対する冷淡や無関心も、(もと)(ただ)せばそこから来ていた。それと、大家、⸺ 世俗的の意味で謂う「成功者」の多くが、その生家(うまれ)生育(おいたち)からみて、一種「成金」のように思われ、立志伝的人物の臭味(くさみ)の感じられないこともなかった。小説を書いている由を聞き知った父に呼びつけられて、⸺ そんな、幇間(たいこもち)髪結床(かみゆいどこ)同様な道楽稼業(しょうばい)にはいる気なら、断じて許さんぞ、と、()ッぴどく叱りつけられた私にすれば、それを押し切ってもやり続ける文学への執念は別として、同じく世俗的な意味で謂うなら、一種の「成りさがり」としてみずからを嘲笑(あざわら)うことも出来た。そんな心境ゆえ、大家に対して、容易に近づきにくい卑下よりも、むしろ、近づきたくない反撥のほうが強いくらいだった。要するに、芸術の世界に於ける「出世」という世俗的な考え方に、鼻もちならぬ不潔を覚える性癖があり、それは今もって薄れ去ってはいない…。

 

 こうした私だったが、友達の出版記念会や何かで、先輩、新進の、謂うところの「文壇人」と交際(つきあ)う機会が漸次(ぜんじ)数を増すうち、いつどこで誰に紹介されたともなく、秋聲とも口を()き合う仲となっていた。

どういう会だったか、控室にはいって行った私を呼び止めた秋聲が、たしか馬場恒吾(つねご)だったと思う、臨席にいた初対面の人に紹介するのに、⸺ この里見君って人は、こう見えて、なかなか豪傑でしてね、好意を含んだ子供扱いの笑顔とは見えたが、私には、すぐ、いかにも文学青年らしい先潜(さきくぐ)りの根性が沸いて、⸺やたらと鈍刀を(ふる)って、ひと(ゝゝ)を鋸挽きにするような豪傑なんでしょう、と 、要らざる木戸を()いて了った、苦々しい思い出も残っている。

 

 少年の頃から傾倒しきっていた鏡花は、「白樺」を始める前の年くらいに、まだ両親の膝下(しっか)に在った下六番町の家と往来ひとつ隔てただけの、つい真隣といってもいい借家に引っ越してきたが、勿論、紹介もなしに、 ⵈⵈ よしんばあったところで、我こそはと名乗って出るような蕃勇(ばんゆう)はもち合わせず、出来た雑誌も、わざと下男に届けさせるくらいだった。近所にいい合棒(あいぼう)がいて、誘い合っては、あて(ゝゝ)もなく下街をぶらつき、赤電車か、それもなくなれば歩いて帰って来るような習慣のついていた頃で、一時二時という時刻に、よく鏡花のうちの前を通りかかった。

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二階の縁側の縁近く据えた机に、緑色の(シェード)をかけた台電灯(スタンド)が載せてあるらしく、障子のその部分だけ(ほの)かに明るんでいるのが常だった。私には何か差支でもあってか、合棒ひとりでいつもの夜歩きに出かけたとか、⸺ 昨夜詠(ゆうべよ)んだ歌を聞かそうとて、⸺里見弴、泉鏡花も寝たりけん、番町小路ただ秋の風、と、呵々(かか)大笑いしたこともあるが、いやに(せい)の高い洋館の二階、私の部屋の窓も、明方ちかくまで灯火を漏らしている点では、敢えて鏡花のうちの障子に(ひけ)けをとらなかったろう。それほど、「小説は夜半(よなか)に出来るもの」という俗念に捉われていたのだ。

 

 虎ノ門の議事堂裏、政友会本部の建物を借りて、泰西名画の複製を「白樺」主宰で展覧した時、鏡花が一人で見に来た。予期しなかっただけに一層嬉しく、同人ニ三人と共に近寄り、めいめいに自己紹介で初対面の挨拶をした。ゴッホの素描、たしか雨降りの野面(のづら)を描いた絵にじッと見入っている小柄な鏡花の後姿は、今もってはっきり思い出せる。私は二十五、十五違いゆえ、鏡花も四十歳を迎えたばかりだったわけだ。

 

