Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

徳田秋聲『黴』

 

徳田秋聲「黴」を読了しました

「黴」は徳田秋聲が41歳の時に発表した私小説です。

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世間的には、

自然主義文学を確立、同時に第一級の私小説としても傑作と謳われる

じめじめした黴の生えたような重苦しい生活を突き放した眼で描き尽くし、

 自然主義小説の頂点に立つものとして後代に大きな影響を残した」と評される作品だそうですが、

私は、その作品の素晴らしさを どうしてもつかみとれませんでした。

 

読み終わるまで、時間も相当かかりました。

何度か降りようかと思いました。

理由は、作者の眼差しに優しさが感じられず、嫌な気分になってしまったからでした。

優しさがない非情な部分こそ、作品の特質であり大事な要素なのかも知れません。

しかしどうしても「モデルにされた人は、これを読みどんな思いだったろう」と考えてしまいます。

 

登場人物は、秋聲のごく身近の 実在する人たち

内容は、手伝いの婆やの娘-お銀と、ずるずると関係を結んだ作家-笹村が、

出産、結婚を経ても尚、不毛なままの生活を送る様子を描いたものです。

 

笹村は秋聲本人。お銀は後に妻となるはま。生まれてくる子どもは、長男の一穂です。

泉鏡花や三島霜川、恩師の尾崎紅葉も出てきます。

 

その人たちに向けられた主人公の情のなさが目立ち、いたたまれない気分になります。

特に妻や、生まれてくる子への描写に棘がありました。

ご長男はこの小説で、父親が自分をどう思っていたのかを知るわけですから、

複雑な想いではないかと、私には思えてなりません。

小説に書くことで「モデルになった人はどう思うのだろう」とか「傷つけていないだろうか」といった神経や想像力は、秋聲さんにはないのだろうかと思いました。

 

《女の目線で細かいことを》と言われてしまえばそれまでですが、そんなこんなと、

作品を味わうために本来は余分なことかもしれないところに心を取られ、

後味のよくない読書となりました。

 

具体的に、どんな部分が身につまされたかは、とじ込みにまとめましたが、

要約すれば、こんなところです。

  • 後に妻とするお銀に対しての愛情が希薄なこと。
  • 第一子を身ごもったことが疎ましく、堕胎を願い、産むならよそで密に出産させ、産まれた子は里子に出すことを説得していること。
  • 恩師、尾崎紅葉の死に対して悲しみが現われていないこと。
  • お銀に押し切られる形で第一子を認知、お銀とも結婚した秋聲は、やがて長男 に愛情を抱くようになる。しかしその下に生まれてくる子どもに対しては、一切愛情を抱いていないと明らかにしていること。
  • 学友-田中千里、友人-三島霜川との交流に情が通っていないこと。

 

しかしこれも、再読するとまた違った味わいに感じるかも知れず、

読書というのはつくづく味わい深いものであるのと同時に、

好みの別れるものであるのだと感じました。

 

この本で読みました

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この本は、角川書店刊 日本近代文学大系。

第21巻 徳田秋聲集に収録されているのは、「黴」「足袋の底」「或売笑婦の話」「無駄道」「ファイヤ・ガン」「花が咲く」「すぎゆく日」の7作ですが、

興味深いのは、解説・注釈・補注で、秋聲の長男-一穂氏が手掛けていることです。

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解説 徳田一穂は、徳田秋聲の長男。

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通常、解説は末尾にありますが、この本では巻末に43頁あります。

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この量⤴

 

解説の冒頭に、こうあります。

「先ずはじめに私が『黴』の中の正一、『仮装人物』の中の廉太郎のモデルであるという事を

 申し述べておく方がいいと思う。」

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本文の上段に、一穂氏による解説がびっしり。

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解説は本文の上だけでは足りずに、末尾に45頁ありました。

要するに、本全体の内、徳田秋聲の作品は75%でした。

 

かなり細かい解説です。

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物事の解説にとどまらず、この文章はこういう意味があるといった細かい注釈でした。

 

 

最初の内、この全集で読み始めまたものの、

本文に記載された解説番号が気になり出して、作品に集中できません。

途中からKindleに変えて読みました。

 

全部 読み終わった後、自分がどう解釈したかの対比として全集の解説を読みました。

興味深かったのはこんな注釈。

 

次にある「體の始末」について、

私は「堕胎」と解釈しましたが、

解説では「身の振り方。笹村との関係をたつこと」と書かれていました。

・・・複雑です。

母親と顔を突き合わす前に、どうにか體の始末をしようとしていたお銀は母親が帰ってきても、どうにもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。

