Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

フランスに忘れられたデュマ将軍

 

トム・リース著 『ナポレオンに背いた黒い将軍』読了

2段組みで注釈が多い本だったので、読み終わるのにかなりの時間を要した。

この本は『モンテクリスト伯』の著書であるアレクサンドル・デュマの父親、デュマ将軍について書かれたもので、小説ではない。

 

作者はトム・リースというユダヤ系アメリカ人。

彼はデュマ将軍の終焉の地ヴィレル・コトレにある博物館や、ヴァンセンヌ城に隣接するフランス軍 記録保管所を訪ねてデュマ将軍関連の資料を読み、これにまとめている。

 

本書を読み、私はひとつの疑問を抱いた。

なぜデュマ将軍は、フランスの歴史から置き去りにされたのか、という疑問だ。

デュマ将軍の資料が乏しかったり、彫像がなかったり、語り継がれていない背景には、

なにか事情があり、意図的に抹殺されたのではないかと思った。

その理由が政治的なものか、民衆心理なのか、歴史的敗者の由縁なのかわからないけれど、

彼のことがフランス国民からタブー視されているのではないかとふと感じてしまった。

 

仮にデュマ将軍が不人気だとしたら、それはフランス人にとってのナポレオン人気との対比かも知れないし、もしかしたら彼がムラート ( 黒人とフランス地の混血 ) だったということも関係するかも知れない。

 

デュマ将軍のわずかな痕跡

デュマ将軍がかろうじて後世に伝わっているのは、息子の功績によるものが大きい。

作家として大成した息子-アレクサンドル・デュマは、幼い時に亡くした父を愛し尊敬し、自叙伝の多くのページを費やし父のことを綴っている。

彼の多くの作品にも、父親の印象が色濃く盛り込まれている。

もし「アレックス・デュマ」という大作家がいなければ、デュマ将軍はとうに忘れられていただろう。

 

アレクサンドル・デュマ美術館は、デュマ・ペールにまつわるコレクションが中心で、その次に息子で『椿姫』の作者・デュマ・フィスのコレクションが中くらいの部屋に所蔵され、父親の将軍のコレクションは小さな部屋に少しあるだけとのことだ。

 

 
敗者の史実はそんなもの?

日本では源義経のように、判官びいきにされる人物もいるにはいる。

だが、多くの敗者は古今東西、歴史の闇に葬られる。

デュマ将軍もナポレオンに追従しなかった為 不遇の最期を遂げ、歴史からも置き去りにされた。

 

 

立ち位置による印象の違い

こうした人物記を読む時、いつも面白いと思うのは、

〔どちらの側にたって見るかによって180度ものごとが変わってみえる〕ことだ。

 

昨今は、ナポレオンを英雄視してフランス史をみることが多いだろうけれど、

当時のヨーロッパ人にとってナポレオンは英雄でもあり、悪人でもあり、異端者でもあった。

共和主義者から見た場合、ブルボン朝側から見た場合でも、いち人物の善し悪しは逆転する。

本書はデュマ将軍が主人公なので、必然的にナポレオンが独裁者となり、デュマ将軍は軍人たちに愛されている良き上官に描かれている。

※ それが如実に伝わる記述があったので、末尾に転記する。

 

本書のテーマは、デュマ将軍がいかに世の中から忘れられた存在であるかを世に問うものだが、彼の不遇さはこのエピローグからもひしひしと伝わってきた。

かつてパリには、デュマ将軍の彫像があった。

19世紀後半にこうした彫像を専門に活躍した彫刻家アルフレッド・ド・モンセルが制作した彫像はマルゼルブ広場に建てられ、将軍、息子の作家、孫の劇作家の三人の彫像があったこの広場を、人びとはいつしかトロワ・デュマ広場と呼ぶようになった。

 

制作依頼がもちあがったのは1890年代、フランス国内で一世紀前の革命戦争への愛国的な懐古が高まった時期のことだった。デュマ将軍の銅像を建てる資金の出所は、国は軍関連の組織ではなかった。

彼の息子⸻かつて父親の彫像の建立を目指したが実現しなかった⸻の作品のファンによる小さなグループが、購読料によって資金を集めた。資金集めの先頭に立ったのは、当時のフランスの大物有名人、作家アナトール・フランスと女優サラ・ベルナールだった。ベルナールはそのために特別劇場公演も行っている。

 

じっさいに彫像が制作されるまでに十年以上の月日がかかり、1912年秋にセーヌ川右岸のマルゼルブ広場に設置されてからも、官僚的不手際から、官令によって一年近くのあいだ幕がかけられたままにされた。

p.326

 

結局その彫像が正式に除幕されたという記録はなく、1941年から1942年にかけての冬、彫像はナチスドイツによって破壊されてしまったという。

ドイツ占領軍はフランスの彫像数百体を溶かしてしまった。

 

