Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

「ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅」

 

レイチェル・ジョイス 著

『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』読了

391頁の長編で、読み終わるまでかなりの時間を要した。

本を読んでいる間中 《歩く》という行為を愉しんでいる気分になった。

 

【内 容】

ハロルド・フライ、65歳、長年勤めたビール工場を定年退職して半年。不幸な生い立ちのせいか、内向的で人づきあいが苦手。家庭でも「いい家の出」の妻と父親に似ぬ秀才の息子にはさまれて身を縮めるように生きてきた。結婚して45年になる妻のモーリーンとの仲はもうずいぶん昔から冷え切ったままだ。そんな彼のもとに、4月のある日、元同僚で20年も前に突然彼の前から姿を消したクウィーニー・ヘネシーから手紙が届く。癌で余命いくばくもないという。クウィーニーはビール工場時代の仕事上のパートナーで、彼が唯一心を開くことができた女性だった。ハロルドは大急ぎで見舞いの手紙をしたため、近くのポストに向かう。だが、どうしても投函できない。かつてクウィーニーがしてくれたことを思えば、手紙の文面があまりにも無様で形式的に思えるのだ。投函できないままに、つぎのポストまでつぎのポストまで、と歩いていた彼はふと立ち寄ったガソリンスタンドで、店員の言葉に触発されて突拍子もない思いに取りつかれる。このまま歩いてクウィーニーのもとに行けば、彼女の命を救えるかもしれない・・・・。

 

こうして、イングランド南西の端から東海岸に位置するイングランド最北端の町ベリック・アポン・ツイードに向けた、ハロルド・フライの「思いもよらない」旅が始まる。思いつきで初めてしまった旅だから、必要な装備は皆無。ポケットにデビットカード入りの財布がひとつあるきりで、地図もなければ携帯電話も持っていない。日頃なんの鍛錬もしていない初老の身体はたちまち悲鳴をあげる。それでも、身も心も極限まで消耗しながら、87日間、1,000kmに余る距離を歩き通す。途中、彼の旅はひょんなことからメディアの知るところとなり、それぞれの悩みを抱えた、あるいは思惑を秘めた人々を引き寄せて集団が形成され、大小の騒ぎを巻き起こしながら「二十一世紀の巡礼の旅」などともてはやされたりする。

 

物語は、そんなハロルドの旅の曲折を軸に、途中で出会い人々との交流、彼らを抱えるさまざまな人生のエピソード、イングランドの魅力的な田園風景の描写などを織り交ぜながら展開される。歩くうちに、ハロルドの脳裏に長いあいだ直視することを避けてきて自分自身と家族の過去のあれこれがよみがえる。そして、そのなかかなら、彼がなぜこれほど過酷で無謀な旅を続けなければならなかったのか、いったい何があって妻とのあいでに決定的な溝ができてしまったのかなど、物語の核心が浮かび上がってくる。

上の文章は、翻訳なさった亀井よし子さんが「訳者あとがき」として末尾に書かれたものだ。

長文だが物語の流れがもれなくわかることと、亀井さんの文章が素晴らしいので書き起こした。

 

外国文学を読むときに障害となるもののひとつに《翻訳の問題》がある。

名作と言われたかつての翻訳の多くは、英文学の大学教授が担っていた。

英文学者の訳は表現が固かったり説明臭かったりして、内容が頭に入りにくかったり、

本の世界観から少しはなれて感じることもあった。

一概に学者の翻訳が悪いわけではない。

しかし文学作品は《文学作品を翻訳するプロの表現者》が別に存在する気がする。

 

亀井さんの翻訳はとにかく読みやすい。

私ごとき「なにをかいわんや」だが、多分、おそらく、いや絶対に、原書の世界観はそっくりそのまま亀井さんの文章に中にある。

この本を最後まで読めたことも、ハロルドだけでなく、妻のモーリーンに感情移入できたのも、ラストでボロボロと泣いてしまえたのも、亀井さんのお陰である。

 

 

この本は、今年7月に観た映画「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」の原作で、

映画を観てすぐ図書館にこの本の借入予約をし、3か月してやっと順番がまわってきたものだ。

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かなり時間が空いたが、映画で得た感動を思い出させてもらえた。

特に映画で気に入っていた妻の心情が、本書にはさらに沢山描かれていて嬉しかった。

 

ハロルドは《歩く》という行為で、自分自身をみつめなおしたり、新たな発見をしたり出来たが、妻のモーリーンは《待つ》という行為で、息子への思いに決着つけられたり、夫への愛情を取り戻せている。

そういう意味でこの本は、ハロルドの物語ではなく、夫婦の物語だと思った。

 

 

映画と違う部分も二つあった。

 ( 以下ネタバレになります )

巡礼者たちの話

映画では、巡礼者たちにテンポや気持ちをかき乱されたハロルドが、彼らから遠ざかり一人で歩きだすという設定だったが、原作では巡礼者の代表が思いもよらぬ行為に至る。

ラストのモーリーンとの話

映画では、クウィーニーを見舞ったあとベンチに座っているハロルドの所に、妻・モーリーンがやって来て隣に座る、という感じで終わるが、原作ではその後の妻との語らいや、クウィーニーの最期を悼みに2人でホスピスを再訪することも書かれている。

 

どちらが良いか難しい。

映画のシナリオもお洒落でいいけれど、原作ではクウィーニーと夫との問題に、モーリーンが置き去りにならない形になっていた分、私は救われた気分になった。

 

映画と原作の好きなセリフ

映画で好きなセリフに Hollow. stranger man  というのがある。

目的を達成しベンチに座るハロルドに、妻がかけるセリフだが、慣用句的には「随分と久しぶりね」という皮肉も入った言葉として使われるものらしい。

でも私は文字通り「こんにちは、見知らぬ人」というニュアンスも残したい気分。

 

亀井さんはどう訳されたか・・・・

「こんにちは、知らないお方」とモーリーンはいった。

「お隣に座ってもよろしいかしら?」

やっぱり亀井さん、カッコいいと思った!

 

 

原作で好きなセリフに、こんなのがあった。

ハロルドをおいて別行動をとり、先に着いた巡礼者たちに対して、ホスピスのシスターはクウィーニーへの面会を丁重に断っている。

そしてあとから到着したハロルドにこう言った。

「じつは、例の巡礼さんちは中にお入れしませんでしたのよ。あの方たちのことはテレビで見ていました。なんだか騒々しいように思いましたので」シスターはそういって振り向いた。彼女がウィンクしたように見えたが、そんなことはないはずだ。

巡礼たちの行いが本物ではないと、シスターは見抜いていたんだなと、気分が晴れたセリフだった。

 

原作はかなり長編だが、映画に劣らず感動作だった。

しばらく私が遠ざかっていた《歩くことで得られる気づき》の素晴らしさを思い出させてくれた有難い一冊だった。

 

 

 

本日の昼ごはん

オムライス

いつもはジュクジュクの卵だけれど、今日は薄焼き。