 情人、友達、父兄との間の、神経衰弱的に誇張して感じられる、泥沼に陥ったような日々から、なんとか足を引き抜こうとして、あてのない旅に出たのが、(たちま)ちまた大阪で(はま)り込み、三四年後に、旧作の題名そのままの言い方をすれば、「妻を買」って帰り、両親の住む家とさして遠からぬ同じ区内に一戸を構えてからの私は、時おり鏡花を訪ね、鏡花もまた散歩の(ついで)などに立ち寄ってくれるようになった。どうやら私にも、人生や芸術に対する自分ひとりの観方、考え方が育って来ていて、そう全面的に鏡花の作品を受け入れるわけにはいかなかったが、子供からの心の習慣で、依然、尊敬や私淑の念は持続していた。ひと(ゝゝ)との話には、「泉さん」と姓を呼び、面と向かえば、「あなた」と言って、意識的に「先生」という言葉を避けていたのも、相手の承諾も得ないで、自分免許に弟子がる不躾(ぶしつけ)を謹んでのことだった。それを、鏡花と私きりの席上で、酔っていたとはいえ、初対面の鈴木三重吉に、⸺一つ二つ評判のいい昨を書いたと思えば、すぐいい気持ちに逆上(のぼせ)あがって、泉先生を捉まえて、泉さんだの、あなただのと友達扱いするとは何事か、と、頭ごなしに呶鳴(どな)りつけ、こっちの言葉など聞かばこそ、頑固に、執念(しゅうね)く、いつまでもからまれた時には、そばで鏡花がはらはらしながら、いろいろと(なだ)めたり、取做(とりなしたりしてくれる手前、いきなり乱暴もはたらけず、腹立たしさ、口惜しさ、鏡花に対する有難さなどが混じり合って、不覚にも涙を(こぼ)しやて了ったことがある。町医者や学校の教師に始まって、もうこの時分には代議士、新派俳優、浪花節語りまで「先生と呼ばれるほどの」何とやらに納まり返っていたし、もともと志那では、「さん」というほどの軽い敬称だとも聞くし、「先生」なる一語の使いどころに拘泥(こだ)って、口角泡を飛ばしたり、落涙したりの経緯などは、それこそ泉鏡花の世界、先生流行(ばやり)の今日からでは、嘘のような話でもあろうけれど ⵈⵈ 。

 

 こんな風に、秋声と鏡花とに対して甚だしい高低(たかひく)をみせていた私の感情も、歳月(としつき)によって、知らぬまに(なら)されて行った。その二十年ちかい間には、遠慮ぶかい鏡花も、私の作品に対して、たまには感想を述べ、欠点を指摘してくれることもあったので、私のほうでも、平気で「先生」と呼ぶようになった。秋聲も、(しゃが)れて甲高くなるかと思うと、急に最低音(バス)に沈な、一種独特な声を、⸺里見君? 僕、これから遊びに伺ってもいいかね? などと受話器のなかに響かせてから、別にこれという話もなく、一二時間腰を据えて行くことがあった。秋聲と鏡花とに、さして分け隔てをつけていない私の気持が、言わず語らず先方へも通じているらしいことが、⸺さすがは作家だ、という共感を()んで、何かなし心持を豊かにしてくれた。⸺泉は、相変わらず元気にしていますか? 私の顔を見さえすれば、きまってそんな風に訊く調子も、(まこと)に虚心坦懐だった。

 

 とは言え、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる溝については、所詮、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神の如く」で、二階の八畳なる書斎の違棚には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果物(くだもの)とかのているのを供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。(みだり)に話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、源氏香の図のうち「紅葉(もみじ)の賀」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情宣の、恐らくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。

 

