Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

フタコを歩く Vol.4 岡本の武家屋敷門

 

小坂家旧宅から更に進むと、武家屋敷門がトレードマークになっているマンションがある。

昔は、日産の創業者の鮎川義介氏のお宅だったのがマンションになり、

今ではこの武家屋敷門は、マンションの管理棟として使われているそうだ。

世田谷区指定有形文化財 ( 建造物 )

武家屋敷門

所在地  世田谷区岡本1-3 多摩川テラス敷地内

所有者  多摩川テラス自治会

指 定  昭和54年10月25日

建築形式 一重 切妻造 本瓦葺 背面一間下屋付

規 模  裄行 69尺 ( 20.9m )

     梁間 22.4尺 ( 6.79m )

 

この武家屋敷門は、もと岡山藩主池田家筆頭家老を代々勤めた、伊木家の下屋敷の表門であった。この下屋敷は荒手あらて屋敷とも呼ばれ、後楽園の下手の中州にあった。屋敷内には茶室も多く、十四代伊木忠澄は三猿斎さんえんさいと称し、茶人としても名高い。

 

昭和12年、河川改修工事のため水没する屋敷地内の門及び茶室を、鮎川義介氏が譲り受け、千代田区紀尾井町の自邸内に移築した。その後、昭和38年屋敷を現在地に移し、その表門として使用されていたが、昭和53年多摩川テラス建設にあたり、場所を移動して復元保存された。

 

門の形式は長屋門で、屋根を切妻造、本瓦葺とし、外壁は腰が海鼠なまこ壁で、他は漆喰の塗壁ぬりかべ造りとなっている。

間取りは、向かって右手が番所ばんしょ、左手が納戸なんど部屋となっており、番所は正面に出格子、門扉に向かっては与力よりき窓がそれぞれ付き、格式の高さを示す。

中央には両開きの扉が入り、また、向かって右手には片開き戸 ( 潜り戸 )、左手は板壁となっている。両開扉の親柱おやばしらの柱間寸法は10.05尺 ( 3.05m ) 、材質は、門扉は杉材、親柱及び冠木かぶき出桁でげたはいずれも松材が使用されている。

門扉には、吊り元に八双はっそう金物、饅頭まんじゅう金物、菱形の釘隠くぎかくしも付けられている。

建築年代は不詳であるが、部材の風触、各部の仕様、下屋敷り造営史等から、江戸時代中期 ( 十八世紀末期 ) 頃と推定される。

当門は、大藩の家老屋敷の表門としての格式を示す遺構として貴重である。

昭和59年3月

世田谷区教育委員会

 

この門は昔、通りに面したところにあったと記憶しているが、

今ではマンションの奥にあるので、曳家されたと思われる。

 

それにしても鮎川さんは凄い!

この門を岡山から東京・紀尾井町に移築されたのにも驚かされたが、

紀尾井町から岡本に移転する際にも門を持ってきたとは。

よほどこの門がお気に入りだったのだろう。

 

 

鮎川義介さんと門の変遷を調べてみた

鮎川義介  1880年 ( 明治13年 ) 11月6日生~1967年 ( 昭和42年 ) 没

 

人事興信録から鮎川さんの住所の変遷をたどるとこんな感じだ。

1915年 ( 大正4年 ) には小倉紺屋町七に居住。

1928年 ( 大正12年 ) に、東京 牛込の市谷左内町36に居住。

 ・・・・・・・・・・・・

1941年 ( 昭和16年 ) は、東京市麹町區三番町6-18となっている。

1943年 ( 昭和18年 ) の人事興信録第14版の住所も、三番町6-18、

第15版には記載がなく、

1951年 ( 昭和26年 ) に発行された第16版の記載に、やっと紀尾井町が住所になっている。

 

ところが門の方は、先の看板には

「門は昭和12年に譲り受け、千代田区紀尾井町の自邸内に移築」となっていて、

鮎川さんの居住地の年と、門の移築年数に齟齬が生じている。

 

