里見弴著『かね』を再読、
つづけて中山義秀著『厚物咲』も読みました。
愛著『扇谷日記』で筆者の島木健作が、里見弴の『かね』を酷評していたから、
どんなものなのか読み比べてみたくなったのです。
島木さんは著書でこう言っています。
昨年に作家等が顔を合した時、中山君が里見氏に「金に感心した」といふやうなことをいつていたのが耳にあつたので、「金」もよんでみたが、これは少しも感心できなかつた。
かういふ人間の生涯を描くには、作者のうちに神があつて、そこからの光りによつて照らされるのでなければ全然無意味である。
作者は一體かういふ生涯のなかに何を見てゐるのだらう。「遺聞」のなかの、常吉にとつて、札は切手やペーパーとおなじだつたのだ、などといふ繪描きの解釈などもなくもがなである。中村の眼を疑つた。 厚物咲 を書いた中山好みのものといふことはわからなくなないが。
島木健作著『扇谷日記』p.41より
『かね』を再読して、島木さんの意見に「なるほど」と思った部分と、「そうかなぁ」と思った部分がありました。
なるほどと思ったこと
「遺聞」というのは「かね」の本編につけたされたもので、主人公の他吉から金を持ち逃げされた絵描きが、他吉の死後、彼の心境を想像する場面です。
私も島木さん同様「この後日談はいらない」と思いました。
絵描きが言っていることは、本編を読んだ読者が考えればよいことだと思うし、
読者にそう考えさせるような文章が書けなかったから付け足されたのかなとも感じてしまいました。
もっと読者を信頼しても良いと思うけれど。
そうかなぁと思ったこと
島木さんがいう「作者のうちに神があって、そこからの光によって照らされるのでなければ無意味」は、ちょっと賛同しかねます。
『かね』は、里見弴には珍しい題材です。←この話はいずれ近いうち。
里見弴は金持ちの家に生れ、学習院に通い、志賀直哉や武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に2人の兄 ( 有島武郎と生馬 ) とともに同人とした参加してきた作家です。
いわゆる、何不自由なく育った人です。
里見が取り上げる題材も、友人の話だったり中流家庭以上の人々の話が多く、
『かね』は里見には珍しい貧しい家に生まれた吃音の男が主人公です。
その主人公の、あまり褒められない生き方を淡々と物語っているところが、私には新鮮で、良いと思いました。
「神の光によって照らされる」という目線よりむしろ、静かに寄り添っている目線の方が、この作品にとっては正解ではないかという想いで読みました。
どうして島木はそう思ったのだろう
『かね』を再読して、島木健作が何故そのように思ったかを考えてみました。
あくまでも私個人の想像ですが、
島木は、里見の文章の中に「鼻持ちならぬ」や「不遜」という感覚を覚えたのではないでしょうか。
金持ちに、他吉老人の生涯がわかるはずがない
母子家庭の島木健作は、苦学して東京に出て、農民に労働組合を説き、共産主義に身を投じた作家です。
そんな島木にとって、里見の育った環境は真逆と言えますから、
「里見に労働者の気持なぞわかってたまるか」と思う気持ちが芽生えたとしても不思議ではありません。
理論で片付けられない、何か《肌が合わない感覚》を里見に対して抱いていたのではないでしょうか。
そんな里見が書くのであれば、同人の志賀直哉のような目線で書くならいい。←『小僧の神様』みたいに、
しかし、島木が得意とするような目線で書かれたから嫌みに感じた、そんなことではないでしょうか。
因みに、中山義秀著『厚物咲』も読んだのですが、
島木さんがこちらをけなさず、『かね』の方だけ気に入らなかった理由もよくわかりません。
『厚物咲』も2人の老人の生涯を淡々と語っている作品で好きでした。
その感想と『かね』の話はまた近いうちに。。。
本日の朝ごはん
朝食によさげなものが揃ったので、和定食にしました。
やっぱり、朝はこういうのが好きだ。
味噌汁は久しぶり。豚汁風にしました。
焦げてるようですが、想定内。
前に食べた時に塩気が薄かったので、塩糀に漬けこんでおいたものです。
丁度よい塩味と旨味があって購入時より美味しくなりました。
最近MOURI がお気に入りのハンバーグ←マルシンハンバーグみたいな商品。
これ食べるならやっぱり白いご飯でしょう。
本日の夜ごはん
「色々豪華にしなくても、俺にはちくわぶ食わしておけば満足」と豪語します。
そうかい?
確かにちくわぶは美味しいが、いつもそればかりだったらショゲるべ?( ´艸`)
本日はそんなちくわぶに、ミールキットから2品追加しました。
揚げ茄子のさっぱり煮びたし
鶏団子と根菜の旨とろ煮
とじ込みは、作り方とちらしを備忘録として