平野啓一郎 著『マチネの終わりに』読了
【内容】
主人公の蒔野は、若くしてクラシックギターの最前線を背負ってきた天才ギタリスト。
ある日、演奏会後の友人との食事会にて、通信社でジャーナリストとして活躍する、記者の洋子と出会う。
出会った時からお互いに惹かれあった蒔野と洋子だが、実は洋子には婚約者がいた。
東京・ニューヨーク・パリ・バグダッドを舞台に、二人の男女の物語が繰り広げられてゆく。
頭の良い人が書くラブコメは、やはり違うものだと感心した。
主人公の2人 ( 蒔野と洋子 ) は、インテリである。
その2人が出会い、惹かれ合うシーンの描写が素晴らしい。
2人の語彙力や感覚が豊かで、芸術の良しあし ( 当日の演奏の出来 ) を見抜く力が優れている様子がひしひしと伝わってきた。その為に初めて会った食事会で2人が意気投合をし、互いに惹かれ合うという設定に説得力がある。
著者が登場人物が使うであろうひとつひとつ言葉を吟味しているからだと思った。
例えばこんなシーン
蒔野のマネジャーの三谷早苗と洋子が食事会でこんな話をしている。
ひょんなことから、洋子は大好きだった祖母の亡くなった話になるのだが、かみ合わない。
※ 洋子をオレンジ、三谷を青に色分けした。
「日本の祖母は、とても大切な存在でした。⸻祖母は、転んだ時に、庭石で頭を打ってしまったんです。これくらいの天然石で、わたしは子供の頃、よくそれをテーブルに見立てて、赤い難点の実と葉っぱを並べて、いとことままごとをして遊んでました。その石がまさか将来、祖母の命を奪ってしまうなんて。・・・」
すると早苗が慰めるように言う。
「でも、その年齢のおばあちゃんなら、どこで転んで怪我したっておかしくないですし、しょうがないですよ」
「でも、わたしがよく遊んでた、その石だったんです」
「だけど、・・・わかってたら、対処のしようがありますけど、しょうがないですよ」
「ああ、そうじゃないんです。わたしが言いたかったのか、ただ、子供の頃のわたしが、いつか祖母の命を奪うことになるその石で、何も知らないまま遊んでいたっていう、そのこと自体なんです」
「それは、・・・え、だけどそんなこと言ったら、この世界、お年寄りにとっては危険なものだらけなんだし、それで、自分を責めなくてもいいと思いますよ」
「責めてるんじゃないんです。責めようがないですから。そうではなくて・・・」
三谷が酔っているのもあるが、洋子としてはもっと簡単に伝わる話だと思っていたらしく、困っていると蒔野が近づいてくる。
蒔野は三谷と洋子のグラスに赤ワインを注ぎ、自分にも足すと、頃合いを見て三谷に言った。
「洋子さんは、記憶のことを言ってるんじゃないかな」
二人の眼差しが蒔野に集まった。
「お祖母様が、その石で亡くなってしまったんだから、子供の頃の石の記憶だって、もうそのままじゃないでしょう? どうしても、頭の中では同じ一つの石になってしまう。そうすると、思い出すと辛いよ、やっぱり」
洋子は、先ほどとは違った、静かな声でそう語る蒔野を、じっと見つめていた。そして、理解されたという悦びに瞳を輝かせた。
このシーンは更に続くのだが、三谷の凡庸性と、洋子・蒔野の非凡な感受性との対比がよく表れていて面白い。
やがて祖母の死の話から記憶の話に転じ、クラシック音楽もそういった記憶に関係しているのだという話になる。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてくれるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、そのくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
蒔野のこの言葉に、洋子は何度も頷いて話を聞いていた。
初めて会った蒔野と洋子と三谷の会話の中に、3人のキャラクターがよくわかることが素晴らしく、ゆくゆく3人の運命を左右する大事な要素になることも予感させ興味深かった。
洋子という人物
洋子はクロアチア人の映画監督と日本女性とのハーフで美人。フランス語、英語、ドイツ語堪能の才女で、フランスの通信会社からイラクに派遣されているジャーナリストだ。
原作にはモデルがいるようだが、美人でインテリだけではなく、意思の強い行動力溢れる女性である。そういう観点からすると、映画化されたキャスティングは違うように思えてしまう。私は石田ゆり子さんは嫌いではない、魅力的な女性だと思うが「洋子」という役は適任ではないように思う。同じ美人女優であるとしても、石田ゆり子さんよりも井川遥さんの方が、戦場ジャーナリストの匂いがあるように感じる。
因みに、洋子について「マチネの終わりに」の公式ホームページにこんなことが書かれていた。
林真理子さんは流石だ、とうなってしまった。
本日、食べたもの
MOURI が不在だったので、朝 鶏ときのこの炊き込みご飯を炊いて、おにぎりにしたものを食べた。
夜食もこんな感じ・・・