菊池寛の『頸縊り上人』を読んでみました。
菊池寛といえばその風貌と、
文藝春秋 ( 並びに芥川賞・直木賞 ) を作った人ということや、
『父帰る』『真珠夫人』くらいの知識しかありません。
菊池寛は大衆小説作家と言われていますが、初期の頃は純文学も書いていたそうで、
『頸縊り上人』は純文学の路線、なかなか面白かったです。
芥川龍之介の『羅生門』や『六の宮の姫君』とタッチが似ていました。
北村薫さんが『六の宮の姫君』で『頸縊り上人』を取り上げたワケがわかりました。
北村さんは、芥川龍之介が『六の宮の姫君』を書いたのは、これに触発されたという話にしたてていたんですが、なるほどとうなづけました。
《玉突き》のようなもの、確かにという感じの作品です。
内容はお坊さんの捨身行の話
内容はそこそこ偉い上人が、可愛がってたお稚児さんが死んでしまい、
世をはかなんで自分も死んでしまおうと思い立つ。
でも、ただ死ぬんじゃなく三十七日間 無言の行をして結願の日に首をくくって往生しようと思う。
その話を先輩僧侶に話したら、たちまち話が拡散され、都じゅうから
「ありがたい、ありがたい、そんな徳のある上人を一目見たい」と集まってくる。
上人は名声が広がるにつれ、嬉しくなるが、少しすると死ぬのが恐くなる。
ひとりでも別れを悲しんで止めてくれないかなぁと期待するが、誰も止めてくれない。
上人は後悔する、が、皆がヒートアップしてあとにひけなくなる。
上人はとうとう怒りと後悔と悲しみで一杯になりながら、木に登っていくというお話。
その上人の心の流れが、実に可笑しく描かれています。
短篇なので、もしご興味のある方はこちらをどうぞ⤵
それでですね、読んで思ったんですが、
日本人はどうしてお坊さんの捨身行が好きなんだろう。
人が首をくくって死ぬのを見て有難がる気持ちが理解できません。
以前 読んだ井上靖著『補陀落渡海記』もそうでした。
あの、捨身行のどこが素晴らしいのでしょう。
『補陀落渡海記』の主人公の金光坊も死にきれなくて、
結局、周りの人に殺されるような死に方でした。
どんなに修行を積んでも、死ねる境地に至れるものではないように思うんですが、
最期の最後で、後悔するのが人間の本当の姿なのではないでしょうか。
それにこの考え方、キリスト教とは真逆ですよね。
仏教において捨身行は賛美されるけど、キリスト教において自死は大罪です。
死についての観念が、仏教とキリスト教では違うとは。
やっぱり私は自死は抵抗ありありです。
そんな徳を積んだお坊さんがいたとしても、人が死ぬところを見たくもないし、ありがたいとも思えません。
この物語でも、なかなか死なない上人を見て、しびれを切らした群衆が「まだか」と騒ぎ出すという恐ろしい様が描かれてます。
おお、こわっという話でした。
本日の朝ごはん
腰痛のため、お弁当買ってきてもらいました。
本日の夜ごはん
腰痛の方は、一進一退。
エキセドリンプラスっていう腰痛に特化した痛み止めを飲んだら、動けるようになったので、夜ごはんは作りました。
といっても簡単なものばかり。
でも、美味しくないものが二つもあります。
カリフラワーと新たまねぎが苦いんです。
ネットで調べたら、カリフラワーに残留農薬が苦いんですって。
農薬は水溶性なので大量のお湯を使って茹でれば苦味はとれるらしいです。
それって怖くねっ?
恐ろしいんで、茹で直しました。
でも、苦味より別の恐ろしさを感じてカリフラワー残しました。
新玉ねぎの方は、旬を過ぎたのが原因らしく、根本にちょっと苦味がある。
もう生はお終いでしょうか。
残りの新たまねぎは、スープか何かにして食べようと思います。
メインディッシュは、皿うどん でしたけど、
写真撮るの忘れました。