 これに反して、秋聲は「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、(あく)まで対等の口調で、⸺どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃァ、君、胃癌で死んでも仕様がないさ、などと、憐れむとも、嘲るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、併し、決して反感の抱けない、飄々たる和やかさはあった。どちらのレンズを通しても、私のあたま(ゝゝゝ)にある尾崎紅葉という人物の映像に、二重にかさなるずれ(ゝゝ)などを生じさせないことだけでも気持がよかった。こうして秋聲からすれば、鏡花の弟道(ていどう)の如きは、時代錯誤も甚だしきものに思えて、さぞかし馬鹿々々しかったろうし、鏡花から観た秋聲の言行は、故意に恩師を傷ける悖徳(はいとく)として、許しがたかったろうことは、誰にも(たやす)く察しのつくところだった。おまけに、われわれ時代の文学者には、他人の私事には触れたがらない気風もあって、露伴や天外を除けば、そろそろもう長老の部に繰り込まれるこの二人の間の確執を惜しむの情はもちながらも、敢えて和解の道を(ひら)こうとするような話ももちあがらなかった。馬鹿正直者の私などは、いつ頃、どこでだったか忘れたが、秋聲から、⸺君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくって貰えんもんかね、と言われ、一考の余地もないように、⸺それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭ででもなければ、むずかしいんじゃァないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。⸺ずいぶんひどいことを言う人だね、と、秋聲は、笑い顔ながらも、少し恨めしそうだった。

 

 たぶんその後のことだったろう、某総合雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋聲と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつま)じく懐旧談など弾んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、間に挟んでいた径一尺あまりの 胴丸火鉢(どうまる)を跳び越し、秋聲を押し倒して、所嫌わずぶん撲ったのが、飛鳥の如き早業で、⸺泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩も名人ですなァ、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好にするいつもの癖を出して、⸺いやァ、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、その頃秋聲の行きつけの、「水際の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方に着いてからも、見栄も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する啓重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄な調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。これを聞いて、私にも一縷(いちる)の望みが生じた。いい年齢(とし)をして、そんな馬鹿げたまね(ゝゝ)が出来るというのは、何がどうあろうとも、幼馴染なればこそだし、同時にまた芸術家同士であればこそだ、心の奥底なる愛情は、まだ決して冷めきってはいない、こう思えば思うほど、一方ではまた、全然性格を異にする二人の関係が、「前世の業」とでもいった風な、死ぬまで 背負(しょ)い続けるよりほかない、人間苦の一つのようで、黯憺(あんたん)たる気持にもさせられた。

 

 たしか昭和六年の暮尾(くれ)だった、二三度会っているだけで、親しく交際(つきあ)ったことのない鏡花の実弟なる斜汀(しゃてい)が、三十日か大晦日の午後、突然訪ねて来て、⸺ご存知のようなわけで、自身兄貴のうちへは顔出しがならないから、すまないけれど、代わりに行って、五十円ばかり借りて来てくれませんか、という頼みだった。際立って天才的なのと、至極凡庸なのと、兄弟二人が、同じ文学に志したことに根ざす訣別は、秋声との不和以上、遠くからの想像にも難くなかったが、家族内の入り混んだ情実などについては、鏡花の性分として、爪の垢ほどでも漏らす筈はなく、私にとっても無関心事だったので、「御存知のようなわけ」と言われても、なんのことやら見当もつかなったが、ともかく依頼の趣きは、歩数(あしかず)でニ十歩たらずの筋向いへ、突っかけ下駄を引き摺りさえすればすむことと、簡単に引き受け、行ってみると、案に相違で、⸺え? 斜汀があなたのお宅へ伺ってるのですか? と、度の強い近眼鏡の奥で目を(みは)り、⸺仕様のない奴だ! と、呟いてから、きっぱり断ってくれとの返答だった。あまり愉快ではなかったが、すなおに承知して帰り、その由を話して、金は私が立替ることにした。夕方私の別宅の玄関に立った鏡花は、けろりと変わった機嫌顔で、⸺どうしました? おとなしく引き取りましたか? 私が(つつ)まず事の次第を告げると、さもそうず、と言わんばかりに、来るから懐に突っ込んだッぱなしの右手を出したが、そこには、ちゃんと十円紙幣(さつ)が五枚載っていた。 ⵈⵈ 鏡花好みの、大義名分主義の現れと思われたが、もう一つ、勝手な想像を(たくま)しゅうすれば、細君への遠慮も含まれていたらしい。恰度(ちょうど)、晩飯の支度に忙しい刻限だったから。

 

