今ごろですが、感動作を読みました。
ほんとに今ごろ。
ずっと興味を惹かれながら、なかなか読めなかった本でした。
図書館では「貸出中」だったり、本屋では、ヘミングウェイの棚にこれだけなかったりで、なかなかゲットできずにいる内に忘れてしまい、数年して波が押し寄せるように、読みたい衝動にかられる。
私にとって「老人と海」は、そんな妙ちきりんな本でした。
「先週 貸出中だったけど、『老人と海』あったら借りてきてあげようか?」
当人がすっかり忘れているのを、一昨日 家人が思い出させてくれました。
そんなことでもなければ、また数年後に欲する本になっていたハズ。
やった! 福田恆存さん訳の本でした。
短い本なので、一日で読了。
内容のほとんど、老人がひとり海で獲物と格闘しているシーンだったので驚きました。
感動した、理由は《畏敬 ( 尊敬 ) の念》が、全編通して溢れている本だったからです。
例えば、少年が老人を敬うさま。
少年は小さい時から老人の舟に乗り、漁師としてのいろはを教わって育ちました。
老人が40日も不漁が続くと、少年は両親から老人の舟に乗ることを禁止されてしまいます。
少年の両親は、もう老人がすっかりサラオになってしまったのだというのです。
サラオとはスペイン語で最悪の状態を意味する言葉。
少年は両親のいいつけにしたがい、別の舟に乗り込んで漁に出るようになりますが、
片時も老人のことを忘れず、老人を慕い、陰に日向に老人の面倒をみようとします。
老人の不漁はさらに続き84日にもなりました。
少年は老人が投網も売ってしまい、食べるものにも事欠いていることに気づいています。
老人が今日食べると言う《魚のまぜご飯》もないことは知っているけれど、
少年は老人の話に合わせて、彼を傷つけないようにしています。
そんな二人 (老人と少年) の会話に多くの《尊厳》を感じて清々しい気持ちになり、
どんどん本にのめり込んでいきました。
老人は「85っていうのは縁起のいい数だ」といいながら、今日は遠出を決意。
誰もいない沖で、かつて出会ったこともないほどの巨大なカジキがヒットしました。
一本のロープを背中にまわしながらカジキを釣りあげるべく奮闘します。
カジキと老人との戦いは3日におよび、カジキとの戦いに勝った後には鮫たちとの攻防がありました。
そんなシーンの中にも沢山の《畏敬の念》がありました。
老人は、時には飛ぶのに疲れた小鳥に話かけ、時には獲物のカジキに話かけ、大敵の鮫に対しても《畏敬の念》を持って話かけます。
「あいつはきれいで、堂々として、怖いもの知らずの猛者だ」というように。
「舟の上ではお喋りはするな」
老人は少年にそう教えてきました。
しかし一人で漁をするようになった彼は大声で独り言をいうようになりました。
大声で、自分で自分を叱咤激励しなければならなかったのでしょう。
塩を多めに積んでこなかったこと、ナイフを研ぐ砥石を持ってくればよかったな、などとつぶやきます。
でもそれは、後悔というより「次はこうしよう」という言葉に近いように私には感じられました。
老人の態度や言葉には、つねに前向きさが溢れているからです。
ひとつだけ 切なかったのは このひとこと。
「あの子がいたらなぁ」
少年がついていてくれたら手伝ってもらえるひとつひとつの作業を、
試練や苦労が襲い掛かるたびに、老人は思い出してしまうのです。
ひとりの今は、全てひとりでやっていかなければならない。
それでも老人はめげません。
港に帰りついた老人の釣果は、、、惨憺たるものでした。
しかし。
老人は、明日に向けて傷を癒すように眠りにつきます。
少年はかたわらに座って、老人の寝姿をずっと見守っています。
この作品を通して、
前向きであることの素晴らしさ、尊敬できるものがあることの有難さを
ひしひしと感じさせられました。
本日の昼ごはん
野菜が足りないのが気になるところですが、まあ簡単に。
本日の夜ごはん
昼の野菜不足を補うばかりの大量なものたち。
かぶ、キャベツ、赤ピーマン、小松菜、玉ねぎ、にんじん、えのき、白菜、舞茸などなど。
その上に少量のごま油と酒をしゃーっと回しかけ、バラ肉を乗せてグリルします。
今日はこれ一品。温野菜のグリル
お皿に取り分けて、洋がらし、ヌクマムで食べます。
味変で、出汁醤油もいいです。
野菜の甘さを味わう大胆な一品。
これしかないというところも大胆かも (;^ω^)