Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

志賀直哉「友への手紙」から

 

昨日、武田麟太郎と島木健作の作風について話をしましたが、

これに関連して志賀直哉が興味深いことを書いています。

百花文庫「友への手紙」

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この本は、志賀直哉の書簡集で、昭和22年に発行されたものです。

通常、作家の書簡集は亡くなったあとに出るのが普通ですが、

これは志賀直哉がある目的で発行したものです。

 

あとがきに、氏はこう書いています。

生きている間に書簡集を刊行するのは異例の事だが、今から十数年前、「新しき村」で金の要る事があり、武者小路編という事で、私の書簡集を村の会員である山本書店から刊行し、その印税を村に寄付した事がある、それがこの本の中の武者小路宛の手紙で、小林多喜二宛のものは小林が死んで暫くして赤の方の雑誌に発表されたのを切り取って置いたもの、里見宛のも、峯宛のも雑誌に出ていたのを取っておいて、全集刊行の折にそれを一緒にして最後の巻に載せた。

 ~中略~

そういうわけで、この本の書簡は何れも一度雑誌に公表された、いわば、ひとが発表してくれた私の書簡集である。

これを見て、自分で思うことは、自身そう書き分けるつもりは少しもないのに相手によって書き方が自然に変わるのは面白い事だと思った。

小林多喜二と峯恵治は私にとって友だちという程の関係ではなかったが、他の四人との関係から、題名を「友への手紙」とした。

昭和二十二年三月三日 

志賀直哉

 

 

いの一番に読んだのは、里見弴への書簡でしたが、

今回、思い出したのは、小林多喜二への書簡です。

昨日、武田麟太郎・島木健作の作風が、

「政治思想をぬきにして芸術性を追求する方向に変わった」という話をしましたが、

これと同じようなことを志賀さんは、小林多喜二への書簡に買いていらっしゃったのです。

ちょっと長くなりますが、引用します。

 

小林多喜二へ

1.昭和六年七月十五日

 お手紙も「蟹工船」もその時々にちゃんと届いています。筆不精が一つと、読上げてご返事出そうと思ったのがひとつでそのままになり甚だ失礼しました。

絶版本を探して下さったご厚意に対しても申し訳ありません。東京へいって帰ると直ぐ友だちの泊り客があり、また一家が半月ほど来ていたりで遊び暮らしましたが明日か明後日 弟一家は帰るはず、自分の思った事 その後に書いて送ります。

立場が違う点で君を満足させるかどうか分かりませんが、書けばそんな事を遠慮を入れずに書いてお送りします。お手紙にも自分の立場で見てとあるのでそのつもりでいます。

 

2.昭和六年八月七日

 手紙大変遅れました。

君の小説「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三、一五」という順で拝見しました。

「オルグ」は私はそれ程に感心しませんでした。「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けていると思い、描写の生き生きと新しい点感心しました。

「三、一五」はひとつの事件の色々な人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。

 君の気持からいえば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人公持ちである点 好みません。プロレタリア運動に携わる人としてやむを得ぬ事のように思われますが、作品として不純になり、不純がために効果も弱くなると思いました。大衆を教えるという事が多少でも目的になっている所は芸術としては弱身になっているように思えます。そういう所はやはり一種の小児病のように思われました。

 

 里見の「今年竹」という小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男がしきりに感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思うといったのです。

 力を入れるのは女の手紙でその手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくてもいいと思うと言ったのです。

 

 君の「蟹工船」の場合にそういう風に感じたわけではありませんが、プロレタリア小説も大抵においてそういう行き方の方が芸術品になり、効果からいっても弱いものになると思います。

 プロレタリア芸術の理論は何も知りませんが、イデオロギーを意識的に持つ事はいかなる意味でも弱くなり、悪いと思います。

 作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考えを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくないことだと思います。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本当のプロレタリア芸術になるのだと思います。

 フィリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰でもがその境遇に置かれればそう感じるだろうと思われる主観なので素直にうけ入れられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思います。

  ~中略~

 トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、しかし作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさえて仕事されてある点、やはり大きい感じがして偉いと思います。トルストイの作品でトルストイの思想家がもしもっとのさばっていたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思います。

 主人持ちの芸術はどうしても希薄になると思います。文学の理論は一切みていないといっていい位なのでプロレタリア文学論は知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が効果からいっても強い働きをするように私は考えます。