 翌年の春、この弟の斜汀が、所もあろうに、秋聲の経営するアパートメントの一室で重体に陥るという、不思議な廻り合わせになった。後にはた(ゝゝ)から聞いたところに依れば、鏡花は、息を引き取ったあとの病院や、火葬場や、葬式など、きちんきちんと列席し、秋聲とも隔てなく談笑していたそうだ。殊に、式を終わったあと、寺からほど近い尾崎紅葉の旧屋のあたりを二人して見て巡った、という話には、微笑を禁じ得ない明るさが感じられた。

 

 鏡花や、洋画家の岡田三郎助を中心に、清方、龍太郎、雪岱(せったい)、万太郎、私という顔ぶれで、毎月一回、飲んだり食ったり騒いだりするだけの、洵にのんびりした会合を、ここ数年来続けていた。この連中は、口にこそ出さね、秋聲と鏡花との永年に(わた)る確執を、別段そう褒めた話とも思ってはいなかったところへ、図らずも斜汀の死を機縁として、どうやら仲が直ったらしいとの、近頃の流行語で謂う「朗報」が伝わったのだ。なかでも、鏡花の家計の面倒までみていた龍太郎が、大いに喜んで、この機逸すべからず、とばかり、九九九会と称せられたその暢気な会合に秋声を招き、あわよくば常会員にもなって貰おうではないか、と提案した。誰にも異論はなかったが、鏡花だけは、あまり進まない顔つきだった。

 

 翌月の会合に秋聲が来た。ダンス、映画、素人女(しろうとおんな)玄人(くろうと)にしても、あまり金のかからない女将とか、自前の芸者とかを相手にするのが、趣味と言えばまず趣味で、生活に「遊び」や「馬鹿々々しさ」というようなものを持ち込めない性分の秋聲には、九九九貝の雰囲気は、どうにも馴染みようのないものだった。たまに会うわれわれ後輩の前では、当時文壇の一勢力を成していた「新潮」の座談会にでも(ふさ)わしいような、(かたず)んだ話でももち出すよりほかなかった。鏡花はまた、酒席でのそんな話は「まっぴら御免」とでも言いたいほうで、いつも以上に芸者ばかりを相手にし、いつもより早目にぶッ倒れて、「狸」と思しい寝入りようだった。つまらなそうに、秋聲も、はばかりにでも立つ風で、匇々(そうそう)に帰って了った。⸺とても駄目だろうなァ、あの分じゃァ。⸺そう。これッきりにしたほうが無事かも知れないね。例によってずぶろくぐでんの鏡花を、足が生えているだけ却って始末の悪い荷物のように、玄関の上り框に据え置いてから、龍太郎と私とは、そんな言葉を交し、月の明るい路上に哄笑(たかわらい)の声を響かせて別れた。

 

 半年あまりして、秋聲の発表した「和解」という短編は、「お家の芸」とでもいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、斜汀の死に絡んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、⸺鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋聲は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはない筈だということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこ帰って行ったので、 ⵈⵈ 以下原文を仮りるす、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の好意を、そのまますなお(ゝゝゝ)には受け入れられないで、およその費用をつも(ゝゝ)ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗に決済をつけて了わなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」を以って自他共に許す、而も、何年か一つ(かま)の飯を食った仲の秋声に、わかっていない筈はないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊(たんぱく)らしい言葉のなかにも、可なりの反感が窺われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏みにじっていた。

 

 何か少しでも金のかかりそうな話となると、⸺あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし指とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向かう仇敵とも感じられている秋聲に、弟の発病から思わぬ世話になったことに、心密かに忌々しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋聲でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽くしたつもりの、いい気持ちでいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心(たいら)かでなくなるのも、これもまた当然の心理というべきだった。私にも似たような経験があるが、これはもっと露骨で、屋台店の頃に少しばかり世話をやいてやった女が、めきめきと財を蓄えてからも、口癖のように、私の住む土地の名を言って、そっちへは足を向けて寝たことがない、などと、嬉しがらせの空世辞(からせじ)を並べて十年あまりも経ち、うちの娘の婚約が決まった由を聞き知ったとて、吃驚(びっくり)するほどの祝物を担ぎ込んで来て、⸺ああ、これでせいせいした。永いこと気になって気になって…、ほんとに、今日という今日こそ、あたしも…、などと、娘に対する祝言より、自分自身の心の負担を清算し得た喜びのほうに、より多くの言葉数を費やしていた。仕舞には、私もたまりかねて、⸺そうか、それはよかったね。今夜ッから、俺のほうへ足を向けて寝ろよ、と、少しは痛そうな皮肉を言ってみたが、なかなかそんなことぐらいで消し止まる火の手ではなかった。

