図書館から借りて来た 野田宇太郎の「文学散歩 別巻2」を読み始めたら、
昨日の『護持院ヶ原の敵討』と見事にリンクしている章にぶち当たりました。
なんとも偶然。
いえいえ、これはよくあることです。
本に呼ばれたのでしょう
図書館や書店の本棚を眺めていると「私を読んでみて」とでもいうように、
やけに気になる本があることはありませんか?
私はしょっちゅうです。
手に取ってみると、今興味を持っていることが書いてあったり、読んだばかりの本の関連本だったりするのです。
そもそも野田宇太郎さんは、鎌倉宮のあたりを歩き回っている時に目についた「蒲原有明旧居」の案内板で知った人でした。
詩人であり文学評論家でもある野田宇太郎さんは、蒲原有明さんの文学碑 謹碑に助力をされていた人とのことで、それをキッカケに、野田さんの「文学散歩」という全集をつらつら拾い読みするようになったのです。
今回の別巻2も、何気なく借りてきたものでした。
昨日『護持院ヶ原~』の敵を見つけて尾行するルートを「実際に歩いてみたくなった」と書きましたが、
まさに野田さんは、そこを散歩されていたのです!
これは偶然というよりも奇跡? 巡り合わせ? 何かのご縁?
野田さんがこの章を書かれた年数はハッキリわかりません。
全集は昭和54年に発行されているので、書き溜められたこの文章はもっと以前のものでしょう。
錦町界隈は明治の頃から市電網が張り巡らされていたらしく、野田さんもこう書いていらっしゃる。
駿河台をやうやく降り切った私は、丁度小川町と神保町との境目の駿河台下電車通りに出る。
御茶水から此処に出て真っすぐに走つてゐるこの広い道路は、錦町海岸を突っ切って中央気象台の前をすぎ、そのまま皇居の内豪をめぐって大手門前から元千代田町、宝田町の所謂現在の皇居前広場に通じてゐる幹線道路でもある。
戦前までは御茶水から此の駿河台下を交差して錦町河岸まで市電が通じてゐたが、路線撤収以来そこを通るのは自動車と、電車に乗らない僅かな人だけで、謂わば単なる通り抜けの通路のやうになって、とんと寂れてしまつた。
野田宇太郎著『文学散歩 別巻2』p.21より
上記「路線撤収になった市電」が、赤い矢印の線です⤵
いきなり趣味の古地図を貼り付けて悦に入っています。スミマセン。
何を一人で興奮しているかというと、
実際の敵討ちがあった天保6年 ( 1835 ) の錦町界隈と、
鴎外が『護持院ヶ原~』を書いた大正2年 ( 1913 ) と、
宇田さんが『文学散歩』を書いた昭和40年~50年頃 ( 1965~1975 ) の錦町を想像すべく、
古地図を見比べ楽しんでいるのです。
鴎外がこれを書いた頃には、神田錦町3-18あたりには錦輝館という興行場がありました。
地図でいえば、このあたり⤵
錦輝館の話も、永井荷風や小山内薫にまつわる面白そうな話なんですが、
ダメダメ その話は後日にします。
今日は、野田さんの文学散歩の時代の「護持院ヶ原」の話をするんだった。
もちろん、野田さんが散歩をした頃 ( 昭和40年頃 ) には護持院ヶ原の明地はとっくにありません。
明治の頃にも、上記の大正の地図にももちろんない。
ですが、野田さんが、この界隈を歩きまわって、
昔の風情を思い出しながら、今の現状を伝えてくれる「文学散歩」は本当に面白い。
少しですが、その部分を
そのまま錦町河岸のドブ臭い壕のほとりの電車通りに立った。
前方には気象台がある。
その手前の古い濁った外濠の水をながめながら、次に私の心に浮かんだのは、森鴎外の小説『護持院ヶ原の敵討』に書かれた、その護持院ヶ原のことである。
~中略~
勿論、「護持院ヶ原の敵討」と云ふ小説自体にとって、その敵討のあつた場所が問題になるのではない。あくまでもこの鴎外の晩年に近い、乃木大将夫妻の自刃以後に於ける佳作の一つとして、淡々として私情に溺れず、冷静に人間制止の問題を歴史の中の事実を丹念に拾ひ上げることによつて完全な文学とした、その見事さが大切である。
しかし、明治以来土地の容子が一変して風景美の豊かさも歴史の名残も、何もかも軒を連ねる商店や本屋や、コンクリート建の学校や、アスファルトの匂いの中に殺されてしまつた神田界隈の中で、ふと護持院ヶ原の古い地名を思ひ出し、そこに鴎外の文学碑を打ちたててみることは必ずしも無駄ではない。
と云ふのも、自ら東京方眼図を作製した程の鴎外であつたから、この小説を書く場合必ずや江戸の切図を詳しくしらべながら、護持院ヶ原と新しい神田とを比べながら洋机に向かつたに違ひないからである。
野田宇太郎著『文学散歩 別巻2』p.26より
納得です。
私も鴎外が、明治の地図と江戸の切図を見比べながら書いたのだろうと思い、
ロマンに浸りながら件のシーンを読みましたから。
江戸から明治で、錦町辺りは一変し、鴎外が歩いた明治の風景美もなくなり、
野田さんが「寂れてつまらない町並みになった」というこの通りも、今では首都高が被さるように通っていて、マラソンする人以外にはなかなか人通りのない、さらに味気ない道路になってしまった。
それこそ、現在の内堀通りは、単なる通り抜けの通りになってしまいましたよ、野田さん。
昭和初期の中央気象台の鉄塔
[フリー絵画] 小泉癸巳男 「中央気象台」 (1933) - パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集
参考文献
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=000730630_o
モダン都市東京風景(その3) 新東京百景 藤森静雄 中央気象台: 電脳日和下駄
土木図書館デジタルアーカイブス土木貴重写真コレクション 震災復興公園関係写真 92中央気象台前附近広場
https://sakamichi.tokyo/?p=15804
本日の昼ごはん
どんだけ好きなの? と言われる味噌煮込みうどん
本日の夜ごはん
路上の八百屋さんで買った美味しい野菜の数々が並ぶ夕餉です。
とくにこの椎茸の立派なこと!
焼いて、お醤油と出汁をかけて、裂いたらこんなに少ない。
でも、凄く美味しい椎茸でした。
アボカドも路上の八百屋さんのもの。
パンはOlympicで調達したもの。
Olympicで生八つ橋が目についたので即購入!
ふつう・・・
好きなんです、ニッキの香り。