ギュンター・ヴァイゼンボルン 著『炎と果実』読了

1954年に山下肇 翻訳で刊行された古書。
著者の優れた才能と感受性と強さ、
そして著者がおかれたナチスドイツの時代の恐ろしさに触れ、心をわしづかみされる本だった。
ヴァイゼンボルンというドイツの作家に出会ったのはごく最近のこと。
積読していた戯曲「天使が二人天降る」を読み、彼の境遇に興味を持ち入手した本だった。
著者が戯曲家としてデビューしたのはヒットラーが台頭した時期で、彼の名声はナチスドイツの手で消し去られた。彼に限らず1900年代生まれの世代は、不幸極まる世代だ。処女作を1920年代後半から30年代初めにかけて世に問い、三十歳になるかならぬかで忽ち1933年のナチ・ヒットラー制覇の時を迎えなければならなかったからである。
ヴァイゼンボルンの著書も殆ど焚書とされた。
多くの芸術家やインテリがナチに抵抗し亡命した中、ヴァイゼンボルンは敢てナチス・ドイツの国内に留まり、地下の抵抗運動を行い、やがて強制収容所に送られた。
強制収容所に送られた多くの同志が処刑されていく中、彼が死刑から免れ生き延びることが出来たのはまさに奇跡だと思う。
この本は、彼が赤軍 ( 旧ソ連陸軍 ) によって解放されるまでの獄中生活の記録である。
劣悪な環境で餓死寸前の彼らの獄房で、ひとりまたひとりと死刑執行の召喚が来る中、明日は我が身という気の狂わんばかりの状況下で、彼が何を考え、何をよすがに耐え抜いたかがこの本からヒシヒシと伝わってくる。
本の構造
この本は、牢獄の部分、娑婆の部分の話が交互に書かれている。
原文では暗黒の現在を普通活字で、明るい過去をイタリック書体で対比させているらしいが、
日本語訳は、娑婆の話を枠に閉じ込めている。

枠で囲われているのは牢獄の話ではなく、娑婆なのは何故かというと、こういうことだ。
形式上のことをお伝えせねばなるまい。私の生活のうち、世界を股にかけて活動する娑婆の部分の断片はほとんど鉄格子のなかで書かれ、その一部は紙袋に書きつけられたものである。それに反して、獄中の行動の部分は監禁が終わってから書き下ろした。
獄中の部分の単調さを破るために、私はたえず娑婆の部分を獄中の部分に対置し、それによって、あの当時の生活コースについてのある程度複合的な視野をつくりだしたとおもっている。
筆者序言より p.5
本の序言として著者は「この稿を、百年、いや五百年も後になってこの時代のことを読むであろう後世の人びとに送りたいと思う。」と書いている。
この本を読んで戦争の恐ろしさとともに、信念を持ち戦争に抵抗する人の強さと、集団ヒステリーの恐ろしさを改めて知った。そしてドイツ国民の中にもナチにあらがってモノを考えられる人が沢山いたことを今さらながら知った。
この本は、人とは何か、思想とは何か、戦争とはを問う貴重な資料だ。
本国ドイツでは有名な本らしいが、日本でヴァイゼンボルンの本は三冊だけしか発行されていない。
その中の一冊が本書なのだが、いかんせん古い。
私は、日本でも復刻し、多くの人が読めばよい一冊だと思う。
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本日の昼ごはん 2024年12月25日
明太子パスタ クレソン添え