 

 前に洋文から「魚河岸」という本を貰い、その前、津田青楓にすすめられ「ゴー・ストップ」という本を見たきりでいわゆるプロレタリア小説というものは他に知らないのですが、前の二つとも作品としては兎に角運動が目的なら、もう少し熱があってもよさそうなものだと感じましたが、その点君のものには熱が感じられ愉快でした。それに「ゴー・ストップ」 ( 比較は失礼かも知れませんが ) などに出てくる女の関係 変に下品に甘ったるいのがいやでしたが、君のものではそういう甘ったるさなくこれも気持ちよく思われました。

 色々なこと露骨に書いてある所も不思議に不快な感じがなく大変よく思いました。態度の真面目さから来るのだと思います。

 

 それからこれは余計なことかも知れませんが、ある一つの出来事の真相を知らせたい場合は、かえって一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思いました。こういうことは削除されて或いは駄目なのかと思いますが、そういう性質の材料のものは会話だけが読んでいてまどろっこしくなります。

 

 それから「蟹工船」でも「三・一五」でも正視できないようなザンギャクな事が書いてある、それが資本主義の産物だといえばいえるようなものの、またそういっただけではかたづかない問題だと思いました。

 作品に運動意識がない方がいいというのは私は純粋に作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むというような老婆心からではありません。

 

これだったんです、私が感じていたことは。

武田・島木両氏の作風に魅了されるのは、転向後に2人が書いているものがプロレタリア思想を読み手に押し付ける書き方ではなく、芸術家が思想家の頭をおさえて仕事されている文章になっているからだと思いました。

 

 

文面から察するに、この書簡のやりとりは、

小林多喜二が志賀直哉に自分の本を送り、意見を求めたのだと思われます。

対して志賀直哉の書簡は、言葉を選びながらも自分の思うところをキチンと述べていて、彼が追い求めている芸術性から一部の狂いもない意見だと感じます。

 

また、個人的には、里見弴の本のことを引き合いに出しているのが興味深い。

里見より五歳年上の志賀は、小さい時から里見を「伊吾」「伊吾」と呼び弟のように可愛がっていたとのこと。

大人になった里見の方では対等になりたかったでしょうが、志賀にとってはやはり

弟分の愛着が強かったのでしょう。

その関係性と、時に里見の無礼と、志賀の癇癪が、数度に渡る2人の絶好問題になるのでしょうが、

やはりこの書面で、志賀直哉が里見弴に対する情愛の念がわかります。

 

と同時に。

小林多喜二に対する志賀直哉の温かい気持ちも感じられて、素晴らしい手紙に思いました。

 

実はもう一通。

志賀直哉は、小林多喜二のお母さんにも書いています。

こちらも紹介しておきたいと思います。

3.昭和八年二月二十四日 ( おせき様 )

 拝呈、ご令息ご死去の趣 新聞にて承知 誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、叉 お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持っておりますもので、不自然なるご死去の様子をか考えアンタンたる気持ちになりました。

 御面会の折にも同君 帰られぬ夜などの場合、貴女様ご心配のことお話しあり、その事など思い出し一層ご心中お察し申し上げております。同封のものにてお花お供え頂きます。 

 

写真が実際のページ。

古いし、シミだらけだし、透けるような紙で、読みにくいこと甚だしいが、

私にとっては、令和の新刊に勝るパッションを、この本から感じる次第。

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本日の夜ごはん

まずはこの三品から

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カニカマとレタスのサラダには、自家製コーンマヨドレッシングをかけました。

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トラウトサーモンのたたき

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買って一晩おいてしまったので、醤油わさびではなく、ピンクペッパーをかけて食べました。

 

追加の二品

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じゃがバター塩辛のせ

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創作へんなもの⤵

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シュウマイが二つあったので、とろけるチーズをかけて焼いてみました。

「なんだこれ」と言われました。そりゃそうだ。

 

創作その二 明太子うどん

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「汁なしなんだ」と言われてしもた。

そうだな、上田で食べた明太子うどんを進化させ過ぎた。

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ホワイトソースから作ったんですけどね、

たまねぎ、バター、お粉、牛乳で作って、そこに明太子練り込んで、

それをうどんに和えましたの。

やはり汁が良かったかな、味は美味しいと思うんだが。。。