時はうつり2000年代になり、クロード・リブというグァドループ島出身のフランス人作家兼政治活動家の呼びかけに賛同したパリ市民が動き出した。

リブ氏は「なぜデュマ将軍にはレジオン・ドヌール勲章が授与されないのか?」と訴えた。「革命軍の将軍はひとり残らずもらっているのに! なぜナチスが彼の彫像を壊したあとで、ふたたび作らなかったのか? パリには街角ごとに彫像が立っているのに。人種差別、まったくの人種差別だ」

 

彼の熱心な運動は実を結び、その提案に賛成したパリ市長は巨大な奴隷の足枷のブロンズ像を作った。二十一世紀フランスの人種問題をめぐる政治のなかで、デュマ将軍の彫像は、フランス植民地の奴隷制の犠牲者全員を記念する象徴的な像に変形してしまった。

 

作者は最後のこう記している。

フランスにはいまだ、アレクサンドル・デュマ将軍の生涯を記念する彫像はない。

 

 

 

 

 

 

本日の昼ごはん 2025年02月08日

一木食品の赤辛ラーメン

これ、ズズズッと吸うとむせるほど辛い 💦

 

 

本日の夜ごはん 2025年02月08日

モランボンのトマト鍋を作っています、まずその前に・・・

三品盛は、そぼろ納豆、笹かまぼこ、ゴマ物語

 

トマト鍋 完成しました!

鶏肉と茄子は別のフライパンで焼き目をつけたものを入れます。

にんにくの丸もゴロゴロ入っています 

 

マロニーちゃんは入れたけど、じゃがいもを切らしていたのが残念。

 

 

 

備考

デュマから見た話と、ナポレオンから見た話の違いが書かれた箇所をとじ込みに記しました

 

ナポレオンはデュマを叱責した数日後、彼を自分の居室に呼び寄せ、ドアに閂をかけた。

アレクサンドル・デュマがこの場面を描写している。

( 彼の父親が副官のデルモンクールに語ったことを聞いて書いたものらしい ) 

 

「将軍、きみのわたしに対するふるまいはひどく、軍の士気を落としている」

ナポレオンは彼に言った。

「ダマンフールでのことは何もかも聞いて知っている・・・わたしは将軍を撃つときも、太鼓打ちの少年を撃つのと同じく躊躇することはない」

「そうかもしれません、将軍」デュマは言った。

「だがあなたにも、撃つ前にもう一度考え直す相手はいるでしょう」

「わたしの計画のじゃまをするやつは別だ!」

「待ってください、将軍、さっきあなたは規律に関する話をしていました。いまはご自分のことしか言っていない」デュマは言った。

「たしかに、ダマンフールでの集まりは事実です・・・〔そして〕たしかに、わたしはこう言いました⸻祖国の栄光と名誉のためには世界一周でもする。だがあなたの思いつきのためには、最初の一歩を踏み出すつもりもないと・・・」

「つまり、デュマ、きみはふたつの分けて考えているのか。フランスをいっぽうの端に、わたしを反対の端に置いて」

「フランスの利益は個人の利益よりも大事なものです、それがどんなに偉大な人物であったとしても・・・祖国の栄華を個人の栄華の下に置くべきではない」

「つまり、きみがわたしから離れる覚悟ができていると?」

「そうかもしれません、わたしは独裁者には賛成しません、スッラでもカエサルでも」

 

デュマが部屋を出ようとすると、ボナパルトはつぶやいた。

「わたしの栄華を信じないとはなんという盲目か」

 

同じときの会話でも、ナポレオンから話を聞いたデジュネット医師の回想は少し違う。ナポレオンの説明には、心理の微妙な動きがあらわれていて興味深い。たとえば彼は、デュマの理想主義の潔癖さが彼の弱みだとすぐに気づいた。デジュネット医師の回想によれば、ナポレオンはまず、彼にデュマ将軍のことをどう思うかと質問して、この話を始めた。

「きわめて情け深く親切な性質と、兵士としてはこの上ない武勇、どちらもあわせもった方ですね」医師は答えた。それに対してナポレオンは、デュマは彼の計画を阻もうとしたと言い、デュマには、もし彼が「カイロより先に行かないと言っていたら、問答無用で〔彼を〕撃っていただろう」と言ってやったと語った。「デュマは礼儀正しい態度でその言葉を受け止めた。だがわたしはさらに言った。『銃で撃ってから、擲弾兵に裁かせ、きみの評判を地に落としてやっただろう』と。すると〔デュマは〕泣きだし、とめどなく涙を流した」ナポレオンはさらにデジュネット医師に言った。とはいえ彼は、「〔デュマが〕ひとりで橋の入り口に立ち、騎兵縦列を阻止したすばらしい武勲を思い出し、すぐに気持ちが落ち着いた」だがデュマがエジプトを離れることには反対しなかったと、ナポレオンは言った。「あいつの共和主義という戯言と短気ないらだちは、どこかよそにもっていけばいい」

p.249