考えられるのは、こんなことだ

  • 昭和12年に譲り受けた門をどこかに移して保管していた
  • 昭和12年当時、鮎川さんは三番町に住みながら、紀尾井町に屋敷を建設中
  • 昭和12年当時、鮎川さんは三番町と紀尾井町にふたつ家を持っていた
  • 看板の記述が間違っていた

古い資料だし戦争をまたいでいるので、実際のところはわからないが、

門が岡本町に移築された年は、人事興信録と看板が合致しているので、昭和38年で間違いないだろう。

 

以下は参考資料

 

人事興信録 第4版 1915年 ( 大正4年 )  鮎川義介 (第4版) - 『人事興信録』データベース

住所:小倉紺屋町七

爵位・身分・家柄:山口縣士族

職業:戸畑鑄物株式會社會長

記述:當家は長州萩に其祖を發し代々毛利家に仕へ中士以上の家格を有し郡奉行の役を勤め彌八に至る 君は其長男にして明治十三年十一月六日を以て生る夙に工學に志し明治三十六年東京帝國大學工科大學機械工學科を卒業して工學士の稱號を得直に芝浦製作所に入り務を取り鑄物事業に目的を立て渡米して研究し歐洲を巡視して歸朝し戸畑鑄物會社を組織して其取締役社長となり内外一斑の業務に鞅掌せり 姉スミ子(明一一、八生)は三菱合資會社庶務部長木村久壽彌太に妹キヨ(同一六、四生)は鑛業家久原房之助に同フシ(同一八、一一生)は鑛業家貝島太市に嫁し同ヨシコ(同三〇、六生)は山口縣人小川資源の養子となれり

 

人事興信録 第8版 1928年 ( 大正12年 )  鮎川義介 (第8版) - 『人事興信録』データベース

住所:東京 牛込、市谷左内町36

爵位・身分・家柄:山口縣士族

職業:戸畑鑄物、久原鑛業、中央火災傷害保險、共立企業、帝國鑄物、木津川製作所各(株)社長、東洋製鐵、不二塗料、東亞電機各(株)取締役

記述:君は山口縣士族鮎川彌八の長男にして明治十三年十一月を以て生れ大正十三年家督を相續す明治三十六年東京帝國大學工科大學機械工學科を卒業し芝浦製作所に入り後米國に航して鑄物製造の實地に就き硏究し歸朝後戸畑鑄物會社を創立して取締役社長となり範を歐米の會社に採り本邦鑄物製造に新機軸を出せり現時同社々長たる外前記諸會社の重役として知らる 家族は尚長女春子(大九、一生)あり 姉スミ(明一一、八生、山口高等女學校出身)は三菱合資會社總理事木村久壽彌太に妹キヨ(同一六、四生、出身校同上)は衆議院議員久原房之助に同フシ(同一八、一一生、出身校同上)は鑛業家貝島太市に同サダ(同二六、一〇生)は工學士井上達五郞に同ヨシコ(同三〇、六生、長府高等女學校出身)は故工學博士近藤陸三郞長男眞一に嫁し弟政輔(同二二、二生、理學士)は東京府人藤田文の養子となれり 

 

 

人事興信録 第13版 1941年 ( 昭和16年 )  人事興信録 第13版上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:新京特別市五色胡同213、東京市麹町區三番町6-18

鮎川義介氏邸 - 代表作品 - 藤木工務店

 

 

人事興信録 第14版 1943年 ( 昭和18年 )  人事興信録 第14版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京市麹町區三番町6-18

 

人事興信録 第15版に記載なし

人事興信録 第16版 1951  ( 昭和26年 ) は、紀尾井町

 

人事紳士録 第21版 1961年 ( 昭和36年 )  人事興信録 第21版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京都千代田区紀尾井町6-331

 

人事興信録 第22版 1964年 ( 昭和39年 )  人事興信録 第22版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京都世田谷区岡本町1169

 

人事興信録 第23版 1966年 ( 昭和41年 )  人事興信録 第23版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京都世田谷区岡本町1169

 

人事興信録 第24版 1968年 ( 昭和43年 )   人事興信録 第24版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京都世田谷区岡本町1169

 

人事興信録 第25版 1969年 ( 昭和44年 )  人事興信録 第25版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

住所:東京都世田谷区岡本1-3-23