私の持っている文学全集、第21巻「徳田秋聲集」には、『黴』の他にも6編の作品が掲載されています。
文学全集というのは面白いもので、作家の代表作が網羅されているものはありません。
※ その作家だけの全何巻の全集のことではありません。
誰々の巻一冊 読めば、その作家の人気作に触れられるというもので ない代わり、
編纂者が意図する その作家の多様性を理解することは出来ます。
先日来、徳田秋聲の書いた『和解』『黴』『犠牲者』のことに触れましたが、
ここまでのラインナップは、私の生理にはなじまないものでした。
秋聲の傑作といわれる『黴』の素晴らしさを、私はつかみとることが出来ず無念に終わりました。
小さいことに躓いてしまったからです。
何年か後、或いは違う作品を読んだ後に、もう一度読み直してみると、目から鱗のような感動に出会えるものと信じ、本を置きました。
折角全集があるのだから、とりあえず、他の作品も読んでみようと『足袋の底』『或売笑婦の話』『無駄道』を読みました。
『無駄道』は、
『黴』と同様私小説で、秋聲が東京に出て来て挫折し、一旦大阪の長兄を頼り、大阪で暮らした一年余りの生活が描かれています。
『黴』のような突き放した人間描写がないので平常心で読めました。
秋聲の若い折の苦悩や葛藤が垣間見られ、とても面白く思いました。
でもまた疑問。
この人はどうしてそういうタイトルをつけるのだろう (;'∀')
『和解』『犠牲者』と同じで、タイトルにドキっとさせられるのです。
自身の葛藤の日々を「無駄道」というのは、損得勘定で人生を見てしまっているようで、人生に対しても失礼な気もします。
薄給ながらも弟の世話をした《一年》を『無駄道』と回顧されては、兄も辛かろうに。。。
いやはや、また同じようなところを突っついてしまった。
私にとって私小説は、やはり鬼門なのかも知れません。
『足袋の底』『或売笑婦の話』は面白かったです
『足袋の底』は、
息子に店を譲り日々の小遣い稼ぎに金貸しをしている彦爺さんは、廓通いの果 娼妓に相手にされずにちょっとした仕返しをするという、落語の世界のような話でした。
『或売笑婦の話』も、
年期が明けた娼妓が、別段落ち着くところもないままに、相変わらず気の向いたような客を取って暮らしているという話なんですが、これも淡々とした中に女の枯れた心持が流れていって、好きな世界でした。
秋聲は多くの私小説を発表していますが、大正年間 ( 40代以降 ) にかけての短編小説では、客観小説のほうに優れた作品が多いと言われているそうで、件の『足袋の底』も『或売笑婦の話』もそういった位置にある作品のようです。
廓の世界の描写が無駄のない筆で描かれていて、控えめな心理描写がかえってお洒落に感じ、のめりこんでしまいました。
好き嫌いを簡単に言うものではないな
全集 ありがたし。
一作 読んで「この作家は嫌い」と決めるのは容易いが、
それでめぐり遭わず仕舞いになってしまう作品があったらつまらない。
「とりあえず、三作は読もう」をモットーに読んでみて、よかったと思いました。
本日の朝ごはん
食卓には常に三種の七味あり。
今日は「京の黒七味」の気分。←ダジャレではない
太目のいんげんと、舞茸には黒七味、でした。
今日の夜ごはん
いわしの塩焼き以外は、昨日からの回し者
味付けしていないめかぶと、新たまねぎ。
いい組み合わせでした。
一晩たって、昨日より味のしみた茄子の煮びたし
菜の花の胡麻和えも、ひと味加えて我が家の味に