いつぞや買ったガラスのカトラリー置きを出してきた。
ここだけちょっとクリスマス

本日のひとり飯 2024年12月25日
クリスマスだけど、MOURI は仕事からの飲み会

とじこみは、特に心をつかまれた記録
私に対する最後の尋問がまさに不利なまま終わったのち、獄房の戸は私の背後で閉められた。鍵ががちゃがちゃ鳴り、
閂 がきしり、親衛隊員 の足音が遠ざかっていった。
私はじっと考えこんだ。私に対する悪い反証があがったのだ。警部は別の手で王手をさしてきた。これで詰められないですむかどうかが問題だ。私は予期せざるをえなかった。警部と悪戦苦闘しながら、私はHのことばを思い出した。「ゲシュタポで申し開きをする時には、あらゆる手段は正しいのだ。それが第三者にとっては恥ずべきものであっても。」
私はおよそ三か月のあいだ死の境にたっていた。私は爪を切るために鋏を獄房に届けてもらった。哨兵はその間ずっと戸口に待っていた。ゲシュタポでは、われわれの生命にひどく注意深いのだ。にも拘わらず私は、ベッドの麻布にこっそり二か所切込みをこしらえることに成功した。鋏を返すと、その時から私は気が軽くなった。希望ができたのだ。ここから手の幅 ( 四寸位 ) の細長い麻布片を引き裂いて、思う時に自決の用意が出来る。この二つの切込みがどんなに私の思いを高めてくれたことか、私は忘れまい。なにびともつゆ知らぬ切り札を私は握っているのだ。
この切込みは慰めと希望であった。人間は今ここまで壁に押し付けられている。ヒトラーのヨーロッパにおける全勢力が一千万の武器を持ってこの二つの切込みに対峙していた。そして、その切口はともに喘ぐように重く波立ちうねっている。
p.67
私の知っている一番でしかも落ち着いた抵抗者の一人は、言語学者のフィリップ・シェッファー博士だ。かれはすでに五年間の収容所生活を送ってきていた。非合法の学生グループ「赤色連隊」を指導していたからだ。その後、かれはベルリンに住んでいて、ある日、自殺しようとしたひとりのユダヤ人を救おうと試みたのだ。ところが、その際自分が深みに落ちて半年間入院し、改めてわれわれの裁判で拘引されたのだ。休憩時間には松葉杖で歩いている。
かれにはなにひとつ証拠がなかった。かれの仲間はみな沈黙をまもったのだ。そこで例によってかれは、非合法組織の届け出を怠った、ということで告訴されていた。「かれはすでに大逆罪の前科を有するが故に」、死刑が求刑された。かれは最後の発言をゆるされた。
がらんとした広間で、かれは、ドイツ軍将校たちの着席しているテーブルと向かい合って座っていた。生死を裁くこのナチ将官のお歴々はどっしりと幅広い肩に金モールを飾って、高慢ちきに控えていた。飢えて痩せ細った片輪者のかれは、そこから十米はなれてひとり所定の席にいた。その席から骨を折ってやっと立ち上がると、かれは外の世界にむかって「最後のことば」の口をきった。
「みなさん、私はいまここで、なぜ私がこのことを届け出なかったか、と尋ねられた。それにたいして私はみなさんにこたえなければならない、私は警察の下請けではない、と」
そういって腰をおろした。かれは他の誰ひとりとしてかれのことばをきいてはいないだろうことを知っていた。すべてが「秘密」だった。しかし、かれのとなりには、私が座っていて、かれの堂々たる最後の発言をきいていた。私たちが最期に手を握りかわしたときの、あのかれの聡明な顔にうかんだかすかな照れ隠しの微笑が今もなお私の眼のあたりに浮かんでくる。それからまもなくかれは埋められた。
p.118
モアビットの最下層の廊下に、赤いブリキ旗のついた重苦しい獄房が並んでいた。ここには死刑囚がはいるのだ。ドイツ人、フランス人、チェコ人、イタリア人、ポーランド人、オランダ人、みんな死刑の宣告を受けて、プレッツェンゼー行の旅券を待っていた。上の回のだれかが出廷日で死刑をもらって帰ってくると、すぐさまその男はこの下の房に入ってきた。夕方われわれが桶かつぎながら戻ってくると、そういう男たちがシャツを着て戸口に佇んでいるのを見かけた。曹長が幅広のモアビット式バンドを彼らの背中で締めつけていた。バンドの前部には手錠がしっかりと付けてある。電灯はこれらの房では夜っぴて点けっぱなしで、覗き窓の引き蓋も開けっぱなし、夜勤の曹長が房の中をそっくり眺められるようになっていた。自殺防止のためだ。この国民法廷の下働きどもは、自殺者が出ることをひどく警戒していた。それは命令に反するのだろう。この制服をきたドイツ人どもは、奴隷のように愚かしく几帳面に冷酷に命令を守って、ただ「義務だけ」を果たしていた。
p.129
モアビットで廊下当番の手伝いをしていたとき、私の所属のC号第四課の主任⸻働き者の小柄な下士官だったが、別にわれわれ囚人になにも悪いことをしなかった⸻が、私にフランス語を話せるか、と聞いた。私は頷いた。すると彼は一枚の紙を私に渡して、とある房へ私を引っ張っていった。そこには若いフランス人が三人横になっていた。
「その紙を翻訳して聞かせろ!」
それはある検事の訴状だった。それによると、十六人のフランス人がある収容所から脱走して、皆で共謀して色んな店に押し入り、食糧をかっぱらったというのだ。三人のフランス人が私の前に立っていた。三人ともまだ若い、可愛らしい知的な顔をした若者たちだ。その頃地上は真夏でひどい暑さだったから、彼らはズボンを履いているだけだった。私の下手糞な、とぎれとぎれの翻訳を、彼らはじっと注意深く聞いていた。私が黙ると、房の中はしいんと静かだった。三人の土気色の顔から暗いきらきら光る眼が私を見つめていた。最後の結びのところにきた。