~中略~

「言いましたよ私…」お銀はある時笑いながら笹村に話した。

「お母さんの方でも大抵わかってたんでしょう」

笹村も待ち設けた事のような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.76 より

 


「どうせ、育てるんじゃないんだから」の部分は、複雑な想いだろうなとおもいきや、

こんな解説をつけていらっしゃいました。

お銀に対するけん制の意味と、自身の引き込まれていきそうな気持をおさえるために、あえて突っ放した、無関心を装う、そしてやや自嘲的な言い方をしたわけである。

「どんな子が産まれるでしょうね。私あまり悪い子は産みたくない」

「瓜の蔓に茄子は成らない。だけど、どうせ、育てるんじゃないんだから※」

笹村も言っていた。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.112 より

 

 

仮に私が一穂氏だとしたら、

まず自分の出自を 世にさらされたことにめげて育ってしまうでしょう。

しかし一穂氏は違います。

産まれるまでは疎まれた時期があったとしても、生を受けてからどの子よりも父親に愛情をかけられて育ちました。

そして父上と同じ小説家の道を進み、父上の本を研究し、父上の遺宅を守ってきました。

解説文や談話を見ても、誰よりも父上を愛し尊敬していらっしゃることがわかります。

 

それにつけても・・・・

ものの観方、癇の障りどころって 様々なんだなぁ

ということをつくづく感じる次第です。

 

 

とじ込みは、本文で気になった箇所です⤵

 

その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでその頃までも大学に籍をおいていたが、国から少し纏まった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた借家の一つであった。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.56 より

Kは、作者の友人田中千里がモデル

 頭が悪いは必要か。。。

 

母親と顔を突き合わす前に、どうにか體の始末をしようとしていたお銀は母親が帰ってきても、どうにもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。

~中略~

「言いましたよ私…」お銀はある時笑いながら笹村に話した。

「お母さんの方でも大抵わかってたんでしょう」

笹村も待ち設けた事のような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.76 より

※ 留守にしていた義母に妊娠を告げるシーン。

體の始末とは「堕胎」と読んだが、一穂氏の解説では「身の振り方。笹村との関係をたつこと」としていることが複雑に感じられました。

 

「お銀に来て酌をしろって…」

笹村が言って笑うと、Kも顔を見合わせて無意味にニタリと笑った。

「おい酌をしろ」笹村の声がまた突っ走る。

夕化粧をして着物を着換えたお銀が、そこへ出て来ると、おどおどしたようや様子をして、銚子を取り上げた。

~中略~

お前行く所がなくなったら、今夜からKさんの所へ行ってるといい

笹村はとげとげした口の利き方をした。

「うむそれがいい。俺が当分引き取ってやろう。今のところ双方のためにそれが一番良さそうだぜ」

Kは光のない丸い目をみはって二人の顔を見比べた。

おどおどしたような目を伏せて、俯いて黙っていたお銀は、銚子が一本あくと、直に起きって茶の室の方へ出て行った。そしていくら呼んでもそれきり顔を見せなかった。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.83 より

 

 

しかしどうしても妊娠としか思われないところがあった。食物のぐあいも変わってきたし、飯を食べると、後から吐き気を催すこともままあった。母親に糺してみると、母親もどちらとも決しかねて、首をかしげていた。

「今のうちなら、どうにかならんこともなさそうだがね」

また一苦労まして来た笹村は、まだ十分それを信ずる気にはなれなかった。弱い自分の体で、子が出来るなどということは殆ど不思議なようであった。

「そんな訳はないがな。もしそうだったとしても、おれは知らない

などと言って笑っていた。女の操行を疑うような、口吻も時々洩れた

「私はこんながらがらした性分ですけれど、そんな浮気じゃありませんよ。そんなことがあってごらんなさい、いくら私がづうづうしいたって一日もこの家にいられるもんじゃありませんよ」お銀も半分真面目に言った。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.85 より

 

  

「そんなに気にしなくとも、いよいよ妊娠となれば、私がうまくそっと産んじまいますよ。知った人もありますから、そこに二階でも借りて…」お銀は言い出した。

「叔父さんが世話をした人ですから、事情を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。貴方からおあしさえ少しいただければね」

「そんな所があるなら、今のうちそこへ行っているんだね」

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.85 より

 

 

「医者はどういうんだね」

笹村は少し離れたような心持で、女に聞きだした。笹村はまずそれを確かめたかった。

「お医者はいかなり體を見ると、もうわかったようです。これが病気なものか、確かに妊娠だって笑っているんですもの。それに少し體に毒があるそうですよ。その薬もくれるそうですから…」

