11月07日記載
最近、本を読んでいてとても悔しい思いをした。
読んでも読んでも頭に入ってこないのだ。
その本は、、、、
円城塔『文字渦』
敬愛する雨子さんが読むのを楽しみにしていたという記事をみて、
これは読んでみたいと思った本だった。
さっぱりわからない
第一印象は、これだった。
日本語になっていない文章 ( ←意図的に ) があったり、既成概念を度外視していることがあったりして戸惑うばかりである。
最初の作品「文字渦」の同じ処を何度も何度も読んだりして、ふと気づいた。
私は固定観念にとらわれているのだと。
常識とか、史実とか、そういうものに囚われて、円城塔さんが発する世界が理解できなかったのだ。
とにかくごり押しで、わかってもわからなくても読み進めていく内に「円城塔は大法螺吹き」と気づいた。
本に書かれたことを全部理解しようとしたり、イメージを膨らませようとするから混乱するのだとわかった。意味不明なところにこだわらずに飛ばす、というか文字を眺めるように読み飛ばしていくと、なんとなくだけれど円城ワールドを愉しめるように気がしてきた。
こんな作品は初めて
今までは、自分の価値観や感性にピコンと反応したことを持って《感動した》とか言ってきたが、そういう読み方では円城さんの本は読めないのだろう。
自分の頭が固くなっていることもあるだろうし、順応性が鈍っているのかも知れない。
危ない危ない。
何とか最後まで読み終えて、ところどころ状況が想像できた部分には笑ってしまった。
私が笑ってしまったのは、こんな話だ。
ある人が開発した印刷機で、それは書いてある内容に合ったフォントを機械が選んで印刷するというもの。
源氏物語を筆のタッチで印刷させたらどうなったか、と聞くと、
開発者は「内容が哀し過ぎて (機械が泣いてしまって) 壊れた。今修理中」
私は勝手に、柳の木の枝が筆を持っていて紙に源氏物語をスラスラ書いている絵を想像した。
これでもわかるように、本を読んで自分なりにイメージを想像するのが、私の読書法なのだ。
しかし、円城塔の作品ではそれが通用しない。
素晴らしいバイブルがあった
四苦八苦した私がたどり着いて、読ませていただいたのが下のブログである。
このブログを書かれている下村思游 (id:Shiyuu) さんの言葉にハタと膝を打った。
円城塔特有の「どこまで本当なのか分からない大法螺成分」は各短篇の題材自体に吸い取られているの
ああなるほど、やはりそうか。
そして、こんな文章にもハッとした。
円城塔の作品を読む上で、ひとつ注意しなければならない重要な点がある。それは、「円城塔は、文章を読み書きする際に、状況描写を画像として思い浮かべるのではなく、文章そのものとして扱う」ということだ。具体的には「山の向こうから日が昇る」という文章を読んだとき、一般的な読者は山越しに見える太陽の画像を思い浮かべるが、円城塔は「山の向こうから日が昇る」という文章しか見ていないのだ。
まさに私が抱いたこと、そのものを言葉にされてくださっている。
下村さんが書かれているように、私は《柳の枝に筆を持たせて》という画像を自分でこしらえて読んでいた一般的な読者だったのである。
今回は、本当に面白い体験をした
円城塔さんの文章が美文であり、才能があると評している方々は沢山いらっしゃる。
まだまだ私如きにはその良さや魅力を十分理解して噛み砕くことは出来ないが、
何か気になるものを提示してくれたのは確かだ。
本を読んでいて、こんなに珍しい体験が出来るのも読書の醍醐味だ。
本は、、、ほんとに奥が深いのだな。←ダジャレじゃありませぬ。
本日の昼ごはん
オムライス
本日の夜ごはん
ザーサイ、棒棒鶏、納豆ツナマヨ
スープ、オムライスの残り、ほうれん草のバター炒め
スープは、棒棒鶏の鶏を茹でる際に出た鶏出汁で、かぶりのほうれん草。