「カルガ故に、総力戦ノ時代ニオケル犯罪ノ重大ナルニ鑑ミ、罪ハ死刑ニ該当スベキモノナリ」
この腹のたつドイツ役人の胸糞悪い文章を言い終わった時、私の一番近くに立っていた若者のはだけた胸が大きく波を打ち始めたのが見えた。その下にときめいているのは、若い男の心臓だ。荒々しいリズムで高鳴っている。三人とも息苦しそうに喘ぎ、あぶら汗がだらだらと流れた。「悲観シテハイケナイ。ワレワレハミンナ同志ナノダ」と私は付け加えた、フランス語で。
1人がいきなりにじり出て言った、「俺たちはどうしようもなかったんだ。俺たちは脱走うして、ベルリンに潜っていた。食わなきゃならなかったんだ。ここは敵国だからな」下士官が訊いたが、私は通訳してやらなかった。夜、スープの分配の時、私は彼らに一杯よけいやった。一週間後に彼らはプレッツェンゼー行となった。
だが、私はあの絶望的な若いフランス人の心臓を決して忘れないだろう。あのとき裸の胸の下に高鳴って、いまははやドイツの土と化したあの心臓を。
p.132
秘密通信より
モアビット、43年7月22日
・・・しょっちゅう人を呼ぶ声のするこの大建築の中も、今は静かです。今日も外で二度「C4の475号!」という声がしました。僕のことです。僕は今、僕の席である小さな組み立て椅子で食事をすませたところです。ここはシュパンダウの冬のようなことはありません。あれは僕にとって怖ろしい思い出です。あそこの棟では、僕らは36人でした。そのうち禁固刑になったのはたった4人、僕もその1人で、あとはみな死刑、恩赦はなし。僕らは朝のどんよりしたなかで、雪に埋もれた暗い庭を散歩しました。頭の上を鴉が不気味な声で鳴きたてて、ますます死刑が重苦しくなり、次第に小止みなく近づいてきました。それでもぼくらはこの雪のように白い痩せさらばえた顔を硬ばらせて白い息を吐きながら笑いあいました。飢えのためにほとんど倒れんばかりでした。この陰鬱な家のなかにはひっきりなしに怒号が聞こえ、冬の間中火の気はなく、ほんのときたま、午後の4時から6時までスチームの通ることがありました。いつも怒鳴るのは、監守たちと二階の狂人です。まったく地獄でした! 書物も筆記具もとりあげられてしまったので、ぼくはクリスマスにもなにひとつなく、暗い寒い房で空腹をかかえてじっとしていました。それでも僕らは笑って、元気を出し合ったのです。
ワルター・Hは偉かった。僕はあんな英雄的な男を見たことがありません。彼は僕の二つ隣りの房にいました。1月のある日曜日のこと、彼は窓から叫んだのです。風のなかで僕にはハッキリ聞き取れなかったが「ギュンター・・・君が外に出たら・・・みんなに言ってくれ・・・おれは喜んで死んでいった、とね・・・」と。
男の悲しみは、その男が笑わないということでは表せない。本当の深い悲しみはその人の内部に根を生やし、その人の悦びにも思想にも浸みこんで、決して消えない。多くの悲しみをもつ男は、それに負けないために、多くのユーモアを必要とするのです。
武器をもたぬということはこの世では最も怖るべきことです。僕は、武器を持たないで誇らかに嘲るように落ち着きはらっていた一人の男を好きになりました。彼はそのようにして断乎死地につきました。僕の称賛してやまない男です。「廻れ右!」という号令がかかると、いつも僕らはドタドタと二、三歩足を踏み出してしまって、たがいに笑い合うのでした。それでなにか共通なものを感じあっていました。監守は怒ります。彼は法廷で非常な好印象を与えたらしいく、ゲシュタポの一人が話してくれたところによると、裁判官が、こういう男が敵側にいるのは惜しいことだ、と言ったそうです。彼は僕のすぐ前を召喚されました。右の下腕に16針縫った痕があっって、それは彼が尋問の際、ゲシュタポ警部に二人の名をあかしたくないばっかりに、拷問の末、窓を壊して飛び出そうとしたからでした。
p.142
彼はジーメンス ( ドイツの代表的な重工業の大会社 ) のエンジニアだった。彼の房には大きな製図版があって、特殊な製図が沢山乗っていた。毎週ジーメンスから使いの者が来て、出来上がった仕事を持って行った。彼の経緯はこうだった。
彼の妻が彼を飛行場から連れて帰ろうとした時、彼は一緒に帰るわけにはいかなかった。まだ一機着陸するのを待っていなければならなかったのだ。彼女の質問に対して彼は答えた。この飛行機は俺の仕事なんだ。ロケット機だからな。その言葉を妻は彼女の父親に伝えた。父親が密告した。死刑が彼を待っていた。まだ未決拘留中に、彼は妻の離縁状を受け取った。
元気で快活な、気のいい男だった。彼の出廷まではもう私は見届けないでしまった。彼の妻とその父親は今でもきっと生きていることだろう。
p.152
われわれは便箋があるかと思って、ある店にはいった。
ところが私はいの一番にまた引き返してきてしまう始末だった。
店の戸口にたちどまると、私はいつもの癖で、またその戸口をあけて監守の奴がでてきやしないかと思ったのだ。あとでやっと私は、人間は自分の家の戸を自分で開けるものだということをはっきり飲みこんだのである。
戸を自分で開けてもよいというこの味が、天にも昇るほどの嬉しさなのだ。
p.248