「幾月だって?」

「四月だそうです」

「四月。厭になっちまうな

笹村はと息を吐いた。そして恐ろしいような気持ちで、心のうちにニ三度月を繰ってみた。

その晩は一時頃まで、三人で相談にふけっていた。

笹村は出来るだけ穏やかに、女から身を退いてもらうような話を進めた。

その話は二人にもよく受け入れられた。

「貴方の身が立たんとおっしゃれば、どうも仕方のない事と諦めるより外はござんしねえ。ご心配なさるのを見ていても、何だかお気の毒のようで…」

母親は縫物を前に置きながら言った。

「どうせ娘 ( これ ) のことは、體さえ軽くなればどうにでもなっていきますで」

そう決まると笹村は一刻も早く、この重荷を卸してしまいたかった。そして軽はずみのような恐ろしい相談が、どうかすると三人の間に囁かれるのであった。笹村の興奮したような目が、異様に輝いて来た。

そうなれば、私がまたどうにでも始末をします。⸺その位のことは私がしますで

そう言う母親の目も冴え冴えして来た。

「だけど、うっかりしたことは出来ませんよ」お銀は不安らしく考え込んだ。

「なあに、滅多に案じることはない」

~中略~

「産まれて来る子どもの顔を、平気でみていられそうもないからね」

笹村は、冴え冴えとした声でいつに変わらず裏で地主の大工のお内儀さんと話していたお銀が入ってくると、直に捉まえてその問題を担ぎ出した。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.91より

 

 

笹村にせっかれて、菓子折りなどを持って出かけて行くまでには、お銀は幾度も躊躇した。

丸薬なども買わされて、笹村の目の前で飲むことを勧められたが、お銀は売薬に信用がおけなかった。「そのうち飲みますよ」と、そのまま火鉢のなかにしまっておいた。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.93 より

 丸薬=堕胎薬

 

「どんな子が産まれるでしょうね。私あまり悪い子は産みたくない」

「瓜の蔓に茄子は成らない。だけど、どうせ、育てるんじゃないんだから※」

笹村も言っていた。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.112 より

※ 長男一穂の解説

笹村の本心というより、お銀に対するけん制の意味と、自身の引き込まれていきそうな気持をおさえるために、あえて突っ放した、無関心を装う、そしてやや自嘲的な言い方をしたわけである。

 

「早くやろうじゃないか。今のうちなら私生児にしなくても済む」

笹村は乳房をふくんでいる赤子の顔を乍ら、時々思い出したように母親の決心を促した。

「私育てますよ。貴方の厄介にならずに育てますよ。乳だってこんなに沢山あるんですもの」

お銀は終いによそよそしい様な口をきいたが、自分一人で育てていけるだけの自信も決心もまだなかった。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.119 より

 

 

「あの時のことを思うと、情けないような気がする」

お銀は目を潤ませながら、そばに遊んでいる子どもの顔を眺めた。

「坊はお母さんが助けてあげたんだよ。大きくなったら、またお母さんがよく話して聞かせてあげるからね」

お銀は笹村を嫌がらせるような調子で言った。

「あの時のことを忘れないために、この丸薬はいつまでもこうやってしまっておきましょうね」

「馬鹿」笹村は苦笑した。

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.158 より

※ 二人目の子どもを出産した頃のシーン

 

「この子は育てるのに骨が折れますよ。十一になるまで、摩利支天さまのお弟子にしておくといいんだそうですよ」

お銀はお冬の知り合いのある伺いやの爺さんから、そんな事を聞いてきたりした。

しかしうっちゃっておいても育っていくように見えた、次の女の子が、いつもころころ独りで遊んでばかりいない事が、少しづつわかってきた。この子どもは、普段は何のこともない大人の玩具であったが、どうかして意地をやかせると、襖にへばりついていて、一時間のあまりも片意地らしい声を立てて、心から泣き続けることがあった。

いやな子だな。豚の嘴のような鼻をして…こいつは意地が悪くなるよ

笹村は小さい自我の発芽に触るような気がした。

「巳年だから、私に似て執念深いかも知れませんね」

そう言って子どもを抱きしめているお銀は、不思議にこの子の顔を見直せるようになって来るのに、一層心を惹かれていた。

貴方は坊だけが可愛いようですね。私はどちらがどうということはありませんよ」

時々そんなことを口にする母親の情がだんだん大きい方の子どもに冷めていくのが笹村によくわかった。

そうさ、體質から気質まで、正一のことは俺には一番よくわかる

角川書店 日本近代文学大系 第21巻 徳田秋聲集『黴』p.219 より