 

 だから、この場合でも、秋聲と鏡花と、どっちがいいの悪いの、間違っているの正しいの、というような問題ではないので、国産自然主義の極意を真似て、あるがままに()、⸺まァ、二人ともそういう生まれつきなんだから仕様がないさ、と、口のうちに呟いて、静かに傍観するよりほかなかった。九九九会の席上でも、勿論、その、秋聲の近作に触れて語る者もいなかったし、必ず読んでいる筈の鏡花はなおさらのこと、馬耳東風の、徹底した黙殺ぶりだった。

 

 それッきりで、恐らく秋聲と鏡花とは、途上での遇会さえなかったのではなかろうか。物情騒然としだして、文壇的会合は少く、私自身も出不精になったので、秋聲の動静を聞くことも稀だった。鏡花は、やや健康優れず、寒さを温泉場に避けるようなことが多かった。夜歩きの合棒の詠じた「番町小路の秋声」は、いとど蕭条(しょうじょう)の気を加えつつ、いつか六年という歳月が流れ去った。

 

 昭和十四年七月、これは今は亡き三宅正太郎の、長崎控訴院長への転出を送る九九九会を最後の外出として鏡花は、近所の散歩さえ大儀がる風に見えた。九月の三四日頃から臥着(ねつ)き、七日の朝、私が、作法もなく、ただやたらにたくさん突っ込んだ秋草の(かめ)(かか)えて行った時には、その置場所を指図する声もさして平生と変わらなかったが、(ひる)ちかく、学生時代からの、鏡花の愛読者だった三角博士が、私のうちの格子戸の隙へ顔だけ(のぞ)かせて、⸺知らせるところへはすぐ知らせてください! と、消えた。龍太郎は生憎旅行中で、早速駈けつけた雪岱、万太郎に、電話、電報による通知のことを、私のうちでやって貰い、四畳半に長火鉢や茶箪笥で、正味三畳あるかなしかの茶の間に()ている「先生」の背を撫でた。ゆかた越しにも、あちこちに(こぶ)のような手ざわりがあり、荒い息づかいだった。⸺弴さん、よして。⸺どうしてです? 却って気持がお悪いんですか? ⸺そうじゃァないけど、勿体ない。⸺何を仰有(おっしゃ)るんです。この場合、誰が、気持の負担を忌々しがる小心者と(わら)う者があろう。私は、下唇を噛んで、こみあげる涙を(こら)えた。

 

 絶えず脈をとっていた三角が、私に目くばせ(ゝゝゝ)をした、すぐ立って、うちへ駆けつける途中で、偶然市ヶ谷で落ち合ったという柳田國男、笹川臨風に行き遭った。⸺どうぞお急ぎになって…。うちの玄関からは、⸺御臨終らしいよ! と、大声に呶鳴(どな)るなりとって返し、耳もとちかく、二人の旧友のみえたことを告げると、

 たしかにわかって、顔でか手でか、⸺八畳のほうへ、という気持が伝わって来たので、⸺そうッとお床を引きますからね、目をつぶっていらしってくださいよ、と、細君と三角と三人がかりで、襖隣なる客間のまんなかまで寝床を引き摺って行った。

 

 細君はもとよりのこと、國男、臨風、雪岱、万太郎、私に対するよりもずっと心置きなくどんな話にも相手になってくれた私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目にもはっきりわかって、息が絶えた。

 

 どのくらいか、事務的な時が経って、細君に、⸺短刀、ありますか? ⸺ないわ、そんなもの。どうするの? ⸺枕元に枕頭(まくらもと)に置くんですよ。脇差で長すぎるけど、じゃァ、うちのを持って来ましょうか。目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋聲が来た。

「どう?」

「たった今…」

キリキリと相好が変って、

「駄目じゃァないか、そんな時分に知らせてくれたって!」

(むつう)つ如き烈しさだった。

「どうも、すみませんでした」

なんの思議(しぎ)るところもなく、私の頭はごく自然にさがった。